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今日もお手軽、晩ごはん

カレーライスの作り方

作者: 曲尾 仁庵

 こんにちは。

『今日もお手軽、晩ごはん』、司会の神楽坂文四郎です。毎日食べる晩ごはんに、いつもと違うささやかなサプライズをお届けいたします。本日は六十分拡大版。どうぞよろしくお願い致します。


 さて、今日のテーマは『カレーライス』。もはや何を語る必要もない、この国の武士道の根幹を成す魂の料理と言っても過言ではありません。しかしなかなか、本格を目指して様々手を加えるものの、結局レトルトの前に敗北し、血の涙を流す毎日に疲れた……という方も多いのではないでしょうか? そんな近くて遠いカレーライスのイメージを根底から覆す、お手軽レシピを今日はご紹介いたします。まずはいつものように材料を見てみましょう。今回の始まりはささやかな日常から、精神の旅路を辿ります。




【材料(4人前)】

 鶏肉(手羽元) 12本

 玉ねぎ 中1個

 にんにく(すりおろし) 大さじ1

 ショウガ(すりおろし) 大さじ1

 ホールトマト 1缶

 塩 小さじ1

 スパイス 大さじ3

 サラダ油 大さじ2

 水 500㏄

 過去への後悔 適量

 受け入れる覚悟 適量

 幸せを掴む意志 適量




 それでは実際に、私と一緒に作ってまいりましょう。


一、スパイスを調達する


 まずは東京丸の内にオフィスを構える商社に就職し、昼夜を問わず馬車馬のように働きましょう。少なくとも二十代前半の全てを仕事に費やし、愛も恋も記憶の彼方に忘れ去る潤いの無い人生を送ってください。同窓会で久しぶりに再会した級友たちの恋バナがファンタジーとしか思えなくなったら頃合いです。通勤路で信号待ちをしているとき、ふと『私の人生って何なんだろう』とつぶやいてしまったことに気付いて愕然としてください。それこそが始まりの合図です。

 暗澹たる心を引きずって会社に向かう途中、あなたの視界に普段の光景にはない違和感を感じ取ってください。漫然と歩いているだけでは見逃してしまう恐れがありますが、通勤という日常のルーティーンの中で周囲に注意を払うのは、今のあなたの精神状態では高難度のミッションです。しかしここはどうにか奥歯を強く噛んで踏ん張ってください。ここをスルーすると、あなたの未来は社畜で確定します。

 あなたが気付いた違和感、それは、東京という誰もが他人に無関心な町の中に現れた優しさ――一人の外国人の青年が、足を挫いたお婆さんを助けようとしている光景でした。誰もがスマホに目を落とし、足早に目的地へと向かう中で、その青年だけがお婆さんの苦境に気付き、手を差し伸べていました。青年はお婆さんを目的地まで送ろうとしているようですが、お婆さんは遠慮しているようです。翻訳ソフト越しのもどかしいやり取りは思うようなコミュニケーションを提供してくれず、青年は困っているようでした。


――放っていけばいいのに


 他の人々と同じに、無言で立ち去ればいい。お婆さんも遠慮しているのだから、後ろめたいことなどない。社会人として、現代に生きる大人として、それが賢いやり方だ。心の内にそんな思いを浮かべ、あなたは青年をぼんやりと見つめてください。そうすれば、きっとあなたの身体は勝手に動くはずです。無機質なこの世界に、『心』を見つけてしまったから。


「どうしました? 何かお困りですか?」


 そう言いながらお婆さんに近付き、事情を聞きましょう。お婆さんは少しホッとした様子であなたに経緯を説明してくれます。孫に会いに田舎から初めて東京に来たこと、迷宮のような東京駅で迷い、人の波に流されてここに辿り着いたこと、会社の手掛かりを求めて周囲を見回しながら歩いていたら足を挫いてしまったこと。お婆さんの話を共感をこめてうなずきながら聞いてください。適当に流すとお婆さんの不興を買い、微妙な空気になって「そ、それじゃ、私はこれで」と立ち去ることになりかねません。場の雰囲気のコントロールには細心の注意を払ってください。

 お婆さんの話を一通り聞き終わったら、言葉が分からず所在なさげな青年に改めて事情を説明してあげましょう。青年の母国語はシュメール語ですので、少なくとも日常会話レベルで話すことができるようあらかじめ習得しておいてください。二十代の前半を犠牲にした商社での経験がここで生きるはずです。シュメール人との商談を積極的に経験しておくことをお勧めします。

 青年は説明を聞くと、改めてお婆さんを孫の許まで送り届けると主張します。お婆さんも内心は不安なのでしょう、申し訳なさそうにあなたを見ています。ここであなたは一つの決断を迫られます。つまり、交番か、付き添うか――交番に連れて行けば、あなたはいつもの朝にちょっとしたハプニングが起きただけの、変わり映えのしない日常に戻ります。人は慣れた不幸にしがみつくものだ、それだけのこと。しかしもし、変化に一歩、踏み出すとしたら――

 青年がお婆さんを背負い、あなたはお婆さんの荷物を持って、孫の勤める会社を探します。幸い会社は同じ丸の内にあり、あなたはほどなく会社を見つけることができます。孫とお婆さんに感謝され、ほのかに心が温かくなるのを感じてください。擦り切れ、擦り切れ果てようとしていた心は、他者の心によってしか癒されることはないのだと理解できるはずです。

 お婆さんと別れ、青年は満足そうにうなずきます。改めて青年の顔を見つめ、その整った顔立ちに息を飲みましょう。あなたの視線に気付いた青年は、人懐こい笑みを浮かべます。整った容貌と笑顔の威力は、砂漠を潤す慈雨のように染み渡ることでしょう。青年はあなたに礼を言い、名刺を差し出します。あなたもビジネスマナーに則り名刺交換をしてください。青年は「それでは、また」と言って去っていきます。その背を見送り、苦笑いを浮かべてください。きっと二度と会うことはない。偶然出会い、わずかな時間を共にした。ただそれだけの縁なのですから。

 その後は出社し、盛大な遅刻を上司に叱責されて憂鬱を最大化させながら、今日も仕事に勤しみましょう。今朝に為したささやかな善行と青年の笑顔が、終業まであなたを支えてくれるはずです。あなたのメンタルのために上司の叱責は右から左に聞き流してください。真面目に聞いても実のある内容は含まれていません。遅刻したという事実を手を変え品を変えて執拗に指摘しているだけです。そんなことに人生の時間を割いている余裕などとっくにないのです。

 小言と嫌味を乗り切ったら、今日は定時で退社しましょう。上司に「ちょっといいかな?」と声を掛けられても、同僚に「この案件なんだけど」と問われても、にっこり笑って「お疲れさまでした」と返答します。ここで同調圧力に負けてはいけません。日本的な悪習を蹴り飛ばし、己の身は己で守ることに専念しましょう。

 会社を出ると黒塗りのリムジンが止まっているのが目に入ります。金持ちというのはいるものだなと乾いた心でつぶやいて、その脇を通り過ぎてください。するとリムジンの窓が開き、あなたは聞き覚えのある声で呼び止められます。


「お待ちしていました」


 声の主は今朝会った外国人の青年でした。喜びを全身で表すような屈託のない笑顔のまぶしさに目を細めてください。こんなふうに素直な感情を向けられるのはいったいいつ以来でしょうか? それにしてもなぜここに、と疑問を浮かべた直後に、名刺を渡したことを思い出しましょう。もっとも、それは彼がここに来ることができた理由にはなっても、彼がなぜここに来たのかという理由にはなりません。


