第一話 二匹は旅立つ
薄暗い天幕の中は、サーカスの興行の歴史で満ちていた。テーブルに置かれた小さなランプが、
天幕の中の一部分を切り取ってみせる。
壁に貼られた今年の春興行用のポスターには、筋肉隆々の大男・セントバーナードが樽を持ち上げ、その上で、一人の美しい人、メスのポインターが片手で逆立ちをして、ウインクをしている。
ポスターの下の箱には、去年までのポスターが何十本も突っ込んである。
大きな宝箱のようなデザインの箱からは、飾り付けの為の色とりどりのリボンが、溢れている。
天井からぶら下っている足は、吊り下げられている等身大のマリオネットのものだ。今も暗闇の中で笑みを浮かべていて、揺らめくランプの炎に照らされて、ついさっきまで喋っていたのだが、今は、突然の闖入者にそっと唇に人差し指を当てたようだ。手品用の白バトの夫婦も、籠の中で身を寄せ合ってじっと動かずに、しかし聞き耳を立てて、暗闇の中の物音を聞いていた。
テントの縞模様の縞をさっ、っさ、と移動する二つの影。暗闇の中で、二人はお互いの顔も見えず、息遣いも抑えていた。二人で話をする時には、そっと相手の耳に口を寄せる。
二人は、ある場所までこそこそと接近する。それは、大きな机だった。別々の引き出しを手分けして引っ張り出すと、暗闇の中、中に何が入っているか見えず、手を突っ込んで、一つ一つ触ってみる。取り出してみて、眼の上に翳し、おぼろげな形で判断する。嗅ぎ終わると、一人は几帳面に引き出しに戻し、一人は、後ろに向かって放り投げて、何か気に入ったモノがあると、ポケットに忍ばせた。
月がほんの少し動いたころ、片方がいらいらとした声を上げた。
「つーか、このままじゃあ、ジュン、埒があかねーよ」
「こ、コタロウ、駄目だよ、声だしちゃあ」
少し小柄な方の影が、大きな声を出した相手の口を一生懸命押さえ込もうとする。抱き合ったまま、くんずほぐれず、片方が上になって片方が下になって、転がった。
鳩の夫婦がその音に反応して、籠を揺らす。片方の鳩が、籠の戸を嘴で開けると、音も無くテントの外に飛び去った。
二人はそれに気が付かない。
「いいだろいいだろ。やっこさん、アレだけ気持ちよさそうにワイン飲んでんだ。こっちの事になんか、気が付きゃしねーって。大体、サロン様に使ってるテントとは、十分離れてるんだ。今のまま、
やってても駄目だ。探し物なんかみつかりゃしねーよ」
もう俺、後ろに投げちまったかもしんねーし、と言って、ポケットから出したマッチ箱を出す。ちょっと、それを見つめてから、後ろに放り投げる。そして、ポケットをもう一度探り、先ほどからの作業中の収穫物である、ジッポーを取り出した。彼のポケットは、盗んだものでパンパンだった。
そして、机の上にひらりと飛び乗ると、大きなカンテラに火をつけた。
煌々とした明かりに照らされたのは、赤茶色の毛並み、深い緑色の眼をした犬だった。緑色の半ズボンにシャツ姿で、机から垂らした足をブラブラさせながら、黒い鼻をヒクヒクとさせている。
机の下から、彼を見上げるのは、やはり犬で、同じように青い半ズボンとシャツ姿の白いフワフワとした巻き毛のトイ・プードル。青い眼は、不安げで上目がちに、机の上に居る明かりをつけてしまった犬を見つめている。
机の上に居る、この良い性格をした犬が、コタロウと呼ばれていた犬であり、下に居る犬が、ジュンと呼ばれた犬だった。
「もう、判ったよ。でも、バレても僕の責任じゃないからね」
ジュンは仕方ないなぁ、とまだ何か言いたげだが、言っても相棒は聞かないだろうと諦めた。
長年の付き合いで判っているのだ。
