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蟷螂の糸

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/12/08

 ええ、ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のほとりを、ひとり静かにぶらぶらとお歩きになっていました。

 薄桃色の蓮の花々はそよ風に揺れ、花弁の合間を縫って 蜂がぶんぶんと気の抜けた羽音を立てております。澄んだ空気には蜜のような甘やかな香りが満ち、やわらかな朝の日差しに溶け合って、あたり一面を心地よく包んでおりました。

 お釈迦様は池の縁にしゃがみ込み、蓮の葉を指先でそっとつまみながら、「今日のお昼はなんだろうな。蜂蜜かな、それとも豆腐かな」と、のんびり考えておられました。

 そのとき、ふと蓮の葉の間から下界を覗き込まれました。

 この極楽の蓮池の底は地獄に通じており、お釈迦様の澄んだ御目をもってすれば、まるで虫眼鏡で覗くように、そこに蠢く罪人たちの姿――それはそれは苦しみに歪んだ顔のひとつひとつまでも、はっきりと見えるのでございます。


「おや、あの男は……」


 血の池地獄のただ中で、どろどろの血にまみれ、仰向けに浮かぶひとりの男――カンジダという名の罪人が、お釈迦様のお目に留まりました。

 この男、生前は人を殺め、盗みを働き、ありとあらゆる悪事を働いたどうにもならぬ極悪人でございました。

 けれども、そんな男にもただ一度だけ善い行いがあったのです。ある日、道を歩いていた折、足元にいた蟷螂を踏み殺さず、そっと避けて通り過ぎたのです。

 お釈迦様は、その善行に報いてやらねば、とお考えになりました。

 ――はて、以前にも似たようなことをしたような……。一瞬、そんな思いが脳裏をよぎりましたが、なんのことでございましょうね。お釈迦様は「まあよい」と首を一振りし、立ち上がると、草をかき分けて何かをお探しになりました。

 極楽というところは苦痛など一切なく、とてものんびりとしたところでございます。毎日をのほほんと暮らしていたら、記憶力も衰えてしまいますよね。

 さて、お釈迦様はやがて一匹の蟷螂を見つけました。手のひらにのせ、その薄緑の小さな体をしげしげと眺めたのち、そっと蓮の葉の上に置いてみられたのでした。


「まあ、蟷螂を置いたところでなあ……」


 お釈迦様がそうぼやかれた、次の瞬間――あ、あ、これはどうしたことでしょう。蟷螂がお尻を水面にぴちゃりとつけたかと思うと、その先から黒々とした糸のようなものが、にょろりにょろりと伸びてきたではありませんか。


「お、お、お、お、おー!」


 ハリガネムシでございます。これにはお釈迦様も思わず腰を浮かせて大興奮。黒く細長いその体は、蟷螂のお尻から水面を突き抜け、まっすぐに血の池地獄へと垂れてゆくのでした。

 さてさて、血の池地獄の様子はと申しますと――。罪人たちは数々の責め苦に疲れ果て、ただ血の池にぷかぷかと浮かんでいました。眼は虚ろ。口の端からは血の泡が絶え間なく弾け、呻く気力もなく、手足をわずかに動かすのみ。その姿は雨上がりの水たまりに沈みかけている虫のようでございます。

 カンジダもまた、そのうちの一人でした。半身を血に沈め、虚空を見上げたまま、魂が抜けたように漂っているのでした。

 しかしそのとき、闇の中にかすかな動くものを感じました。目を凝らすと、黒々とした長いものが、にょろにょろと蠢きながら自分のほうへと近づいてくるではありませんか。

 カンジダはばっと身を起こし、思わず「ひい」と情けない声を漏らしました。新たな地獄の極卒が、さらなる責め苦を与えに来たのだと思ったのです。

 ところが、その黒いものの奥に、ほんのかすかに光がちらちらと見えるではありませんか。


 ――もしや、これにすがって上へ登れば、地獄から抜け出せるのではないか。


 そう考えたカンジダは、ハリガネムシを掴み、血の池を蹴るようにして必死に登り始めました。指先が血で滑りかけるたび、ぐっと握りしめて、上へ、さらに上へと力強く体を引き上げます。