「どうして?」


 かろうじてそれだけを絞り出し、驚きの表情で青年を見つめ返してください。その美貌に不釣り合いな仔犬を思わせる青年の雰囲気は、確かな癒しをまとってあなたを直撃します。


「もちろん、今朝のお礼に」


 リムジンのドアが開き、青年はあなたを招きます。ためらいながらも、太陽にあこがれる蝶のようにリムジンに乗り込みましょう。ここは不安を断ち切り一歩を踏み出す場面です。社畜が夢を見たっていいじゃない。そんな開き直りが重要です。

 リムジンに乗り込んだはいいものの、青年の意図は不明なままです。乗り込んでしまった以上すでに手遅れですが、何かの企みではないかと疑い、その真意を問いましょう。実は誘拐目的ということもあり得ます。事前に走行中のリムジンの窓を内側から割って外に飛び出す訓練をしておくと良いでしょう。落下の衝撃をいかに分散させるかが生死を分けるカギです。


「……嬉しかったのです。あなたが声を掛けてくれて」


 青年は少しだけ目を伏せます。彼は昨日、この国に来たばかりなのだと言いました。いったいどんな国なのだろうと、不安と期待を胸に訪れたこの町は、彼の想像とは少し違っていました。足を挫いたお婆さんの横を人々は足早に過ぎていく。それがこの国の『当たり前』なのかと思うと苦しくなったのだと、青年は胸に手を当てました。しかしすぐに、青年は再び嬉しそうに笑います。


「けれど、あなたは違った。周囲の人たちの流れに逆らい、声を掛けることは勇気がいることでしょう。あなたは他人の苦しみに手を差し伸べられる人だ。あなたのような人がいるこの国を、私は信じることができた。この国の人々を、信じることができた。だから、ありがとう」


 青年は真摯な瞳であなたを見つめます。その誠実さと美貌に思わず見惚れ、そして自分のおざなりなメイクを思い出して反射的に顔を背けましょう。あまりの恥ずかしさに顔が赤くなるのを自覚してください。仕事、仕事、仕事に追われ、スキンケアもベースメイクさえ適当に済ませていました。どうせ誰も気にしていないと言い訳をして。昨日の自分を呪いながら、うつむいて拳を握っておいてください。青年は不思議そうにあなたを見ていますが、顔を上げて見つめ返す勇気はまだあなたにはないはずです。

 そうこうしているうちに、車は港区の麻布エリアに入ります。その景色を見たとき、あなたの脳裏に一つの事実が思い出されるはずです。


――このリムジンのナンバープレートは、大使館ナンバーだった


 つまり、このリムジンは大使館の職員、あるいは大使が使用するものなのです。だとしたら、この青年は大使館関係者ということになります。そんな、一般人とはおおよそ縁遠い人が、いったい何の用であなたをリムジンに乗せたのでしょうか? 青年は変わらず柔和な笑みをあなたに向けていますが、果たして信用していいのでしょうか? 不安な気持ちを抱えたまま、窓の外の景色を見つめましょう。やがて車はとある国の大使館の中に入っていきます。


 大使館の敷地内に入り、リムジンから降りると、大使館職員が並んで出迎えてくれます。彼らの様子から、青年がこの大使館の中で最も尊重されるべき存在であることがわかります。青年も示される敬意を当然のように受け入れており、生まれながらの貴人であることを窺わせます。明らかに場違いな感覚を抑え込み、青年の背を追いましょう。すると奥から威厳に満ちた壮年の男性が現れ、青年に頭を垂れます。


「お帰りなさいませ、殿下」


 壮年男性はその服装や風格から、おそらく大使でしょう。その大使が頭を下げる相手、しかも『殿下』とくれば、青年の正体は自ずと明らかです。驚愕の表情で青年を見つめ、今朝彼に会ってからこれまでの自分の態度を思い出してください。不敬罪で打ち首? それとも火あぶり? いやいや、現代日本でそんなことが許されるはずない……そういえば、大使館内は治外法権? もしかして、絶体絶命?

 そんなあなたの葛藤を知る由もなく、青年は大使と短く言葉を交わすと、にこやかにあなたを上階へと案内します。大使館の上階は公邸になっており、そのダイニングルームで食事を、ということのようです。とりあえず処刑を免れたことに安堵し、青年の後をついていきましょう。オフィスエリアから外れた場所にある専用エレベーターで公邸フロアに上がると、内装の雰囲気が大きく変わります。厳重なセキュリティゲートを抜けると、そこは青年の故郷の文化に彩られた、異国情緒に溢れた場所でした。シュメール地方の伝統的な織物が飾られ、銀の燭台に明かりが灯っています。仄かに広がるこの匂いは、お香でしょうか? 香りがあなたを落ち着かせ、徐々に彼の国への興味が湧いてきます。物珍しそうに周囲を観察しましょう。青年は迷いなく進んでいくため、遅れないように気を付けてください。青年とはぐれてしまえばあなたはただの不審者です。発見即銃殺と心に刻み、命を守る行動を心がけてください。

 最終的に青年はあなたをダイニングルームに案内します。会社支給の制服姿でこの場所にいることの不条理を呪いつつ、もはや恥ずかしいとかいうレベルを超えた事態であると割り切り、むしろ堂々としていましょう。うつむいているよりそのほうがうまくいくものです。何事も。

 青年があなたの向かいに座り、給仕が脇に控え、コース料理が振舞われますので、はるか昔に教養と思って流し読みしたテーブルマナーの本の内容を必死に思い出しながら食事をしましょう。必死過ぎて味がしないと思いますが、空腹は満たせます。青年が話すのは王子とは思えないほど他愛ない、日常の出来事です。微笑み、時に相槌を打ちながら穏やかに会話しましょう。テーブルマナーでいっぱいいっぱいではありますが、一国の王子の話を完全に無視する度胸もありません。

 やがて食事は進み、いよいよメインディッシュが登場します。メインディッシュは青年の国の伝統料理である羊肉のスパイス煮込みマヒーチェです。食欲をそそるスパイスとハーブの香りに胃袋を鷲掴まれましょう。あなたの様子を見て嬉しそうに微笑む青年は、ふと思い出したように一つの伝説を語ります。


「我が国の古い言い伝えによると、『黄金のスパイス』で煮込んだマヒーチェを食べた男女は永遠の幸福を得るのだそうです」


 それを聞いて、目の前のマヒーチェをじっと見つめましょう。つまり、これを食べると幸せになれるのでしょうか? そう考えて、はたと気付いてください。幸せって何だっけ? 長い社畜生活はそんな簡単なことすら分からなくなってしまうほどあなたの思考を蝕んでいるのです。幸せな自分を全く想像できないことに愕然としつつ、マヒーチェの湯気を顔に浴びてください。少しは肌の潤いを取り戻せるかもしれません。


「もっとも、『黄金のスパイス』とは何なのか、誰も知らないのです。『真実の愛を祝福するもの』とされているのですが、誰も見たことはない。だから、残念ながらこのマヒーチェを食べても永遠の幸福は約束されません」


 わずかに落胆した様子を見せる青年の姿をどう解釈するかに悩みつつ、あいまいに微笑んであいまいにうなずきましょう。『残念ながら』という言葉に飛びつきたいところですが、現段階ではそこまで踏み込むのは得策ではありません。青年の真意を測るためにも、ここは受け身に徹し、純粋に食事を楽しんでください。何より、このまま話を続けていてはせっかくのマヒーチェが冷えてしまいます。

