長野日報
ここは長野日報の社会班である。松本市にある中堅の新聞社で、地元では根強い人気がある。部数もそこそこ出ており、大手新聞社に負けてはいない。
早朝、勤務が始まったばかりである。
浅川佳子は自席で苦いコーヒーを飲んでいた。寝起きに頭をはっきりさせるにはこういった飲み物の方が良い。
机の上に書類や書籍で向こうがよく見えない状態の男が、山の中から顔を出し、浅川を呼ぶ。
「浅川」
ぼんやりと考え事をしていた浅川が男を見る。
「はい?デスク、何ですか?」
「お前、ちょっと休んだ方がよくないか。顔色が悪いぞ」
「休んでる暇なんかないですよ」
「そうか、まあ無理するな。有給も残ってるだろ」
「有給?ああ、そんなものもありましたね」
デスクの眉間にしわが寄る。
「働き方改革で、有給取らないと会社側に罰則があるのは知ってるよな」
「こう見えても社会班所属ですからね。知ってるような知らないような」
「なんだそれは」
「有給取って休日にただ働きしてちゃ、意味がないってことです」
デスクは上を向く。浅川がいい機会だと思い出す。
「そうだ。デスク、お願いがあるんですが」
「ああ、何だ?」
「木曽福島の事件、正式に扱っても良いですか?」
「浅川の兄さんの事件だよな」
「それもあるんですが、どうも奥が深いようなんです」
「獣害か?」
「そうです。それどころか、地元じゃ呪いだとか、祟りだとか噂してるみたいで」
「ほーいいな。オカルトネタか、面白そうだ。浅川は何か見えてるのか?」
「ええ、兄がいたのは職業訓練校という新設の学校なんですが、事件に巻き込まれている人間が、みんなそこの関係者なんです」
「なるほど、つまりはその学校に何かあるというわけか」
「そういうことです」
「職業訓練校っていつできたんだ?」
「一昨年です」
「出来たばっかりか」
「そうです」
デスクは少し考えこむ。
「まあ、いいか、とにかく本業に穴が開かない限り、やっていいぞ」
結局、無理を言ってるのはデスクである。この会社で働き方改革はまだまだ先の話だ。
長野日報から木曽福島までは車で約1時間ちょっとだ。
浅川はこれまでも木曽福島の事件を何度も取材していた。浅川の実家は木曽福島にある。実家に帰るついでに取材もしていた。
また、兄、新三郎の件でも警察署に行くことが多くあり、すでに取材は始まっていたとも言える。ただ、デスクに正式に認めてもらったわけで、これで大手を振って取材できることになった。経費が使えるのが大きい。