【夏のホラー2026】診察を再開いたします
カチ。
カチ。
金属が触れ合う乾いた音。
その音に引き上げられるように、リョウの意識が浮かび上がる。
瞼が重い。頭が割れるように痛い。鼻を突く鉄錆の臭い。
それに混じる、何かが腐ったような吐き気を催す悪臭。
「……ぅ……」
身体を動かそうとする。
動かない。
両手首に鋭い痛みが走る。細いものが皮膚へ食い込んでいる。結束バンド。椅子へ手足を固く縛りつけられていた。
何が起きた。
息が浅くなる。
暗い。何も見えない。
記憶を辿ろうとしても、頭の中は霧が掛かったようにぼやけている。
心臓だけが嫌なほど存在を主張していた。
ドクン。
ドクン。
荒い呼吸が闇へ吸い込まれていく。
「起きましたか」
男の声。
少し離れた場所から聞こえる。
パチッ。
蛍光灯が点いた。
弱々しく明滅を繰り返す白い光。
その下に、白衣姿の男が立っていた。
穏やかな笑み。右手には血の付いたメス。ステンレスのトレーには鉗子と、小さな骨鋸が整然と並んでいる。
そして男の左手には、人間の右手。
「つい、興奮を抑えきれなくて」
男はその手を愛おしそうに見つめる。
「とても綺麗な手だったものですから」
リョウは息を呑む。
手のひら。親指の付け根。小さな黒子。
見覚えがある。
「……え」
男が微笑む。
「切り取ってしまいました」
嫌だ。
理解したくない。
震えながら、自分の右腕へ視線を落とす。
手首から先にあるはずの右手はなく、厚い包帯だけが巻かれていた。
赤黒い血がじわりと滲み、先端から一滴、
ぽたり。
床へ落ちる。
「……ぁ」
喉が震える。
現実が脳へ流れ込む。
あれは、自分の右手だ。
「あああああああああああぁぁぁっ!!」
絶叫が部屋中へ響き渡る。
男は満足そうに目を閉じ、静かに耳を澄ませた。
「いい声ですね」
カチ。
メスをトレーへそっと置く。
「この病院は、悲鳴がよく響くんですよ」
……
…
■事件当日・午後五時四十分
夕焼けが山の向こうへ沈み始めていた。
車載カメラには、山道の先にぽつんと建つ巨大な廃病院が映っている。
コンクリートは黒ずみ、割れた窓には蔦が絡み付き、かつて救急車が出入りしていたであろう搬入口には、錆びたシャッターが半分だけ残されていた。
スマホへ向かってリョウが笑顔を作る。
「こんばんはー!廃墟系ユーチューバーのリョウです!」
テンション高く両手を広げる。
「本日は、県内最恐と噂される○○廃病院から生配信でお送りします!」
画面のコメント欄が勢いよく流れ始める。
『待ってました!』
『夕方だから余計に怖い』
『帰れなくなるぞ』
リョウは病院を指差した。
「ここ、三階建てで百床くらいある結構大きな病院なんですよ。十数年前に閉院してからずっと放置されてて、今じゃ有名な心霊スポットらしいです」
軽く笑う。
「まあ、噂は噂ですからね」
山の向こうには黒い雲がゆっくりと広がっていた。
「雨予報だったけど、帰るまでは持つでしょ」
『雨降るぞ』
『早く行け』
病院へ歩み寄る。玄関前へ立つと、改めて建物の大きさが圧迫感となってのしかかる。
割れたガラス。剥がれ落ちた外壁。誰もいないはずなのに、じっと見られているような感覚。
「それじゃ、失礼しまーす」
ドアへ手を掛ける。力を込めると、
ギィィ……
金属が軋む音が静かな山へ響いた。
「うわ、この音だけで十点満点だわ」
笑いながら建物の中へ足を踏み入れた。
受付ロビーは、時間だけが止まったようだった。懐中電灯の光が埃を照らし、細かな粒子がゆっくりと舞い上がる。
受付番号札。倒れた車椅子。壁に色褪せた案内板。
「こういう病院って、受付がそのまま残ってること多いんですよ」
カメラを向けながら説明する。
「廃墟好きには結構たまらないポイントだったりします」
ナースステーションへ入る。
床一面に散らばったカルテ。誰かが慌てて放り投げたような状態で積み重なっている。
サラ……
風が吹き抜ける。紙が擦れ合う音だけが静かに響いた。
リョウが肩を震わせる。
「びっくりした……」
コメント欄が笑いに包まれる。
『ビビらせんな』
『紙の音か』
『今のは焦る』
診察室を覗く。
割れた窓。倒れた椅子。壁には古びたレントゲン写真。
リョウは笑いながら声を張った。
「先生いませんかー?」
もちろん返事はない。数秒待って肩をすくめる。
「思ったより普通ですね」
二階へ続く階段を上る。
コツ……
コツ……
自分の足音だけが静かな病院へ吸い込まれていく。
二階は病室フロアだった。
長い廊下。左右へ並ぶ病室。開いたままの扉を一つずつ確認していく。