 あなたの餓えた瞳に気付き、青年は「どうぞ」と言ってくれますので、遠慮なく羊肉にフォークを突き刺しましょう。スパイスの香りに刺激された胃袋は、食べる準備ができています。大きく口を開け、肉を放り込み――


「お待ちください!」


 突然の鋭い制止に思わずフォークを止めてください。傍に控えていた給仕があなたからフォークを奪い、マヒーチェを下げてしまいます。青年は厳しい表情で「何事か!」と問います。ピシリとスーツを着こなす側近らしき男が青年に近付き、耳に顔を寄せて囁きます。青年の顔が青ざめ、あなたに向かってこう言います。


「申し訳ありません。食事はここまでにしていただく」


 え? と思わず声を出して戸惑いを表しましょう。まだオードブルとスープとパンしか食べてませんけど? というあからさまな態度で無言の内に不満を伝えます。しかし周囲は騒然として、メインディッシュを食わせろ、とは言いだしづらい雰囲気になっています。しぶしぶ、本当にしぶしぶ現実を受け入れ、執事の案内で公邸を辞しましょう。中途半端に食べたことで余計にお腹がすきました。リムジンで家まで送ってもらい、ストックしておいたちょっとお高いカップ麺で空腹を満たしてください。意外と高級なコース料理より舌に馴染みます。汁まで飲み干し、今日の出来事を思い出してください。きっと笑えてきます。外国の王子様に大使館に招かれて食事だなんて、夢にしたって妄想が過ぎるというものでしょう。いささかリアルな白昼夢、明日からはまた、変わり映えのしない日常です。


 翌日には再び社畜としての生活が始まります。定時で帰る方策を通勤時間内にどうにかひねり出しましょう。でも、なぜでしょうね、「今日は早く帰ろう」と思っている日に限って、気が付けば日を跨ぐことになってしまうのは。終電に間に合うかどうか、なんてことを気にしていた日々が懐かしい。あの頃のあなたは、まだ子供でした。疲れ果てた身体を引きずってタクシーを拾い、寝るためだけの家へと帰りましょう。昨日は無料のリムジンで帰ったというのに、今日は狭いタクシーでしかも有料です。この落差を誰に訴えればいいのか考えながら眠りについてください。きっとうなされます。


 朝になり、もう今日は休んでやろうか、という葛藤を経て結局出社したあなたは、どこか普段と違う雰囲気を感じることになります。上司がちらちらとあなたの様子を窺ったり、同僚が遠まきにあなたを見ていたりしますが、気にすることもなく仕事に邁進しましょう。他人の視線など気にする余裕はありません。なぜなら納期は今日だからです。時間はあっという間に過ぎ、定時を告げるチャイムが鳴り、さあ、後半戦行ってみよう、と気合を入れたところで、あなたは上司から声を掛けられます。


「今日は上がってくれていいから」


 え? 仕事残ってますけど? そして締め切り今日ですけど? と思わず口に出し、内心で「しまった」と歯噛みしてください。上司の言葉をそのまま受け入れさせすれば、今日はもう帰ることができたのです。そうすれば、家でのんびりと、のんびり……何を、しましょうか? したいことが思いつかない自分に唖然としつつ、上司のリアクションを待ちます。どうせ「じゃあ、頑張って」と言われるでしょうが。


「い、いや、今日はもういいよ。残りは他の人にやってもらうから」


 いったいどうしたというのでしょう? 普段は自分が先に帰ることはあっても部下を先に帰すことはないこの男がそんなことを言うなんて。あなたは初めて上司を「カッコいい」と思いますが、一方で何の企みかと警戒してください。明日に二倍の量の仕事を押し付けられるだけかもしれません。明らかな不信の目で上司を見つめましょう。上司は視線を逸らし、追い立てるようにあなたをフロアから退出させます。何が何だか分からないまま、突然降ってわいた幸運を噛み締めつつ会社を出てください。

 会社を出て一番に目に飛び込んでくるのは、どこかでみたような黒塗りのリムジンです。一瞬足を止め、どうすべきか悩みましょう。見なかったことにして駅に向かいましょうか? そうすれば日常の平穏は維持されます。


「お待ちしていました」


 しかし運命はあなたの逡巡を嘲笑い、強制的に変化に巻き込もうとしてきます。大型犬のような無垢な瞳でリムジンから出てきたのは、やはりと言うべきか、先日会った王子様でした。王子は嬉しそうにあなたに駆け寄ります。


「昨日もお待ちしていたのですが、なかなか出ていらっしゃらなくて。日本の労働環境は一体どうなっているのかと、今朝外交ルートを通じて外務省から正式に抗議していただいたところです」


 王子の言葉を聞き、ああ、今朝の職場の妙な雰囲気はそのせいか、と納得しましょう。どんな抗議をしたのかは不明ですが、あの上司があれほどに態度を翻したからには、なかなかのプレッシャーだったのでしょう。そして、今日は定時で帰ることができたとしても、明日には残業で片づけるはずだった仕事がそのままの姿で目の前に現れるのでしょう。それでも、今日という日の自由を得たことには意味がある。そう信じて、目の前にいる強大な権力者に感謝を告げましょう。王子は慌てたように首を振ります。


「先日の失礼をどうしてもお詫びしたかったのです。今度こそ、どうかディナーを共にさせていただけませんか?」


 メインディッシュを取り上げられた苦い悔恨を思い出し、ためらうような表情を浮かべましょう。青年はさらに早口でまくしたてます。


「今日は途中で帰らせるようなことは絶対にいたしません。ご安心ください」


 どこか必死さを滲ませる一国の王子、というギャップに少し笑って、了承を伝えてあげましょう。どうせ帰宅しても待っているのは安売りのカップ麺か奮発して買ったちょっといいカップうどんだけです。一度くらい夢のような食事を夢見たところで罰は当たらないはずです。

 青年は大げさに喜びを表し、あなたをリムジンに招きます。信じられないくらいに沈む座席に身を預けましょう。きっと、二度とは訪れない幸運なのですから。


 青年があなたを連れて行った先は、大使館ではなく高級ホテルの最上階にある完全会員制の高級レストランでした。ドレスコードがありそうな雰囲気をものともせず、堂々と会社支給の制服で乗り込みましょう。服装以前に存在が場違いなのですから、気に病んでも損なだけです。

 支配人が椅子を引いてくれたことに内心で慄きながら、さも当然のように座りましょう。向かいに王子が優雅な立ち振る舞いで座り、にこやかにこちらを見ています。改めて、端正な顔をしている男だなぁと感心しましょう。彼の度を越した美貌が現実感を奪い、この非現実的な状況を受け入れてしまっています。王子は豊富な話題であなたを飽きさせることなく、楽しい時間が過ぎていきます。彼の故郷のシュメール料理ではないものの、本格フレンチのコースを堪能するという得難い高揚感にワインが進みます。楽しい、本当に楽しいだけの時間――なのに不安になる自分が悲しいから、あなたは笑うのでしょう。


「今日は楽しかった。ありがとうございました」


 王子は最後まで紳士的で、リムジンであなたを自宅まで送ってくれます。リムジンから降りて丁寧にお礼を言いましょう。王子があなたを食事に誘ってくれたのは『お礼』と『お詫び』。そのどちらも果たされた以上、彼との縁はこれまでです。夢の終わりに一抹の寂しさを感じながら、王子に別れを告げましょう。王子は極上の微笑をあなたに向け、