 けれども、これはただの糸ではなく、生きた虫でございますからね。ハリガネムシはカンジダを振り落とそうと、ぐわんぐわんと体を揺らし始めました。

 その激しさのあまり、しがみつくカンジダの姿は残像となって三つにも四つにも見えるほどでございました。


「オホホホホホホホホホ!」


 それを目にしたお釈迦様は、もう大はしゃぎでございます。なにせ極楽浄土には一切の苦がなく、日々が退屈なほど穏やかなものですから、心根もすっかり童のように幼くなられているのです。手を叩き、腹を抱え、目に涙を浮かべて笑っておられます。

 一方のカンジダは、たくましい顔つきでぐんぐん上ってゆきます。地獄で日夜繰り返される責苦に比べれば、これしきの揺れなどなんのその。なにより希望があるゆえ、力が漲ってまいります。

 そしてその姿を見た他の罪人たちまでもが、我も我もと黒い糸にすがり、次々と登り始めました。


「ややっ!?」


 これにはさすがのお釈迦様も仰天、大慌てでございます。あんな連中が極楽に押し寄せたら、どえらいことになる。後で責任を問われるなんて御免。非を認めて頭を下げるなどもってのほか。勝手に誤解したあなた方が悪いのです。妄想癖があるようですね。誹謗中傷には弁護士に相談することを検討します。

 などと、錯乱じみた思考が頭をぐ~るぐる。そしてとうとう、お釈迦様はハリガネムシをすべて引き出そうと、蟷螂の腹をぐいぐいと押し始めたのです。


『ひぎい、ひぎい! おやめください! おやめくださいませ! お尻が壊れてしまいます!』


「ええい、いいからさっさと捻り出さんかい!」


 小さな声で必死に懇願する蟷螂の叫びなど耳に入りません。お釈迦様はお腹をぐっと押しながら、お尻の穴を指でぐいと広げられました。


『ひぎゃあああああああ!』


 すると――すぽん! 湿った音とともに、ハリガネムシがずるりと這い出してまいりました。

 そして、罪人たちの重みに引っ張られたハリガネムシは耐えきれず、そのままずるずると地獄の底へと滑り落ちていったのでございます。

 ばしゃん――と血の池に叩きつけられたカンジダ一行。ばたばたと足をばたつかせ、必死にもがく姿はまるで蟻のようでした。それを見て、お釈迦様はようやく胸を撫で下ろし、ほうと安堵の息をつかれました。


「……まあ、何はともあれ、これでよかったのだ。罪人たちは地獄にも希望はあるのだと知れたであろうし、お前もお腹がすっきりしたであろう――あっ」


 ふと蟷螂に目を落としたお釈迦様は絶句なさいました。

 蟷螂は仰向けにひっくり返り、ぴくりとも動かないのです。脚は硬直し、ちらりとはみ出た透き通る羽がわずかに震えているのみ。

 極楽浄土において、殺生とはあまりにもまずいこと。お釈迦様は一瞬、顔をこわばらせ、周囲を見回されました。誰も見ていないことを確認すると、指先でそっとその小さな体をつまみ上げ、池へ投げ入れました。

 そして、何事もなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべ、その場を離れていかれたのでございます。


 ぷかり、ぷかりと水面に浮かぶ蟷螂。その尻から、ぶりゅぶりゅと際限なく流れ出る赤黒い液によって、やがて真紅に染まりゆく蓮池。それはお釈迦様の犯した罪の色。

 可憐に咲き誇っていた蓮の花々は次々と黒ずみ、萼はぶらりと垂れ、まるで金玉袋のように萎んでいきます。鬱金色の蕊の奥からは鼻を突く悪臭が立ちのぼり、あたり一面へと広がってまいります。

 極楽浄土も、もう真の闇夜に近づきつつあったのでございましょう。

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