ベッド。ロッカー。点滴スタンド。天井が崩れ、夕日が差し込む部屋もある。
「ここで入院はしたくないですねぇ」
苦笑しながらカメラを回す。
遠くで低い雷鳴が聞こえた。
「雷かな?」
『降る前に帰れ』
『嫌な天気』
『ハズレ?』
『三階行こう』
リョウは画面の右上を見る。
同時接続者数は少しずつ減っている。
「今日は空振りかなぁ……。まあ、最後に三階だけ見て帰ります」
階段へ向かった。
一段。
また一段。
さらに一段。
その時だった。
カツ……
リョウの足が止まる。
「……え?」
コメント欄も一斉に流れ始めた。
『今聞こえた?』
『え?』
病院は静まり返る。
息を止める。
何も聞こえない。
数秒後。
カツ……
乾いた音。
金属同士が軽く触れ合ったような、小さな音だった。
一定ではない。誰かが考え事でもしながら、気まぐれに鳴らしているような間隔。
リョウは苦笑いを浮かべた。
「配管……かな?」
そう言った本人が、一番信じていなかった。
『誰かいるだろ』
『配管じゃねぇ』
『逃げろ』
『行け行け!』
画面の端へ視線を向ける。
同時接続者数が、一気に増えていた。
さっきまで離れていっていた視聴者が、今度は押し寄せてきている。
「……じゃあ」
喉を鳴らす。
「行ってみますか」
三階へ足を踏み入れた瞬間、リョウは思わず足を止めた。
「……なんか、空気が違う」
一階や二階とは明らかに違う。
湿気を含んだ重い空気が肌へまとわりつき、息を吸うたびに喉の奥へ嫌な粘り気が残る。
懐中電灯で廊下を照らす。
光は真っ直ぐ伸びるはずなのに、奥は闇へ溶け込み、どこまで続いているのか分からない。
屋上を叩くような、小さな雨音が聞こえ始めた。
ポツ。
ポツポツ。
壁の案内板だけが白く浮かび上がる。
【手術室】【ICU】【X線室】
『なんか嫌だ』
『空気違くね?』
『帰った方がいい』
リョウは苦笑いを浮かべた。
「演出じゃないですよ。本当に臭う――」
カツ……
乾いた金属音。
リョウの肩が跳ねる。
「まただ……」
音は廊下の奥。
手術室のある方向から聞こえてくる。
耳を澄ませる。
静寂。
そして数秒後。
カツ。
短く、小さく。
誰かが金属を指先で遊ぶような音。
『来た』
『絶対誰かいる』
『手術室だ』
『行くな』
リョウは喉を鳴らした。
「……人だったら、逆に安心なんですけどね」
そう言って笑う。
だが、自分でも引きつった笑顔だと分かった。
一歩踏み出す。
コツ……
足音が廊下へ響く。
少し遅れて。
カツ。
また一歩。
コツ……
カツ。
まるで誰かが返事をしているように、二つの音だけが暗い廊下を往復する。
歩くたびに、臭いは濃くなっていった。
鼻を突く鉄錆の臭い。その奥にある、何かが腐り落ちたような、生温かい悪臭。胃がひっくり返りそうになる。
「うわっ……」
思わず口元を袖で覆う。
「何だ、この臭い……」
『腐敗臭じゃね?』
『マジで警察案件』
『帰れって!』
『それ死臭じゃないか?』
リョウは立ち止まった。
ここで帰るべきだ。
頭の中では何度もそう警鐘が鳴る。
だが、画面の端へ視線を向ける。
同時接続者数。さっきまでより、大きく跳ね上がっていた。コメントが滝のように流れる。
『行け!』
『あと少し!』
『真相見せろ!』
『逃げろ!』
正反対の言葉が入り乱れる。
リョウは乾いた笑いを漏らした。
「……確認だけ。確認だけして、帰ります」
自分に言い聞かせるように呟き、再び歩き出す。
ザァァァ……
雨脚が一気に強まる。古びた窓ガラスを激しく叩く雨音が、病院中へ響き始めた。
廊下の突き当たり。
懐中電灯の光が、一枚のプレートを照らした。
【手術室】
その瞬間。
カツ。
最後の一音が鳴る。
そして、音は完全に止んだ。
静かすぎる。
聞こえるのは、自分の呼吸。
ドクン。
ドクン。
耳の奥で心臓だけが暴れている。
『開けるな』
『やめろ』
『警察呼べ』
『頼む、逃げてくれ』
リョウは唾を飲み込んだ。
「……行きます」
ゆっくり力を込める。
ギィ……
重い扉が静かに開いていく。
懐中電灯の光が室内をなぞる。
真っ先に目へ飛び込んできたのは、埃一つない床だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
手術灯。ステンレス製の手術台。器具台。
どれも古い。だが、不自然なほど整えられている。
誰かが毎日掃除しているような清潔さだった。
『綺麗すぎる』
『誰か住んでる?』
『これ昨日掃除したレベルだろ』
リョウは苦笑いを浮かべる。
「さすがに……誰か管理してるんですかね」
そう言いながらも声は震えていた。
部屋の奥。
半開きになった扉が一つ。