「それでは、また」


 そう言って去っていきます。


「……また?」


 聞き違いでしょうか? 違和感のある言葉を残した王子の残影を見つめながら、ぼんやりと彼の消えた方向を見つめて佇みましょう。




 翌朝、目を覚まし、「ああ、昨日の出来事は夢だったんだな」と実感しましょう。もし夢でなかったとしたら、こんなに重い頭をひきずって会社に行かなければならないなどあり得ないではありませんか。決して、ワインの飲み過ぎで二日酔いなわけではありません。ええ、ありませんとも。

 始業時刻ギリギリに出社したあなたを迎えたのは、昨日とは比較にならない緊張感と諦念が入り混じった奇妙な雰囲気でした。見覚えのない人々が忙しなくフロアを行き交い、段ボールに資料を詰めています。隣のデスクで仕事を始めている同僚にいったい何事かと聞いてみましょう。同僚は悟ったような様子で短く答えます。


「特捜だってさ」


 特捜、すなわち東京地検特捜部が会社に乗り込んできた、ということでしょうか? 確かに我が社は紛うことなきブラック企業ですが、東京地検特捜部に目を付けられるほどの悪行を重ねていたとは知りませんでした。思わず「何やったの?」と聞き返しましょう。同僚は疲れた顔で肩をすくめます。


「社員に対する過重労働の強制の疑い。今さらだよね」


 それって労基の管轄では? という疑問があなたの頭の中を駆け巡ります。なぜか事情通の同僚は、事がここに至った経緯を語ってくれます。


「昨日、外務省からクレームが来たでしょ? それが与党の政治家先生の耳にも入ったらしくてさ。特捜の部長さんに直電だって。政治案件は処理が早いよね」


 つまりは、王子様の権力が政治を動かし、特捜の介入によって我が社の労働環境が是正されるということでしょうか? むしろ会社潰れるんじゃなかろうか。明日から就職活動かなぁ。そんな絶望があなたの心を支配します。同僚は乾いた笑いを浮かべました。


「今日から当面、残業禁止だってさ。顧客への説明やら、リスケやら、考えただけでハッピーになれそうだよド畜生」


 あ、担当顧客に連絡しなきゃ。でもなんて説明すればいいのでしょう? 私が王子様に出会ってしまってすみません、でしょうか? きっと「は?」と言われるでしょうね。そんなことをぼやけた意識で考えつつ、とりあえず受話器を取りましょう。今日もきっと電話連絡だけで一日が終わります。仕事が進むなんてことは夢のまた夢。一生懸命働いているはずなのに、何も片付かない(むしろ増える)のはどうしてなんでしょう? 切実な思いを抱えて、今日も強く生きてください。


 定時を告げるチャイムが鳴り、社員が一斉に退社を始めます。管理職と役員は残って特捜部の聴取を受けているようですが、あなたには無関係なのでさっさと帰りましょう。今まであなたたちをいいように使ってきた者どもがより強大な権力に慄く姿は滑稽で、憐れです。

 会社から出ると、ある程度予想はしていましたが、もう見慣れたリムジンがあなたを出迎えます。まぶしい笑顔を向ける王子に思わず目を細めましょう。純粋すぎる瞳が汚れた社畜精神に突き刺さります。痛いほどに。


「またお会いできました」


 待ち伏せておいて「お会いできました」もないだろう、と思いつつ、抑えきれずに弾む声が微笑ましくて、思わず呆れてしまいましょう。あなたの様子をものともせず、王子はあなたの手を引きます。無邪気な美貌と手から伝わる温度が、硬く強張った体の芯をほんのりと温めます。少しだけ慣れたリムジンのシートの感触に身を預けましょう。今日はどこに連れていかれるのか、でもきっと、誘拐の拠点ではないでしょう。

 リムジンが向かった先は東京郊外の、どこか隠れ家のような雰囲気を持つ創作和食のお店でした。「日本の文化を学ぼうと思って」と少し得意げな王子を、姉のような気持で見守りましょう。この店の主は高級料亭で腕を磨いた後、様々な国を巡って世界の食文化を学び、新たな料理の可能性を模索する和食界の異端児です。こんがりと揚がり、さくっとした触感が楽しい握り寿司や、スパイスをふんだんに使ったマツタケの土瓶蒸しなど、見たこともない料理に舌鼓を打ちましょう。信じがたいことに、美味しいのです。信じがたいことに。


「この国の食文化にも、我が国と同じようにスパイスが使われているのですね」


 感動した様子でうなずく王子に対してどうリアクションすればよいのかわからず、とりあえず微笑んでおきましょう。あなたの微笑みに、王子は嬉しそうな笑顔を返してくれます。


「おや、これは奇遇ですね」


 不意に掛けられた声に、王子の表情が一気に険しいものに変わります。声の主は王子よりも少し年上の、怜悧な雰囲気をまとった美青年でした。今までに聞いたことのないような硬い声で、王子は苦々しく答えます。


「宰相。どうしてここに?」


 慇懃無礼、という言葉が似合いすぎるほど似合う態度で宰相と呼ばれた青年は仮面のような笑みを浮かべます。


「奇遇と申し上げたでしょう? 私的な会合で偶然、この店を使ったまで」


 王子は宰相の言葉をまるで信用していないようです。ピリピリと張り詰めた空気にいたたまれなくなり、おろおろと王子と宰相を交互に見つめましょう。宰相はあなたの様子に気付き、にっこりと笑い掛けてきます。


「この国の女性は皆、お美しくていらっしゃる。殿下が夢中になるのも無理からぬこと。ご迷惑とは存じますが、一時のことゆえお付き合いくださいね」


 まるで笑っていない黒い瞳でそう言うと、優雅に一礼して宰相は去っていきました。王子はその後姿を鋭くにらみつけます。今までずっと朗らかな態度だった王子の敵意をむき出しにした様子に戸惑い、不安そうな表情を浮かべましょう。王子は慌てて笑みを作ると、申し訳なさそうに頭を下げます。とりあえず話題を探し、「あの方は?」と聞いてみましょう。顔をしかめ、吐き捨てるように王子は短く答えます。


「我が国の政務を取り仕切る宰相。私のいとこでもある男です」


 そう言われれば、冷たい雰囲気こそ対照的ですが、美貌の系統が似ている気がします。一族郎党すべて美人なのだろうな、と目の前の奇跡のように整った顔を見つめましょう。あなたの視線を受けて、王子の顔にわずかに朱が昇ります。


「次はどのような料理が来るのでしょうね? 楽しみです」


 気を取り直すようにそう言って、王子はそわそわと厨房のほうを振り返ります。可愛いな、と口に出しそうになるのを抑えて、張り詰めた空気が消えたことに安堵しましょう。


――殿下が夢中になるのも無理からぬこと


 宰相の残した言葉がふと蘇ります。王子はあなたに、夢中になっているのでしょうか? 王子があなたに抱いている感情は、どんな名前で呼ぶべきものでしょうか? 友愛? 親愛? それとも――


――一時のことゆえお付き合いくださいね


 宰相はこうも言っていました。つまりこの逢瀬は長く続くものではないと、そう釘を刺したということでしょう。たとえ王子の心の内がどうであれ、その立場があなたとの関係を許さない。きっと、そういうことなのです。

 王子は楽しそうに、嬉しそうに、あなたに様々なことを話します。それを聞きながら、真に伝えてほしいことを心の中で問いましょう。


 あなたにとって、私は、なに?




