おにぎり屋ふくふく|あの日、泣けなかったきみへ
その日は、どうしても泣けなかった。
「ごめんなさい」
ちゃんと頭を下げた。
言葉も間違っていなかったと思う。
「うん、大丈夫だよ。次気をつければいいから」
上司は、やさしく言った。
周りも、特に責める様子はなかった。
それなのに――
胸の奥に、なにかが残っている。
席に戻っても、仕事に手がつかない。
画面を見ているのに、何も頭に入ってこない。
(なんでだろう)
責められたわけじゃない。
怒られたわけでもない。
なのに……。
帰り道。
気づけば、いつもより歩くのが遅くなっていた。
スマホを見る気にもなれず、ただ、足だけが前に出る。
泣きたい、のかもしれない。
でも――
涙が出ない。
そのことが、余計に苦しかった。
ふと、足が止まる。
見慣れない通り。
小さな灯り。
――おにぎり屋「ふくふく」
やわらかい光と、あたたかい香りが、外まで流れてきていた。
(……なんだろう)
理由は分からない。
でも、その場から動けなかった。
からん、と小さな音。
気づけば、扉を開けていた。
「いらっしゃい」
やさしい声。
カウンターの向こうに、あたたかい顔のおばあちゃんが立っていた。
「えっと……」
言葉がうまく出てこない。
「初めてかい?」
こくり、と小さくうなずく。
そのとき。
「にゃ」
足元で、小さな声。
黒猫が、こちらを見ていた。
じっと、まっすぐに。
「……」
なぜか、その視線から目をそらせなかった。
「おにぎり、どうする?」
「……あたたかいの、ください」
やっと出た言葉。
ふくさんは、にっこり笑った。
「はいよ」
手の中で、おにぎりが形になっていく。
やわらかく、包むように。
差し出されたそれは、まだほんのりあたたかかった。
クロが、そっと隣に座る。
何も言わずに。
ただ、そこにいる。
――ひとくち。
その瞬間。
「……あ」
こぼれたのは、声だったのか、
それとも――
涙だったのか。
「……あ」
気づいたときには、ぽろり、と涙が落ちていた。
自分でも、少し驚いた。
泣くつもりなんて、なかったのに。
もうひとくち、食べる。
あたたかい。
それだけなのに、胸の奥にあったものが、じんわりとほどけていく。
「……おいしい」
声が、少し震えていた。
クロは、何も言わずに隣にいる。
ただ、そっとしっぽを揺らしている。
「どうしたんだい?」
ふくさんの声は、変わらずやさしい。
「……ちょっと、仕事で」
うまく説明できない。
でも、それでよかった。
ふくさんは、ゆっくりとうなずいた。
「そうかい」
それだけだった。
それ以上、聞かない。
そのやさしさに、また少し涙が出そうになる。
「ちゃんと、やったんです」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
「謝って……気をつけますって言って……」
手の中のおにぎりが、少しだけにじむ。
「でも、なんか……」
うまく言えない。
言葉が続かない。
クロが、少しだけ近づいた。
足元で、静かに座る。
何も言わずに、ただそこにいる。
その気配に、ふっと息がゆるんだ。
「……いいんだよ」
ふくさんが、静かに言った。
「ちゃんとやったなら、それでいい」
その一言が、胸にすっと入ってくる。
さっきまで引っかかっていたものが、
すこしだけ、軽くなる。
もうひとくち。
「……あったかい」
今度は、はっきりと言えた。
涙が、またひとつ落ちる。
でも、それはさっきまでのものとは違っていた。
少しだけ、軽い。
食べ終わるころには、呼吸も落ち着いていた。
「……ありがとうございました」
自然に、言葉が出る。
ふくさんは、にっこり笑った。
「またおいで」
クロは、いつのまにか少し前に出ていて、こちらを見上げている。
「にゃ」
その声に、少しだけ笑ってしまう。
「……また来るね」
店を出ると、夜の空気がやわらかく感じた。
来たときと、同じ道のはずなのに。
足取りが、少しだけ軽い。
胸の奥にあったものは、消えたわけじゃない。
でも――
ちゃんと、ほどけた気がした。
振り返ると、小さな灯り。
おにぎり屋「ふくふく」。
その中で、黒猫がしっぽを揺らしているのが見えた。
その日は、ようやく――
少しだけ、泣くことができた。