コタロウの腕っ節の強さと、その短気さ加減には、どんな薬も付けられたものじゃないと。
「物分りがよくて助かるぜ。大体、犬ってのは、猫と違ってそんなに夜目は利かないんだ。
お前の匂いがついてるっていっても、もう何年前の話だよ」
「うーん、良く覚えてないけど。僕が赤ん坊のころに持ってたって言うから、もう10年は前だよね」
「そんなに前じゃなー。あの毛無しが、どっかに売っぱらっちまったんじゃねーの?」
「団長は、僕が大人になるまで預かっててくれるって言ってたんだ・・・。だから多分、ここいらにあるはずだよ」
毛無し、とは、彼らのサーカス団「満月の夜に」の団長、ルイ・ファッカーニの事である。彼は、全身の毛が薄いことから、影ではそう呼ばれていた。
「あの、あの団長だぜ?俺たちがいままで、サーカスで働いてきて、一度たりとも給金も、小遣いもくれた事の無い、ケチ爺。そんなもん、今頃質屋で寝てんじゃねーのかなって・・・そんな眼で見るなよジュン」
「だって・・・。あれだけがお母さんの手掛かりなんだ。諦めつかないよ。ここから出てく前に、あれだけは持って行きたいんだ」
「ちっ、判ったよ。もう少し探してやる。でも、無かったら諦めろよ・・・。そうだな・・・」
コタロウが、ポケットを探ると小さな金色の懐中時計が出てきた。もちろん、彼の先ほどの行為の戦利品である。
どうせ安物の真ちゅう製だろうと、頂いておいたのだ。カンテラの灯りの下だと、海上を漂う大きな
瞳が描かれているのが判った。デザインは悪いが、意外に高いものかもしれないと彼は少し舌を出した。
パチリっと時計を開くと針は21時前を射していた。
「あと、一時間。ひっくりまわしまくる。今夜12時の例の奴に乗って、このサーカスともお別れすんだからな。それが、ぎりぎりだぜ?」
「ありがとう、コタロウ」
「男が泣くなよ」
コタロウはそう言って、ジュンの目元の涙を拭ってやると、目ヤニが付いた手をズボンで拭いた。
喧嘩っ早く、大将風を吹かせるコタロウも、長年一緒に暮らしてきたジュンに甘かった。
二人は大抵のものをひっくり返し、探し回った。まるで夜盗が入ったかのように、テントの中は乱れた。次第に、探し回るのが楽しくなって、少々の音を立てようが、構わなくなった。
そして、二人は棚の写真立ての奥に隠された、平たい金庫を見つけたのだった。
「でも、鍵無いと開けらんねーな」
「そうだね・・・」
コタロウは時計を見る。
「あと十分。これ以上遅くなると、まずいぜ」
「何が、不味い」
入り口から聞こえた低い声に、二人は背筋を伸ばした。テントの入り口には壮年の男性が立っていた。
白いシャツに、黒いズボン。背が高く、枯れ木のように細い。口髭を生やし、ワインと外の夜風に
吹かれ、すこし紅くなった頬は、強い感情で震えている。右手に握った短い鞭を強く握り締めていた。
「何が、不味いって、これ以上遅くなったら、逃げ出す時間がなくなっちまうって事・・・」
コタロウが不用意に喋りだしたのを、ジュンがばっと動いて、コタロウの口を押さえる。
そして、あれ、あれ、と男の方を、指差した。コタロウは、漸く気が付いて、ジュンの前に低く唸りながら、立った。
男は、コタロウの唸り声など、鼻にも掛けなかった。
「ほう。性懲りも無く家出しようって訳か、コタロウ、ジュン。また、随分と荒らしてくれたもんだな」
男性は、厳しい目線で、ごちゃごちゃになったテントの中を見渡した。
「ファッキーニさん!違うんです。僕達ちょっと探しものを・・・」
「ジュン、もうばれちまってるよ。そうだよ、今度こそホントに俺たちこのサーカスを出てくんだよ!