 特捜部によって今までの日常は一変し、定時退社が絶対条件として掲げられる中、業務の総量は減らず、単位時間当たりにこなさなければならない仕事量が激増する不条理と戦いながら、あなたは退社後に訪れる『夢』に溺れかけていきます。王子は優しく、一途な感情を素直にあなたに注ぎます。共にいる時間を喜び、食事を楽しみ、他愛ない会話で笑って――確かなものは何もありません。手を取っても抱きしめることはない。微笑みで包んでも、口づけることはないのです。王子もきっと分かっているのでしょう。外国の庶民と結ばれることはないと。だからこれは、一時の夢。すぐにでも訪れる終わりから目を背けて、王子にとびっきりの笑顔で応えましょう。少しずつ、少しずつ苦しくなっていることを自覚しながら。


 季節は移ろい、ふと見上げた空は重苦しい雪雲に覆われています。今日はやけに冷えると思ったら、ちらちらと雪が降って、あなたの頬を濡らしました。王子と初めて会った日からどれほどの時間が経ったでしょうか? きっと、そろそろだろう――そんな漠然とした予感があなたの脳裏を掠めます。

 定時退社にもお迎えにもすっかり慣れ、今日も王子に手を引かれてリムジンへと乗り込みます。こんなにも幸せで、こんなにも苦しい。笑顔が不自然になっていないか、それだけを心配して、バックミラーに映る自分の顔を見つめましょう。きっとうまくやれている。自分を偽るのは得意なはずです。

 今日の王子は普段と様子が異なり、緊張していることを隠しているような奇妙な雰囲気をまとっています。気付かない振りをして微笑んでおきましょう。リムジンはどこか見覚えのある道を通り、そして辿り着いた先は彼の国の大使館でした。出会った最初の日以来、彼があなたを大使館に招くことは今までありませんでした。予感が的中したことをあなたは理解します。これほど相応しい舞台もそうはないでしょう。

 大使館員に出迎えられ、王子に先導されて公邸へと向かいます。かすかな香の匂いが懐かしさを呼び起こします。最初にここを訪れたときは、こんな気持ちを抱えるだなんて思ってもいなかったはずです。少しだけ笑って、王子の背を見つめましょう。

 ダイニングルームへとあなたを案内し、王子は自室へと姿を消します。テーブルに置かれた銀の燭台に灯る火をぼんやりと見つめましょう。もうすぐ夢が終わる。いえ、終わらせなければならないのでしょう。私たちは生きていくのだから。

 王子はすぐに戻ってきて、あなたの正面に座ります。その顔は隠しようもなく緊張に強張り、手には小さな瓶を持っていました。王子は小瓶をあなたの前に置きます。その手は少し震えていました。


「『黄金のスパイス』で煮込んだマヒーチェを食べた男女は永遠の幸福を得る。以前、そうお伝えしたことを覚えていますか?」


 小瓶の中身は、どうやら複数のスパイスを混ぜたもののようです。王子の意図を計りかね、差し出されたスパイスを見つめましょう。王子は早口でまくしたてます。


「王たる者が真に愛する伴侶を得たとき、王家秘伝のミックススパイスは黄金に輝き、王を祝福する。偉大な功績を残した歴代の王は、皆『黄金のスパイス』を手にしたそうです。私はやがて王の座を継ぐ。そして、偉大な王の系譜に連なる者として、名を残したいと思っています」


 王子は身を乗り出し、あなたの手を取ります。


「『黄金のスパイス』が祝福を与えるのは、愛する伴侶を得た者だけ。私独りではダメなのです。愛を得て、愛と共に歩む者こそが王に相応しい。だから――」


 王子の真摯な瞳があなたを見つめます。魅入られたように王子を見つめ返しましょう。王子の瞳の中にあなたの顔が映っています。


「私は、あなたと共に歩いていきたい。共に歩むあなたこそが、私の愛です。どうか、私と――」


 王子の決意に満ちた言葉を、しかしあなたは最後まで聞くことができません。視界の端でまばゆいほどの光が溢れ、轟音が公邸を揺るがします。悲鳴、怒号、肌を焦がす熱、そして、あなたを呼ぶ声。そこであなたの意識は途切れます。


 目が覚めたとき、あなたは病院のベッドの上に寝かされています。傍らには憔悴しきった顔の王子がいて、祈るようにあなたの右手を握っています。あなたが目を覚ましたことに気付き、王子は泣きそうな安堵を表して強く手を握ります。


「よかった。生きていてくれて、よかった――」


 嗚咽交じりにそう繰り返す王子の頭を左手で撫でてあげましょう。王子は素直に頭を撫でられています。全身のあちこちに痛みはありますが、どうやら致命傷は避けられたようです。自分の悪運の強さに呆れたように笑いましょう。

 やがて王子は絞り出すように事情を説明し始めます。ダイニングルームに仕掛けられたC4爆弾が爆発したこと。おそらくは宰相派の仕業であること。王子のいとこである宰相は王子がいなくなれば王位を継ぐことのできる立場であること。実は最初に大使館に招いたあの日、食事を中断したのも、マヒーチェに毒が入れられていることが判明したためだったと言うのです。


「あなたを、巻き込むつもりはなかった。そのつもりだったのです」


 初めて会ったあの日、足を挫いたお婆さんに手を差し伸べたあなたを、王子は好ましく思いました。でも、それだけでした。あなたの姿を見て、王子はこの国の人々を信じられると思いました。でも、それだけでした。そのお礼をしたくてあなたを公邸に招待しました。食事を振る舞い、それで終わりのはずでした。しかし、マヒーチェに毒が入っていたことによって『お礼』は果たせず、失礼を『お詫び』しなければならなくなりました。縁が繋がってしまいました。


「何度もお会いするうちに、私は少しずつあなたに惹かれていきました。仕事に対する誠実さも、困難な日々に耐える強さも持った、素晴らしい方だと。あなたは美しい。外見だけでなく、魂が、存在が美しい」


 罪を告白するように、王子は硬く目を閉じます。まっすぐな称賛を受けて思わず王子から目を逸らしましょう。自然派を自称することでスキンケアを怠ってきた我が身を振り返ってください。ナチュラルメイクは化粧をしないことを意味しません。


「私といることであなたの身に危険が及ぶかもしれないことも、分かっていた。あなたを求めることが本当に正しいのか、迷いもしました。それでも――」


 また会いたいと思った。声を聞きたいと思った。その手に触れたいと、思ってしまった。自分自身の欲望を優先させてしまったのだと、王子はうつむきます。


「――あなたを、愛しています」


 しかしその告白は、甘い雰囲気も幸福な未来も含んではいません。悪い予感ばかりが良く当たるものだと、運命の皮肉をにらみつけましょう。王子の次の言葉は、きっと――


「私はこの先もずっと、命を狙われることになる。あなたを愛するということは、あなたの命を危険に晒すことです。私は、あなたを失うことに耐えられない。私は、あなたを不幸にすることしかできない。だから」


 放したくないというように、両手であなたの手を強く握り、王子は目を開いてあなたを見つめます。


「さよなら、です」


 王子のその言葉を聞き、あなたの中に湧き上がる感情があることに気付きましょう。それは、怒り。勝手に愛し、勝手に諦め、勝手に別れを告げる王子の身勝手さに対する強い怒りです。そして、なぜそんなにも怒りを覚えるのかを考えましょう。あなたの心に名前が付いたことが理解できるはずです。


