1.プロローグ
今日はとても良い日だ。
高速道路上でペールブルー色の軽自動車を愉快に走らせながら、公安庁の職員であるミズキはそう思った。
フロントガラスから見える空は、太陽光に貫かれた巻層雲が白く淡い光を一面の群青に醸し出す見事な晴天である。
気温も微睡むような暖かさで,久々の春日和だ。
そんなおめでたい朝だったので、ミズキはテンションが上がり,アクセルを全力で踏み抜きたい気分に駆られた。
ついでにウィンドウを全開にして流れ込む風を存分に浴びたくなった。
少し特殊な彼女の車は時速200km程までスピードを出せるので、法定速度はとうに超過することになるが、自身の思想を第一に優先する彼女にとって、それは大した問題ではない。
ミズキにとって高速道路はとにかく速い事が正義の場所であり、Gと空気の圧力に身を委ね、心地よいモーターの轟音に打たれながら車と心を共にすることがマナーの場所である。
今前方に他の車は見当たらない。
ミズキはチャンスだ、と爆走型車ジャンキーとしての血を騒がせ、全身に熱を走らせる。
ハンドルを握る力を強め、ギリギリと革を鳴らす。
右足を少し上げアクセルを緩め、微かに速度を落とす。
この右足を落としたらフィーバータイムの始まりだ。
そんな風にミズキは舌なめずりし不気味な笑みを浮かべた。
…が、やめた。
途端に平静に戻り、アクセルの踏み込みも元に戻した。
今はダメだ、と言う事を思い出したのである。
ミズキは落胆した目つきでルームミラーを見た。
映された後部座席の端っこ、丁度ミズキの真後ろに、一人の少年が項垂れたように座っていて、彼はシートと壁につくられた角に、身体を預けるように眠っている。
起こす訳にいかないから、そう言ってしまえば少し語弊がある。
ミズキにそんな遠慮は存在しない。
彼女は後部座席に寝てる人間がいるなんてお構いなしに急加速させ、それで相手がケガしても、そいつが悪いとばかりに「ああごめんなさい」とだけ言うであろう、そんな人間である。
基本的に、彼女は他人を顧みることはないのだ。
しかし、今回は別である。
今回は仕事で、しかも国家機密である。
そしてそんな機密である少年を、ミズキは保護するように命じられ、今運転しているのである。
間違えても危険な目に晒してはならないと強く言われているし、丁重に扱えとも言われている。
ミズキも大人だ。
仕事上そう言われたなら、死ねと言われない限り素直に従う。
「チッ」
何食わぬ顔で舌打ちして、しばらくした後再度ルームミラーを見た。
少年はぴくりとも動かず、まるで死んだように眠っている。
寝顔も、死人のように安らかだ。
その様子を見てミズキは彼についての情報を色々思い出したが、さっき初めて会った子供のために思考のリソースをさくような人間性を、彼女は持ち合わせていなかった。
彼が孤児だとか、幼少期虐待を受けてたとか、そんな事が彼女の心にとまる事はなく、ただ彼が人間を超越した力を秘めているという事実だけ、彼女の記憶に残るのみ。
ただ、ミズキはミラーから目を離すと、穏やかな運転を心がけた。
彼女の一抹の人間らしさが、無意識にそんな気分にさせたのである。
そういえば最初車に入れた時、寝ていいと言ったのは彼女だったということも、不意に思い出した。
「しょうがねっか」
そう呟いてナビを確認した彼女は、目の前の景色に集中することにした。
左手には高いビルの集団が見える。
右手には少年が新しく住む渋谷の街が現れた。
更に右を一瞥したら、かつて核爆弾で崩壊した首都の亡骸が広がっている。
1分も経たぬ内に、ミズキは高速道路を降りた。
車内時計によると、日付は2113年3月17日、時刻は午前8時34分の事である。