給料も貰わずに、これ以上ここで働いてくなんて真っ平ごめんだって話だよ、爺!」
コタロウは、強く啖呵を切る。もう、お暇すると思えば、怖いものなど無いように思えた。
「お前達、ここまで育ててもらって、その上、芸まで仕込んでやったってのに、その恩を忘れるとはな。」
「うるせえ、今まで奴隷みたいに働かせてきたくせに!ジュンの母親の持ちもん返しやがれ!それとももうやっぱり売っちまったのか!」
「ご主人様になんて口の利き方だ、小僧。毛の下が腫れ上がるまで、鞭打ちして欲しいみたいだな。いや、それだけじゃ駄目だ。三日間は飯抜きにして、猛獣小屋に吊るしてやる」
ファッキーニには、右手の短い鞭で左手の手の平を打つ。小さく乾いた音に、二人は耳を平らにして、尻尾を垂れ下がらせる。幼いころからされてきた折檻は、二人に潜在的な恐怖心を植え付けていた。あの鞭で二人は、子犬のころから芸を仕込まれてきたのだ。
団長が求めるのは、完成度の高い芸のみ。涙を流しても許してもらえず、失敗すれば飯抜きというのも、日常茶飯事だった。
震えて、何も言えないコタロウに、目配せをして、ジュンは前に出た。コタロウは、その仕草に震えが止まった。そして、小さな頭をフル回転させて、何かをしようとしてるジュンを助けようと思った。
何時でも、助け合ってきた二人には相棒が何か考えてるなんてことは、直ぐに判った。
「ファッキーニさん、僕たち、諦めました。罰はどんな事でもうけます」
「ふん、茶色いガキと違って、白いのは、良く判ってるじゃないか。だが、騙されないぞ。
外側の白さに比べて、腹の中は真っ黒だ。ま、犬どもは大抵そうなんだがな」
鳩が一羽、ファッキーニの肩に停まる。彼は、信用できるのは、脳ミソが胡桃ほどの奴らだけだ、と
吐き捨てた。
「違うんです。ファッキーニさん。コタロウは悪くない。悪いのは僕なんです。ママに会いたい。
ママの顔を思い出したい。それで、コタロウに話を持ちかけたんです」
ジュンはぽろり、一粒の涙を流した。
コタロウは、自分が悪くない、と言われて、思わず声を上げそうになったが、続く言葉で押し黙った。
ジュンは、コタロウをただ庇っただけじゃない。自分の親を思う気持ちを前面に出して、ファッキーニの同情を買おうというのだ。これなら、サーカスの仲間の眼も有る事だし、ファッキーニも容赦の無い事は出来ない。ファッキーニの同情を買う、草を噛む気持ちになったが、なんとか堪えた。ジュンの涙が、本物だということも、知っていたから。
そして、相棒の事を助けようと、次の一手を打った。
「ファッキーニさん、そうなんだ。ジュンの気持ちを判ってやっくれよ。いや、折檻なら俺が受ける。
だから、ジュンのママのカメオを一目、一目、ジュンに見せてやってくれよ」
ジュンの母親のカメオ。ジュンの母親の横顔が彫られたカメオだった。ジュンが捨てられていた時に、籠に一緒に入れられていた、肉親への唯一の手掛かり。コタロウも、ジュンも、数年前、酒に酔ったサーカスの仲間から、そんなものがある、と聞いていたのだ。青いカメオに浮かぶ、ジュンと同じ真っ白の母犬。純金でこしらえられたブローチをファッキーニが随分と気に入っていたと。
「ふん、カメオ、か。随分、昔のことを言ってるな。あのカメオは私のものだぞ。ジュン、コタロウ、お前達の養育費として、私が預かっている」
「一目で良いんです!」
ジュンは叫んだ。
「そうだな・・。判った。だが、見せるといっても、今の状況じゃ駄目だ。お前達を、縛り上げて、吊るし上げてからじゃないと、信用できないな。」
口ひげの下の唇が、嫌らしく口角を上げた。
ファッキーニが一枚上手だった、とジュンは涙を流した。そう、ジュンはコタロウと共に、本当は、ファッキーニがカメオを出したところで、奪い取るつもりだったのだ。いつか、カメオを買い取るぐらいのスターに成れるまで、ずっとこのサーカスで今の生活を続けていかなければならない、とジュンは諦めた。例え、コタロウがサーカスを一人で出ていく時がやってきても、自分は一緒には付いて行けない、と絶望した。
ファッキーニは、胸元から、金属の箱のようなものを取り出した。ジュンとコタロウは、震えながら頭を下げる。それは、ファッキーニのとっておきの不思議なオルゴールだった。装飾の無い、安物のオルゴールのように見えて、そうではない。聞いていると、頭がぼうっとしてきて、ファッキーニの言う事を何でも聞く暗示が掛かった人形になってしまうのだ。