――彼を、愛しているんだ


 愛していると言うなら、共に歩みたいのなら、なぜ「一緒に戦おう」と言ってくれないのか。「ふたりで幸せになろう」と言わないのか。あなたは王子にずっと守られるだけのお姫様でしょうか? 冗談じゃない、そんなのはこちらから願い下げだと、燃える瞳で王子をにらみつけて叫びましょう。


「私の幸せを、あなたが決めるな!」


 王子は目を丸くしてあなたを見つめます。あなたの怒りを受け、しかし王子は「共に戦おう」とは言ってくれませんでした。王子は失うことの恐怖に怯え、震えるばかりです。はがゆい思いに唇を噛み、王子の握る手を解いてください。あなたの怪我は大したことはありません。縋るような王子の視線を振り切り、病院を後にしましょう。結局王子は、呼び止めないままあなたを見送ります。


 病院の玄関に待機しているタクシーに乗り込み、家に帰りましょう。はっきりと心を自覚した瞬間に、恋は終わってしまいました。あなたの目から涙がひとつぶだけ流れ落ちます。けれど、後悔はありません。幸福とは、ひとりでは成し得ぬものなのですから。


「お客さん」


 自分の思考に沈んでいたあなたを、運転手が現実に引き戻します。しかしその現実は、悪夢よりももっと現実感に乏しいものでした。いつの間にか運転手は無骨なガスマスクを被っています。


「すまないが、行き先を変えさせてもらうよ」


 その言葉と当時に、車内を霧状のガスが覆い、急激に意識が遠のいていきます。何が起こっているのかも分からないまま、あなたは夜の闇に飲まれていきました。




 鈍重な意識を無理やりに振り払い、あなたはゆっくりと瞼を開きます。視界に入る見覚えのない部屋は極めて豪奢な調度で埋め尽くされており、部屋の主の人間性を分かりやすく示しています。あなたは手足を縛られ、椅子に括りつけられています。そしてあなたの前には、冷笑を顔に張り付けた美青年の姿がありました。


「ようやくお目覚めか。王子のお気に入りの女」


 くくく、と喉の奥で笑い、美青年――宰相はグラスのウィスキーをあおりました。楽しくて仕方がない、という顔。人を苦しめ、傷つけることに喜びを得る、歪んだ精神が表情に現れています。


「手荒な真似をして悪かったな。だが、どうしてもお前と話がしたかったのだ。許せ」


 ひとかけらも『悪い』と思ってなどいない様子で、形式的な謝罪をする宰相を鋭くにらみつけましょう。宰相は憎らしいほどの余裕であなたを見下ろします。


「気丈だな。なるほど、あの無能な王子ならずとも、興味を持とうというものだ」


 グラスの酒を飲み干し、宰相はあなたの目の前で片膝をつき、視線の高さを合わせます。自由を奪われたあなたにできることは、宰相をにらみつけるだけです。宰相は嗜虐的な笑みをあなたに返します。


「置かれた状況を理解できぬほど愚かではあるまい? お前の命は私の手のひらの上だ。あまり私の機嫌を損ねぬほうが良いぞ?」


 部屋の中に素早く目を走らせると、入り口の扉の左右に一人ずつ、銃を持った屈強な男が控えているのが見えます。宰相が命じればすぐにでも銃弾があなたを貫くでしょう。死の危険を理解し、あなたの顔から血の気が引きます。宰相は満足そうにうなずきました。


「……目的は、何?」


 震える声を抑え込むように、低い声で宰相に問いましょう。宰相は一瞬驚いたような表情を浮かべます。


「怯えて震えるだけの仔猫とは違うと言いたいのか? この状況で私から情報を引き出そうとは大した胆力だ。死ぬかもしれぬというのにな」


 死、という言葉を敢えて強調し、宰相はスッと表情を消して、冷酷な瞳であなたを射抜きます。ここで怯えてはいけません。殺すつもりがあるならとっくに殺しているはずです。話がしたかった、とも言っていましたし、ここは強気に怒りをみなぎらせてにらみつけましょう。しばらく視線で切り結び、宰相は吹き出すように笑います。


「お前は自分の価値をよく分かっているようだな。確かに今、私はお前を殺す気はない。もっとも、一分後に同じかどうかは分からぬがな」


 宰相の目にわずかな興味の色が浮かびます。


「目的は何だ、と言ったな? 教えてやる。そのほうが面白いからな」


 再びサディスティックな笑みを浮かべ、宰相は言いました。


「あの惰弱で無能な王子様を、泣かせることだ」


 強い憎悪と嫌悪感を示し、宰相はどこか遠い時間を見つめます。


「王の嫡子、というだけで、何の努力も能力もなく、あの男は王になることを約束される。血統主義という下らぬ慣習がどれだけ国にとって害悪か、誰も直視しようとしない。国を治めるべきは、真に能力のある者だ。そうではないか?」


 その言葉には、自身の能力に対する自信と、能力以外の理由で否定されてきた過去への強い憤りがありました。あなたは共感も同情もなく宰相をにらみ続けましょう。つまらなさそうに鼻を鳴らし、宰相は言葉を続けます。


「あの男は王に相応しくない。相応しくない者は舞台から降りるべきだ。舞台から降りることができないなら、私が降ろしてやろう。これは親切心なのだよ。能力のない者が重責を担う悲劇からあの男を救ってやろうというのだ。むしろ感謝してほしいくらいだな」


 冗談めかしたシニカルな笑みで宰相はあなたを見ます。笑わないあなたに肩をすくめ、宰相は天気の話をするような口調で言いました。


「あの男の頭でも理解できるよう、昔、婚約者を殺してやったのだがな。私の想像よりもずっと、あの男の脳は働きが悪いらしい」


 宰相は、この男は、人の命を何とも思っていない。あなたの背を冷たい汗が流れます。しかし同時に、強い怒りも湧き上がります。王子が勝手に独りで別れを決意した、その原因がこの男なのです。優しい一人の青年を苦しめ、追い詰めるこの男を許すことはできない。怒りが恐怖を打ち負かし、冷静な意識が戻ってきます。クレバーに、怒れ。自分にそう言い聞かせ、宰相の様子を観察しましょう。この事態を打開するためにできることを探すのです。


「私も殺すのですか?」

「最終的にはな」


 ためらいもなく、あなたの問いに宰相は答えます。ここで怯えて縮こまっていてはこの男を喜ばせるだけです。それだけはしまいと、強く奥歯を噛みましょう。


「……と、思っていたのだがな。やめた」


 たっぷりの間を取って、宰相はそう言うとあなたを見つめます。先ほどよりも強く、その顔に興味の色が見て取れました。宰相はさらに顔をあなたに近付けます。触れるほどに、近く。


「お前は、私のものになる」


 不快な断言に顔をしかめ、「誰があなたなどに!」と吐き捨てましょう。宰相は自信に満ちた態度で言葉を返します。


「いいや、なる。必ずな」


 宰相はあなたの髪を乱暴に掴みます。


「お前に望むすべてを与えよう。金、宝石、装飾品。地位も、名誉も。私にはその力がある。お前にすべてを与える力が」


 財力、権力、暴力。その三つに抗うことができる者などいないのだと、宰相は冷たく嗤います。欲望に流され、溺れ、慣れてさらに求める。人間の本質は遥かな過去から未来永劫変わらない。その強固な確信が宰相の芯にあるのでしょう。あなたは深く息を吸い、宰相をまっすぐに見つめて言います。