【前室】小さなプレート。
「準備室かな……?」
近付く。
死臭が少しだけ強くなる。
胸騒ぎがした。
扉へ手を掛け、ゆっくり開く。
懐中電灯を向ける。
棚。
薬品棚。
ステンレスの作業台。
そして、壁一面に並ぶガラス瓶。
「……っ」
息を呑む。
瓶の中には透明な液体。
その中へ沈んでいる。
右手。
右手。
右手。
年齢も性別も違う無数の右手が、整然と並べられていた。
ラベルまで貼られている。
採取日。
年齢。
血液型。
几帳面な文字。
まるで博物館の標本だった。
コメント欄が一瞬止まる。
次の瞬間。
『やばい』
『本物』
『通報した!!』
『警察向かってる!!』
『逃げろ!!!!』
リョウは立ち尽くしたまま動けない。
喉が乾く。
胃が裏返る。
「……嘘、だろ」
その時だった。
ギィ……
背後で重い扉が動く。
ゆっくり、ゆっくり、振り返る。
手術室の扉が閉まっていく。
白衣姿の男が静かに押していた。
ガチャン。
鍵が掛かる音。
男はリョウへ向き直る。
穏やかに微笑む。
「見つかってしまいましたね」
カツ。
メスを金属トレーへ軽く当てる。
「あなたも、この子たちを見に来てくださったんですね」
男は瓶へ愛おしそうな視線を向ける。
「皆、とても自慢のコレクションなんですよ」
リョウは一歩後退る。
「く、来るな……!」
男は少しだけ首を傾げた。
「安心してください」
一歩。
「右手以外には、興味がありませんから」
リョウは反射的に身体をひねる。
逃げなきゃ、そう思った瞬間だった。
男の足が静かに伸びる。
視界が揺れた。
「あっ!」
バランスを崩し、床へ倒れ込む。
懐中電灯が転がり、白い光が壁を大きく滑った。
起き上がろうと腕へ力を込める。
しかし。
「危ないですよ」
男は落ち着いた口調のまま距離を詰める。
一瞬だけ青白い閃光が走った。
身体が大きく跳ねる。喉から声にならない息が漏れた。腕にも足にも力が入らない。
「暴れないでください」
男はまるで診察台の患者をなだめるように微笑む。
「傷が付くと、価値が下がってしまいますから」
リョウは必死にもがく。
指先だけが震える。
それでも身体は思うように動かない。
視界が滲む。
男が静かに顔を近付ける。
「安心してください」
穏やかな声。
「少し眠っていただくだけです」
鼻に押し当てられた異臭のするハンカチを吸うたび、意識が揺らぎ、音が遠ざかる。薄れていく視界の中、男が転がったスマートフォンへ歩いていく姿だけが見えた。
コメント欄は猛烈な勢いで流れ続けている。
『誰か助けて!!』
『警察まだ!?』
『逃げて!!』
『配信切るな!!』
白衣の裾が画面いっぱいに映る。
男はスマートフォンを拾い上げると、レンズの汚れを指先でそっと拭った。
そして、いつもの診察が始まる前のように柔らかく微笑む。
「こんばんは」
軽く一礼する。
「皆様、迅速な通報をありがとうございました」
男がスマホのニュース速報を見る。
「ですが、この山へ続く一本道は、先ほどの豪雨で土砂崩れが発生したそうです」
残念そうに小さく息をつく。
「間に合いませんでしたね」
カチ。
メスをトレーへ静かに置く。
「では、予定どおり始めましょう」
男はカメラの向こうへ微笑みかける。
「診察を再開いたします」
白い手袋をはめた手がゆっくりレンズを覆う。
画面は暗転した。
……
……
二日後。
テレビ画面には、廃病院を取り囲む規制線が映し出されていた。
『一昨日から行方不明となっていた動画配信者の男性が、本日未明、○○廃病院内で遺体となって発見されました』
『遺体は右手首から先が切断された状態で発見されており、警察は全国指名手配中の連続殺人事件との関連も視野に捜査を進めています』
『また、病院三階の保管室からは複数の白骨化および腐敗した遺体が発見されました。いずれも右手首から先が切断されており、身元の特定が進められています』
『警察は病院内に潜伏していた男の身柄を確保しました。男は黙秘を続けており、動機などは分かっていません』
『なお、前室から押収された人体標本の数は、保管室で発見された遺体数と一致していないことが分かりました。警察は押収品の鑑定を進めています』
『また、現場付近では一昨日の記録的豪雨により土砂崩れが発生し、警察車両の到着が大幅に遅れていたことが分かっています』
ニュース映像が切り替わる。
廃病院。
三階の窓。
誰もいないはずの暗闇に、人影が一瞬だけ立っていた。
カメラマンがズームする。
そこには誰もいない。
だが窓ガラスには、内側から付いたような五本指の手形が、
くっきりと残っていた。




