70.おでこにガーゼのお姫様
ノアは、アイゼン家の、一番奥の客室の前に立った。途中、厨房で淹れてもらった東方の茶が、温かな湯気を立てている。
今日は気温も低い。既に日は落ち、外は肌を刺すような木枯らしが窓を叩く音がする。
───コンコン───
ノアは何も言わず、ジルベールの眠る客室をノックした。だが、返事は無く、物音もしない。
「ジゼ……………」
名前を呼びかけて、ためらった。
───キィ……───
そして、手の込んだ装飾の施された客室のドアを、そっと開けた。
部屋の中は、暖炉の暖かな明かりが灯っていた。心地良い温かさと共に、薬湯と、何か花の様な、甘い香りがほのかに漂っている。
スースー………
甘い香りに混じり、広いベッドの天蓋の中から、か細い寝息が聞こえる。
ノアはサイドテーブルに、ポットとティーカップを乗せたトレイを置くと、レースの天蓋をそっと開けた。
天蓋に囲まれた、広いベッドの真ん中には、おでこにガーゼを貼ったお姫様が眠っている。ぺたっと貼られたガーゼは、想像よりも大きかった。
ノアはベッドの端に、静かに腰を下ろした。
ジゼルは、薬を飲んで眠っているせいか、丸まったりせず、姿勢正しくベッドの中央で眠っている。白いシーツが、肩まで掛けられ、か細い寝息に合わせて上下していた。
今朝も彼女に会ったばかりだと言うのに、久しく会えていなかった気がした。
疲れ切った顔だな……
口元が、赤く腫れてしまっている……
腫れてしまった口元を、指先でそっと撫でた。
こんな状態の彼女を見ても、早く自分の物にしたいという欲望がよぎる、自分の思考に吐き気がする。
「チッ…………」
ノアは俯き、ガリガリと頭を掻いた。
もし………
運が悪ければ、ジゼルはベネット公爵子息と……
考えただけでゾッとする。気が…狂いそうだ…
「ジゼル────」
救いを求める様に伸ばした右手で、彼女の前髪を撫でた。彼女は、こちらを探す様に顔を動かした後、安心した様に微笑んだ───理想が見せた、都合の良い幻覚だったのかもしれない。
───今でも、時々夢に見るの。モニカの家に、夕食に呼ばれた日。アルバート兄さんが……結婚しようって言ってくれた時の夢。モニカの家で…私は泣いて喜ぶんだ───
現実でも、俺が最初に言いたかった。
それなのにあいつは……
夢の中でも、何度もジゼルに言っているのか。
許せなかった。どうしても。
「ジゼル、君の夫になるのは俺だ。例え夢の中でも…渡したく無い。」
スースー………
気持ち良さそうな寝息が、天蓋の中にこだまする。
「すまない、ジゼル。こんな事を言っても……家同士の正式な物で無ければ、君に取っては何の意味も無いのに……分かっては……いるのだが……」
家同士の婚姻。
俺も、それを望んでいて───
それなのに、どうしてこんなにも、
息苦しくなるのだろう………
スー…………ふふ……
「………ジゼル。笑っているのか?」
今、目の前にいるのに
ずっとずっと、遠くにいる様だ。
どうすれば……こちらを向いてくれるのだろう。
──彼女、泣いてたよ。ノアの、ベッドの上で──
ジゼルは、幸せそうに笑っている様に見える。
「俺は……どうして、都合の良い様にしか…見えないのだろう。」
起こさない様、そっと、頬に口付けた。
「…………ジゼル……………」
ノアは頬に口付けた後、目を見開き、ジルベールから体を離した。
「さ………酒くさいっ!」
そして、ジルベールに向かって叫んだ。
「な、何故だっ⁈酒を飲んだのか⁈あっ!だから君は幸せそうな表情で………!」
ぐー…………むにゃ……
「いびきをかくなっ!料理長だな……彼女に与えたのは………ジゼルッ!君は、酒はほどほどに──」
───ガチャッ───
「ノアッ!貴様また何をやっているんだっ!彼女には会うなと言っただろう⁈」
「父上っ……違います、私はただ───」
「何がどう違うんだっ!部屋に入るなっ!!さっさと出ろっ!」
「くっ………ジゼル………!」
おでこガーゼ姫は酒に酔っており、ノアは摘み出された。
───バタンッ───
──────────
客室のドアが閉まる音で、ジルベールは目を覚ました。
「う………ん…………?」
ゆっくり目を開けると、ベッドの回りを覆う、レースの天蓋が視界に入ってきた。
自分の他には、誰も居ない。