「私は、あなたのものにはならない」


 怒りではなく、抗いではなく、真実として語るあなたに、宰相は楽しそうに大きな笑い声を上げます。


「誰もが言う。愛こそが尊い。信頼が、思いやりが、幸福を導く。だがそんなものは幻想だ。皆、現実から目を逸らすバカばかりだ。『黄金のスパイス』が真実の愛を祝福する? そんな寝言を信じる夢追いの愚か者が国を率いるのは、悪質なコメディでしかない」


 そう言い放つと、宰相はあなたの顔を引き寄せます。強引な、キス――あなたはハッと大きく目を見開きます。唇を離し、宰相は愉悦を宿した瞳であなたを見つめました。屈辱に顔を赤くし、あなたは震えます。


「その強がりがどこまで続くか、見せてもらおうか」


 宰相は立ち上がり、すぐに屈服することを確信する笑みであなたを見下ろしました。




 あなたは拘束を解かれ、この豪奢な室内に軟禁されます。毎日違うドレスが届けられ、着せ替え人形のような日々が続きます。今日は一体何日なのだろう。無断欠勤が何日続けば解雇されるんだったかな。共有していない顧客の情報がいくつもあります。徐々に現実感が溶けていく思考を、同僚への罪悪感がつなぎとめています。

 ぼやける視界の中であなたが思い出すのは、泣きそうな顔の王子のことです。喪失を怖れて別れを決めた、優しくて身勝手な男。抱きしめることさえためらった臆病なひと。でもそれが、かつて婚約者を失った苦しみから来ているのなら、彼を一方的に責めるのは間違いでしょう。


――会いたいな


 そうあなたは思います。会ってどうするのか、あなたにはわかりません。彼が再びあなたを求めるかどうかも。謝るのか、拒むのか、愛するのか。あなた自身がどうしたいのか、わからない。それでも、会いたいのです。


「……都合のいいこと」


 小さくそうつぶやいて、あなたは皮肉げに口の端を上げます。彼に背を向けたのはあなたです。あなた自身が、そう決めたのですから。




 宰相は毎日のようにこの部屋を訪れ、あなたを堕落へと誘います。欲しいものはないか、お前はもっと報われるべきだ、相応しい地位と栄誉を与えよう。しかしそのどの言葉もあなたに響かないことに、徐々に苛立ちを募らせているようでした。脅迫も、懐柔も受け付けないあなたに、宰相は戸惑っているようでもありました。その日も宰相はあなたの許にやってきます。


「強情だな」


 余裕のある姿を演じ、宰相はあなたを冷たく見据えます。しかしその声には、明らかな焦燥がありました。なぜ靡かない。なぜ堕落しない。なぜ、私のものにならない。その苛立ちは、彼の心の底に横たわる不安の裏返しのようです。そう思うと、不思議ですね、あなたは宰相を恐ろしいとも、憎いとも思えなくなっていました。


「お前には欲がないのか? 自由になりたくないのか? 金が欲しくはないのか? 私のものになると、そう約束するだけで、すべてが手に入るのだぞ?」


 尊大な態度と嘲笑は懇願に似て、あなたはひどく穏やかに答えます。


「王子を愛しています。私にあるのはそれだけです」


 その言葉を聞き、宰相はカッと顔を紅潮させてあなたに詰め寄ります。


「なぜだ! なぜあの愚鈍で優柔不断な無能を選ぶ! 私に何が足りないというのだ!」


 張り付いた冷笑をかなぐり捨て、宰相は叫びます。それはあなたに彼が初めて見せた心だったかもしれません。あなたは無言で首を横に振ります。宰相はあなたの両肩を強く掴み、激しい憤りを叫びます。


「皆があの男を選ぶ! 私には見向きもしない! どれだけ国に貢献しても、財を積み上げ、地位を極めても! 本当に欲しいものはすべてあの男がさらっていく! 王位も、信頼も――」


 宰相の両の目から透明な涙が溢れました。


「――愛も!」


 痛いほどに強く肩を掴む両手が、あなたをつなぎ止めようとする意志を伝えます。宰相の目はただひたすらにこう言っていました。


 私を見て


 果ての無い孤独がそこにあります。母を求めて泣きながら彷徨う子供のような、この世界に対する寄る辺なさが彼を苛んでいます。あなたは彼の背に手を回そうとして――拳を握り、手を下ろします。同情ではダメなのです。彼が渇望するのは、同情ではない。


「あなたのものになることはできません。私の愛は、あなたにはないから」


 ゆっくりと、そしてはっきりと、宰相の目を見つめてあなたは言います。宰相は大きく目を見開き、虚ろな瞳で涙を流しながらポツリと言いました。


「……お前も、私を愛してはくれないのか」


 宰相の手があなたの肩を離れ、あなたの首へと向かいます。両手をあなたの首に添え、宰相はうわごとのように「どうして」と繰り返します。首に添えられた手に、徐々に力が加わり、あなたは苦痛に顔を歪めます。表情を失った宰相が、さらに手に力を込め――


――バンッ!


 何かが破裂するような音が聞こえ、建物全体が揺れます。大勢の足音、窓が割れる音、断続的な銃声、悲鳴。宰相は我に返り、あなたから手を離すと、「何事か!」と護衛に問います。激しくせき込み、空気を貪りましょう。とりあえず絞殺の危機は脱しました。護衛は通信機で確認を取ろうとしますが、帰ってくるのは雑音だけです。やがてこの部屋にまっで重い軍靴の音が響き、そして、扉が爆破されました。


――ボンッ!


 威力を調整されたプラスチック爆弾はきれいに扉の周囲だけをくり抜き、扉が室内側に倒れます。護衛が銃を構えました。宰相が背にあなたを庇います。次の瞬間、部屋に飛び込んできたのは――


「――閃光弾!」


 宰相が引きつった表情でそうつぶやいたのと同時に、室内は目を灼く真白の光に包まれました。




 光が晴れ、視界が戻ったとき、あなたの前に姿を現したのは、見覚えのある美貌の青年でした。


「王、子……」


 あなたは呆然とつぶやきます。王子がここに来ることはない。あなたはそう思っていました。だって彼は別れを告げ、あなたは背を向けたのですから。王子は一瞬、あなたに視線を向けて微笑むと、厳しい表情で宰相を見据えました。


「内乱罪、及び王族への暗殺未遂の容疑で、宰相、あなたを拘束する」


 王子の背後には完全武装した軍服の兵士がおり、油断なく宰相とその一派に銃口を向けています。護衛は敗北を受け入れ、銃を床に投げて両手を挙げました。宰相は激しい憎悪を宿した瞳で王子をにらみます。


「その兵士たちは何者だ。この国にあなたが動かせる駒はないはずだ」


 王子は宰相の憎悪を受け止めるように、その目を見つめ返します。


「彼らは王室の私兵だ」

「ばかな! 私兵の動向は常に監視させて――」


 そこまで言って、宰相は何かに気付いたように言葉を途切れさせます。王子はどこか憐れみを宿した声音で言いました。


「あなたに伝えていないこともある」


 宰相はそれを聞き、信じられないというようにうつむき、そして吹き出すように笑い始めます。苦しそうな、絶望をはらんだその笑い声は、あなたの胸を抉るように響きました。ひとしきり笑った後、宰相は虚無に沈んだ目で王子をにらみます。


