夢野久子のアパート
静寂な雰囲気の中、スマホの振動で浅川だけでなく戸川までもが驚く。
スマホの表示は昨日、話をしたばかりの夢野久子だった。何事かと通話状態にする。
『ガサガサガサ…』
何かが動いているのか、ガサゴソと音だけが続く。浅川が夢野さんと数回呼びかけるが返事がない。同じような雑音が続くだけだ。
浅川の様子に気付いた戸川が尋ねる。
「どうしました?」
「え、ああ、訓練校の夢野さんからだけど、本人が話をしないのよ」
戸川が不思議そうな顔をする。それを見た浅川がスマホをスピーカーモードにする。
『ガサガサガサ…』相変わらず何かが動いている。
「何でしょう?」
「とにかく行ってみる」
「私も同行させてください」
「いいけど」そう言って浅川が気付く。「そうだ。私、夢野さんの住所を知らなかった。戸川さん何とかなる?」
「大丈夫です。ああ、そうだ。現場近くの駐在所から先に向かってもらいましょう。我々が行くよりもそっちの方が早いです」
「そうしてくれる」
「はい、大丈夫です」
そう言うと戸川が手際よく、刑事課に電話する。さらに駐在所への手配も済ませる。
「浅川さん、車出せますか?私、歩いてきたので」
「ええ、行きましょう」
なんとなく浅川は戸川を見直す。意外と出来る子なのかもしれない。
夢野のアパートは駅からそう遠くない場所だった。
神社からは15分ぐらいで現地に着く。
浅川がアパートを見上げる。このところこの周辺に漂う、何か得体の知れない空気をここでも感じる。アパートはよくある2階建てで全部で8戸ある。普通のモルタルなのだろうが、どこかくすんだ印象を受ける。夢野は2階の奥だと聞いた。
表に階段は無く、裏に回ると急いで階段を登る。
やはり若さには勝てない。戸川は先に一段抜かしで階段を駆け上がる。浅川はその倍近くかかる。
渡り廊下の奥に警察官と管理人だろうか、年配の男性がいるのがわかる。鍵を借りているのだろう。遠くから見ても二人の顔がこわばっているのがわかる。
浅川が部屋の前に来ると、その異様さにさらに気づく。
戸川がひっと言う悲鳴に近いあえぎ声をあげる。
部屋の中が見えるわけではないが、すりガラスの窓が廊下側にある。それがあたかも黒いカーテンを引いたようになっている。そしてそのカーテンが蠢いているのだ。そして何かの羽音のようなものが聞こえる。先ほどスマホから聞こえた音だ。ガサガサという耳障りな音だ。
「なんなの?」
警察官が震える手を抑えるようにして、鍵を開けた。
扉を開けると同時に無数の黒い塊が外に飛び出してくる。
それらが浅川や戸川、警察官、管理人に次々とぶつかってくる。
廊下の灯りはそれほど明るくないが、徐々にその正体が明らかになる。
まず、戸川が絶叫する。きゃあああああああああ。
耳がつぶれるかと思う絶叫である。ただ、浅川も同時に同じレベルで絶叫するしかなかった。
ゴ、ゴキブリ…
部屋から出てきた虫はゴキブリだった。それが部屋中に充満していた。虫は部屋の中を飛び回る。さらに壁や床、至る所で蠢いているのだ。まさに虫だらけの部屋である。
浅川と戸川は腰を抜かす。戸川にいたっては泣きだしていた。
警察官が必死でゴキブリを避けながら、室内に入ろうとする。ゴキブリは邪魔をする気は無いのだろうが、その圧倒的な数で警察官の動きを止める。口を開ければ入ってきそうだ。手で避けながらも室内を確認しようとする。
部屋は1DKなのか、ダイニングがあり、奥が6畳間のようだ。とにかく部屋中がゴキブリの巣になっている。
浅川も勇気を振り絞って室内に突入するが、ゴキブリが飛び回っている中はつらい。涙が流れる。手で避けながら少しづつ中に進む。
以前、テレビで殺虫剤のメーカーだったか、その研究所でゴキブリが室内で飼われていたのをみたことがあった。小さな実験室にゴキブリがうじゃうじゃいるのを見て、悲鳴をあげた覚えがあった。ここはまさにそういった部屋だ。いや、あの時の数をはるかに凌駕する。いったい、どうやったらここまでの数が集まるのだろうか。背筋が凍る。
そして奥の6畳間はその比では無かった。まるで山のようになってゴキブリが群がっている。ああ、浅川は気づく。これはカラスと同じだ。角砂糖に群がる蟻のようにカラスが山になっていたと聞いたが、これは同じ光景なのだ。ここではカラスがゴキブリになった。
戸川が泣きながら電話で応援を要請している。
浅川の前で何とかゴキブリの山まで到着した警官が、山をかき分けるようにして、首を振る。浅川の方に振り返ると、口を手で塞ぐようにして言う。
「もうだめだ。亡くなってる。あんたは外に出て」
浅川も警察官がかき分けた部分を見た。蠢くゴキブリの隙間にあったのは、骨と肉辺のようだった。
浅川が部屋から出る。尻もちを付いた戸川が茫然と見上げる。
「だめ、亡くなってる」
「いったい、どうして」
相変わらず、部屋中を縦横無尽にゴキブリが飛び回っていた。