「………気のせいか。」
隣でアイゼン少佐が、優しく笑いかけてくれた気がした。
少佐は、軍にいる。
アイゼン家にはいないはずなのに。
それに…少佐はきっと、私が指示に背いた事を怒っている。笑いかけてなんかくれないだろう。
でも……
何度考えてみても、私は後悔なんかしない。
モニカの元婚約者を助けて良かった。
だから…どうしようも無かったんだ。
私はいっつも、自分に都合の良い夢ばっかり見るなぁ……
「ふあぁ……」
ジルベールは、ベッドの中で、上体を起こして伸びをした。
「久しぶりに、お酒飲んだからかなぁー。都合の良い夢見るの。」
ジルベールは、数時間前に、部屋で出された夕食を思い出した。
大好きな肉のシチューに、ふかふかのパン、大きめの櫛切りになった果物が、沢山入ったサラダ。
そして、グラスに入った、綺麗な赤いワイン。
物凄く美味しくて、一気に飲み干してしまった。夕食のお代わりを尋ねに来てくれたコックさんに、その事を告げると、おかわりと一緒に、ボトルを持って来てくれた。
産地の説明とか、してくれたけど…正直早く飲みたすぎて、頭に入って来なかった。そして最終的には、優しく笑いながら、ボトルごと部屋に置いていってくれたのだ。
幸せだったなぁ……
もちろん、あっという間にボトル1本空けちゃった。まだまだ飲み足りないけど、ほろ酔いっていうのも、良いものだなぁ。
ジルベールが、ベッドの中で、ワインにうっとりと想いを馳せていた時、足元のシーツが、モコモコと動き出した。
「んっ⁈」
そして、中型犬位の大きさの物が、モコモコとシーツの中を進んで、身体を登って来る。
「うわぁっ!何っ⁈」
「ばぁっ!!」
そして胸元から、金色の可愛い頭が飛び出して来た。
「リアム!」
「えへへ、ジゼル!こんばんは!」
モコモコの正体は、可愛いリアムだった。さらさらと揺れる金色の髪に、子どもらしく丸い、大きな紺色の瞳。ぷにぷにで、落っこちそうな頬っぺた。
ジルベールは笑いながら、リアムを抱き上げて、膝の上に乗せた。
「ジゼルが家に泊まってるって、大人達が話しているのを聞いたんだ。あのね、それでね、さっき、おじいさまと一緒にお部屋に付いて来たんだよ!」
「そうだったんだね。」
起きた時、人の気配がした様に思ったのは、アイゼン中将が、私の具合を見に来てくれていたのか。
やっぱり……少佐じゃ無かったんだ。
私…どうして、ちょっと残念なんだろう。
あんな事になって…会いたく無いはずなのに…
「ねぇ、ジゼル。僕も、ジゼルのお部屋で一緒に寝ても良い?」
私が少し考え込んでいると、リアムがねぇねぇ、と聞いてきた。
「え?」
「ねぇ、良いでしょう⁈僕もジゼルのお部屋で寝るっ!」
「リアム…もちろんだよ!一緒に寝よう。おいで!」
シーツをめくってやると、リアムは笑顔で、私の右側に潜り込んだ。そして、ぴとっと小さい体をくっ付けてくる。
本当に可愛いなぁ。メイジーと一緒に寝ていた頃を思い出す。
「ジゼル、何で笑ってるの?」
「ん?リアムが可愛いと思って。リアム、何歳だったっけ?」
「……もー。良いでしょ。何歳でも…」
年齢を聞くと、リアムはなぜか不機嫌になる。
「教えてよー。くすぐっちゃうぞ!こちょこちょこちょ……」
「あはは!やめてジゼルっ……6歳だよっ!」
「そうなんだね!」
脇をくすぐると、リアムはすぐに白状した。私はリアムの頭を撫でた。
「じゃあ、寝ながら、何かお話してあげるね!」
「えっ!やったぁ!わーいっ!」
リアムは目をキラキラさせて喜んでくれた。
メイジーも、寝る前に読む絵本や、お話が、大好きだった。
私も…お兄様にお話してもらうのが、大好きだったなぁ。
「何のお話が良いかなぁ。」
「えっとね、僕ね、戦うお話が良い!」
「冒険物か。そうだなぁ……」
暖かく、暖炉が灯る部屋に、ジルベールとリアムの笑い声が響いた。
木製のサイドテーブルの上には、湯気の消えてしまった東方のお茶が、気付かれる事無く、ちょこんと取り残されている。
お読み頂き、ありがとうございます。
不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
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