「貴様らはいつもそうだ。ひとを、利用するだけ利用して、捨てる」


 王子は冷徹に答えます。


「私はあなたを高く評価していたつもりだ。これから共に国を支え、国を豊かにする同志だと、そう思っていた」


 宰相は王子の言葉を鼻で笑います。王子は感情の無い声で「連れて行け」と兵士に告げました。兵士が宰相の脇を抱えて連行します。宰相とすれ違う瞬間、王子は宰相にだけ聞こえるような大きさで言いました。


「私はもう、何も失うつもりはない」

「私からすべて奪って、どの口がそれを言う」


 宰相は嘲笑と侮蔑を込めた口調で返します。そのまま宰相は部屋を後にし、王子は硬く目を閉じて天井を仰ぎました。




 兵士たちが残務処理のために去り、部屋には王子とあなただけが残されます。王子はあなたの正面に立ち、真剣な表情であなたを見つめます。あなたは胸の前で両手を握り、ためらうように言います。


「……どうして」


 王子は迷いなく答えます。


「あなたに会うために」


 あなたは首を横に振ります。だって、そんな言葉を信じることはできません。会っていったいどうしようというのでしょうか。もう一度別れを告げるのですか? もう一度、背を向けて歩き出さねばならないのでしょうか?

 あなたは王子を愛しています。宰相との時間は、もう手に入らぬ想いをあなたの心に強く刻印しました。おかしいですね。「私の幸せを、あなたが決めるな」と、そう言ったはずなのに、今、あなたは彼を前にして怯えています。


「私は、愚かでした」


 王子は目を逸らさずあなたに言います。


「別れさえすればあなたは安全だと、安易な結論に逃げた。何の保証もないというのに」


 王子は一歩、あなたに近付きます。あなたは一歩後ろに下がります。


「あなたが攫われたと聞いたとき、心臓が止まるかと思った。もしあなたに何かあれば、生きていけないと思った。あなたを失った世界の空虚を、私は理解していなかった」


 王子はまた一歩、あなたに近付きます。再びあなたは一歩下がりました。あなたの足がベッドの端に当たります。


「何より、宰相があなたといると思うと、許せなかった。あなたの傍らにいるのが私でないことが、許せなかった」


 王子の言葉に熱がこもり、あなたとの距離をまた一歩縮めます。あなたはベッドにぽすんと座りました。もう、逃げ場所はありません。王子はあなたの前に進み出ると、身をかがめ、あなたの頬に触れました。


「愛しています、あなたを。あなただけを」


 あなたの目の前にひとりの青年がいます。青年はあなただけを見ています。頬に触れる青年の大きな手に、あなたは自分の手を重ねます。青年を見つめ、はっきりとあなたの想いを告げましょう。


「私も、あなたを、愛しています」


 あなたの目から温かい涙が溢れます。それは今までのあなたの生活にないものでした。青年はあなたに顔を近づけます。あなたは、目を閉じました。青年の唇があなたに触れ――不意にあなたと青年を清浄な光が包みます。驚き、周囲を見渡すと、光はやがて一点に収束し、『何か』を形作ります。それは小さな瓶に入ったミックススパイス。仄かに黄金色の光を放つスパイスが奇跡のように中空に浮かんでいました。


「は、はは」


 驚きと、そして目の前で起きた冗談のような光景に、王子は思わず笑い声を上げます。このスパイスは伝説に謳われる『黄金のスパイス』に違いありません。『黄金のスパイス』は真実の愛を祝福する。それはつまり、二人の愛が真実であったと神が認めたことに他ならないのです。

 あなたが両手を掲げると、『黄金のスパイス』は自ら滑るように移動し、あなたの手に収まります。愛の証を抱きしめるあなたに、王子は息を整えると、真剣な表情で言いました。


「あの日、言えなかった言葉の続きを言わせてください」


 あなたは再び彼を見つめます。彼があなたを見つめます。時間が、止まります。


「どうか、私の伴侶となって、私と共に人生の旅路を歩んでください」


 あなたは潤む瞳で答えます。


「お断りします」


 まったく予想していない答えだったのでしょう、「え?」と王子の動きが止まります。にっこりと笑ってお断りの理由を並べ立てましょう。王妃教育に耐えられそうにない、明日も会社がある、冷蔵庫に賞味期限の近い豆腐が、など、それらしいようなそうでもないような理由を怒涛のように繰り出してください。王子の思考が動き出す前に、その場を離れなければなりません。なぜって? お忘れですか? あなたの目的は最初から、スパイスの調達、それだけなのです。真実の愛がスパイスの調達に必要だった。だからあなたは心から王子を愛したのです。スパイスが手に入った以上、王子への愛は役割を終えたのです。それだけのことです。

 硬直する王子を残して部屋を出て、王子の私兵に遭遇しないよう身を隠しながら建物を脱出してください。社畜として培った気配を消すスキルを役立てるのは今です。ゴミ箱、段ボールなど、その場にある道具を駆使してこの死地を乗り越えてください。

 どうにか建物を脱出できたら、王子からの追手を撒くために変装し、家へと帰ります。帰る家はもちろん、王子が送り迎えをしてくれた場所ではありません。あれはスパイスを手に入れるために用意した仮の住まいです。最初から偽造した身分証を使って契約していれば安心ですが、そうでない場合は痕跡を徹底的に消してから逃亡しましょう。相手は国家権力です。用心するに越したことはありません。

 さあ、スパイスは手に入りました。次はいよいよ、本格的にカレーライスを作っていきましょう。




二、カレーライスを作る


 チン♪




 ほら、あっという間にできあがり。簡単ですね。




 五日間に渡ってお送りしてまいりました『今日もお手軽、晩ごはん』。お楽しみいただけましたでしょうか? まことに名残惜しいことではございますが、当番組は製作費の枯渇によって本日が最終回です。世に様々レシピが氾濫し、何が正解か分からない。そんな情報過多の時代に、『料理はそんなに難しいものじゃない』をコンセプトに始めたこの番組は、きっと皆さまの料理に対するイメージを覆したことでしょう。料理の世界はこんなにも奥深く、色彩豊かで、希望と感動に満ちています。本日までにご紹介した五つのレシピが、皆さまの明日の活力になることができたなら、それに勝る喜びはありません。どうぞ、明日は少しだけ頑張って、今まで作ったことのない料理にチャレンジしてみてください。きっと想像もしなかった新しい景色が目の前に広がっていることをお約束いたします。


 それではいつかまた、どこかでお目に掛かりましょう。司会の神楽坂文四郎でした。さようなら。


スパイスの本質は辛さと苦み。

まるで人生みたいだ。

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― 新着の感想 ―
なぜそこで断る! と思ったら、そうか、そういえばこれカレーライスの作り方だった。 いやだがまて、確か材料は…… >過去への後悔 適量 >受け入れる覚悟 適量 >幸せを掴む意志 適量 覚悟と意思が含…
もう、めっちゃ面白かったです。 最初のミッションを忘れて読み続けていたら、ちゃんと最初のミッションに戻っていた感じ。 非日常が日常に戻る瞬間のあの切り取り方が、さすがだなぁと思いました。 読ませていた…
カレー作りだったはずがすごいドラマが始まった!と思ってたら、また……(笑) くっそ笑いました! 仁庵さん最高!
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