恐らく、逃げ出すためのチケットも、二人がこの日の為に何年も貯めてきた小金も奪われてしまうのだと、ジュンは判った。訪れる街や村で、密かに大道芸をして、必死に貯めてきたお金だった。ばれてしまえば、巻き上げられるのだ。二人は必死に隠してきた。
「取り合えず、二人とも、抵抗されてもつまらんからな。大人しくなってもらうぞ」
静かな音楽が流れ始めた。時折、音楽と共に、水晶が響いたような音が聞こえる。
ジュンは、赤や青に明滅するオルゴールを見ていると、段々とボーっとしてきて、目の前が暗くなっていくのが判った。
ファッキーニは、二人が眼が焦点が合わなくなって、大人しくなったのを確認すると、スイッチを押して、音楽を止めた。
「カメオ、か。今更、捨てた母親になんの未練があるというんだ、ジュン」
男の声は、何処か優しげだった。
「お母さんは、きっと寂しがってる。僕にきっと会いたいと思ってくれてる」
そう言って、ジュンは虚ろな眼から涙を流した。
「嘘は言ってなかったみたいだな・・・。家族、か。会いたいよ、私もな」
ファッキーニはそう呟くと、胸元から、チェーンを引き出した。チェーンの先には鍵が付いていた。
そして、二人が開けるのを諦めていた金庫を持ち上げると、机の上に置き、蓋を開けた。
金庫の中には、何枚もの書類が入っていた。そして、青いカメオが。カメオを取り出すと、
指先で摘み、面白くないものを見るようにそれを摘まんだ。そして、ジュンの鼻先に持ってくる。
「犬に、愛情の何たるかが、判るわけもない。お前達は、ただ、与えられた思考をトレースしてるに
過ぎないんだぞ」
物言わぬジュンに、男は鼻を鳴らした。
「私は、馬鹿か。犬に何を言ってる。労働種に必要の無いものを与えた研究者になら、まだしも、な」
その時、茶色い毛玉が動いたのだけが、ファッキーニには眼で追えた。後ろに突き飛ばされ、
机に思い切り打つかって、咳き込んだ。鳩が懸命に羽ばたく音を聞きながら、顔を上げて、犯人を睨みつける。
「オメーが何言っているか、聞こえねえんだけど。取り合えず、これは、ジュンに返して貰うからな」
片手にカメオを持ったコタロウだった。長いピンクの舌を突き出して、団長の姿をいい気味だと面白がって笑う。両耳に指を突っ込んで、ボロキレを引きずり出す。突っ込みすぎて、耳がいてえ、と呟いた。
コタロウは、ジュンが注目されている間に、団長の奥の手を先読みして用意していた耳栓をすると、
機会が無いか、とずっと狙っていたのだ。
「逃げられると、思ってるのか。たとえ、逃げたとしても、追いかけてどうやっても捕まえてやる!」
床に座ったままのファッキーニは、落ちていた鞭を拾って、コタロウに突き出した。
「逃げる前にお前をノシてけば、街への時間は稼げるだろ。そしたら、乗り合い馬車でトンズラだ」
コタロウは、鼻から息を吐いて、ジュンを軽々と担ぐと、団長の方に向かって飛び出した。
ファッキーニは、両腕で顔を防ぐ。
しかし、コタロウの目的は団長ではなかった。机の上に、飛び上がると、カンテラを蹴り出したのだ。良い加減に散らかったテントは、燃えるものには事欠かなかった。火は、直ぐさまテントを燃やしだした。
「あばよ!ファッキーニ、ファックユー!」
舌打ちしたファッキーニが団員を呼びに行って、消火活動している間に、二匹は闇夜へと消えていった。
1時間後、ロンドンへと向かう飛行船・ジョージⅡ世が、地上の喧騒を離れて飛び立つ。白い巨体が、闇の中で良く映えた。飛行船の座席の一つに、春物のコートを着て、女物の帽子を被った白いプードルが座っていた。街の明かりから遠ざかっても、広がる夜の地表を面白そうに眺めている。そのコートの突き出た胸から茶色い手が出ると、一つボタンを外す。その出来た隙間から緑色の眼が覗き、ドーバー海峡へと向かう飛行船の先を見ていた。
私は犬を飼っているんですが、そいつとそいつの友達を主人公にして小説を書きました。実生活でも自分を引っ張りまわして散歩する犬が、小説の中でも私を引っ張り
まわします。
稚拙な文章ですみません。誤字脱字がありましたら、なにとぞ教えてください。
感想も、書いていただけたら嬉しいです。