出雲玲華への雪辱4
玲華は自宅から2駅先にあるリスタ法律事務所の前に立っていた。
駅から徒歩5分の便利な立地ではあるが裏通りを歩いた小さなビルの2Fにあるので狭苦しく感じる。
狭いテナント特有の急な傾斜の階段を昇り、右側の警備会社と一瞬場所を間違えた後に事務所前の受付に
繋ぐ電話をかける。ツーコールした後に出た事務所の人間に要件を話し、中にある塾の自習室のような
防音性はあるがカプセルホテルのような圧迫感のある応接室にて待たされた。
10分くらいしてドアからノックがされ、光が部屋に入ってきた。
直接会うのは2週間程だが心なしか光の表情や顔色はあまり優れていないように思えた。
「お久しぶりです。直接お会いできず申し訳ございませんでした。」
光は深々とお辞儀をする。よく見ると後ろ髪の寝癖と傷みが見える。彼女は彼女で大変なのだろう。が、
玲華は玲華で昨日送られてきた封筒の意味が分からず混乱状態のまま待ちきれずに今日アポなしで来たので
悪いが光の様子はとりあえず触れないで話を進めることにしたい。
「いえ。電話で確認を取れば良かったのですが急に押しかける形になってしまい申し訳ないです。
あの、要件は先日送られてきた封筒に関してなのですが…。」
自分の声が思っている以上にうわずっていて、やはり冷静さを欠いているのだろうと思ったが、とにかく
今は封筒の件の詳細が知りたいという気持ちが逸るので仕方がないだろう。
「えぇ。そうですよね。直接お電話でお伝えすれば良かったのですが、どうしても後ろめたく、はい。」
いつも快活に端的に会話を進める光がここまで歯切れ悪く返すのは初めてだった。
「送付した内容の通り玲華様が法的に賠償をする義務はございません。ですが被害者遺族様からの要求を無下にしてしまうと、玲華様の世間での印象を懸念し、熟考した末での判断だということをご理解いただきたく。はい…」
「世間での印象」とは無論私が純一を洗脳しているのではという疑惑だろう。
「話しづらいことを言わせてしまって申し訳ないのはわかっています。ただご存知かもしれませんが私にはこれから息子を一人で育てなければならないことを考えると金銭的な負担はむしろ夫より重荷になると
考えています。ハッキリ申し上げると私は払うことはできませんししたくありません。」
後半興奮状態になったのかアップテンポで話してしまったが話した内容に偽りはなかった。
本当ならば夫ではなく「元夫」とわざわざ口にして言いたい気分だった。
「えぇ。もちろん重々分かっております。しかし夫の純一様は現在非常に心身が耗弱状態にあり、鬱症状の診断もおりています。また今までの経歴から大人の発達障害と呼ばれる方と非常に傾向が酷似しており
出所後の就労のハードルも高いという結論に至りました。また被害者遺族の要望も絡んでいるとなれば非常に理不尽な要求かもしれないですが、一応賠償を肩代わりするというのも選択肢の1つとしては残しておくべきかと思います。こちら診断書の写真です。」と光は玲華にスマホを見せつけた。
「心身耗弱」、「大人の発達障害」、職場の前線でキャリアウーマンとして男達と戦い続けた玲華にとっては非常に腹立たしいフレーズのオンパレードだった。
そもそも被害者遺族である王谷氏の妻・葵はなぜここまで私に賠償をさせたいのだろう?
やはり例の洗脳疑惑だろうか?だとしても実際事件を起こした純一個人への恨みはないのだろうか?
「あの、被害者遺族と直接お話をさせていただくのは難しいのでしょうか?私には遺族の奥様が私個人に賠償を要求したがっている点が非常に不可解なのですが…」
怒りの感情と同時に沸き起こった疑問のおかげで少し冷静さを取り戻せたのか質問した自分の声のトーンはいつも通りに戻っている感覚がした。それに対して光は、
「いえ。えぇっと…遺族の方とお話は現在海外に滞在されていますし…はい、その、まぁはい。…ただ玲華様が賠償していただけるのであればその方が早いと言って、あっ、おっしゃっていました。えぇ…」
途中敬語を忘れてしまうほど歯切れの悪い回答をした。どうにもおかしい。
「先ほども言いましたがやはり賠償するというのは出来かねます。法的責任がないのであれば夫自身に
払わせるということで話を進めてください。」
違和感はあったがどのみち結論を変えるつもりはない。むしろ今日の話を聞いて意地でも純一に払わせようと思ったくらいだ。光は少し悩みつつも、
「…分かりました。では今後の方針については後日自宅に訪問させていただきます。先ほど見せた診断書のコピーを一応お渡ししますので少々お待ちいただけますか?」
と飛び出すように応接室を出て行った。
ここまで払わないと言っているのに処遇を保留にされたのには正直腹が立ったがまぁ昨日の今日で私も光もこれ以上は疲労で議論にならないだろう。純一の診断書なんて貰ったってイライラが募るとしか思えないがまぁ直接会わずに純一の近況を把握出来るなら悪くはないかと溜飲を下げた。
そもそもスマホで見せずに最初から渡せば…。そう思った矢先彼女がスマホを机に置きっぱなしにしていることに気づいた。
「彼女はもしかしたら重要な情報を握っていてそれを事務所から口止めされているのではないか?」
自分の頼もしい味方の狼狽ぶりを見てしまうとそんな陰謀論すらありえると思った。
玲華はスマホをこっそり手にして重要そうなアプリやメールをスワイプしまくった。
過去の業務のバックアップなども混ざっていたのでさすがに無謀かと思ったその矢先、メールボックスに
「Y」と登録されている人物から異常に通知が来ていることに気づいた。イニシャルだけの人物の連絡。
怪しむには十分だろう。玲華はとりあえず「Y」の直近のメールを開いてみることにした。そこには、
「メディアへの印象操作は上々ですね。それでは何としても「ヘレネー」に賠償請求の責任をおいかぶせて下さい。これが作戦第一段階の仕上げであり、【本格的な作戦】の序章になるのです。 Y 」
ヘレネー…?どこかで聞いた名だ。いやそんなことよりも光はYという謎の人物から自分を貶めるような
指令を下されていたのだ。
正直「Y」という人物への恐怖より、私は「数少ない信用していた人間」に裏切られていたという事実が受け止めきれないでいた。