65.兄と弟
「旦那様っ!正気ですか⁈まだ6歳ですよ⁈」
「徴兵される者でも──その年齢はありえませんよ!しかも…アイゼン侯爵家の子どもが、士官学校からでなく、一般兵と同じ、新兵からなんて………どうしてノア坊ちゃんだけその様なっ………」
「然るべき年齢になれば、士官学校へは通わせる。ノアにとってはそれが一番本人のためだ。ノアは必ず戦果を上げる。」
「その前に死んでしまったらどうするのですかっ!!」
アイゼン家のリビングでは、子ども達が部屋へ帰った後、大人達が言い争いをしている。
ルーカスは、内容を聞いて、リビングの扉をそっと閉めた。
今日は、弟のノアの、6歳の誕生日だった。
夕食の時間、家族でお祝いをした後、父親から、使用人達も含めたアイゼン家の者全員に、来月からノアを入軍させると唐突に告げられた。
皆一様に驚き、母親は知っていたのか、俯いて泣いていた。
父親が告げる横で、ノアはいつもの様に、無表情で立っていた。話終わった父親が、小さなノアの頭に、右手をぽん、と乗せて微笑んでも、ノアはにこりともせず、ただ前を向いて頷いていた。
ルーカスは、そっとリビングを立ち去ったあと、2階への階段を登り、ノアの子ども部屋へ向かった。
俺でも……今年から、士官学校の年少部へ、入学したばかりだ。
士官学校へ通う者は、ほとんどが貴族の出で、卒業と同時に多くが軍人となり──違う進路に進む者も一定数いるが──軍の将校か、その一つ下の階級からスタートする。
「ノア、まだ起きてる?入るよ?」
ノアの部屋のドアを開けると、ノアはベッドの端に腰掛けていた。
「兄上、」
自分にそっくりの、幼い弟は、こちらを見ると顔を上げた。
「ノア、起きてたんだね。何して───それ…またフィンレーに意地悪されたの?」
ノアが両手に抱えている物を見て、俺は顔をしかめた。
ノアは、今日の誕生日のお祝いに家の使用人達からもらった、ブリキでできた、馬車のおもちゃを抱えていたが、よく見ると車輪が全て壊されていた。
「…………フィンレー兄さんかは、分かりませんが……」
ノアは壊れてしまったおもちゃを抱えて俯いている。
「全く。どうしてあいつは、お前に意地悪ばかりするんだ……」
俺はため息を付いた。
誕生日のお祝いの席で、使用人達からこれを貰ったノアは、嬉しそうに頬を染めていた。
その隣で、「ノアには子どもすぎないか?」と馬鹿な父親はケチを付けていたが。
同じ弟なのに…フィンレーはどうしてこうも底意地が悪いのだろう。
大方、普段感情を表に出さないノアが、面白くない……そんな所だろう。全くしょうもない。
「分かりませんが…取り合っても無駄なだけですから。」
ノアの横に腰を下ろし、淡々と大人な返しをする弟を、ルーカスは見下ろした。自分と同じ色をした、右回りの、かわいいつむじが見える。
「………ノア、入軍するんだね。」
「はい。」
「父上が、勝手に決めたんだろ?嫌じゃない?」
「嫌ではありません。戦果を上げる事が、僕の役割なので。」
「ノア───」
まともに新兵から入軍すれば、それだけ死亡率も高くなる。
確かに、ノアには武芸の才能がある。だけど……
側から見れば、嫡男の自分や次男のフィンレーは士官学校から通わせ、三男のノアは若干6歳で軍に送る───
恐らく、無事に戦果を上げてくれるだろうが、死んだとしても、仕方ない。
それよりも、ノアの才能を試してみたい。
そういう思考なんだろう。父親は……
つくづく、軍人なんか、頭のおかしな人間ばかりだ。自分の選択を後悔する日が来ても、俺は知らないからな……クソ親父……
「ノア……ノアはね。もっと家族に、言いたい事を言っても良いんだよ?主張しないと分かってもらえない事もある。」
「そういうつもりはないのですが……」
「特に父親は、言っても分からないからさ。ノアは遠慮する必要はないんだよ?まだ6歳なんだ。」
「………そうですね。本当に、特に不満はありません。」
「ノア、」
「だけど……」
「毎日、家の人達と会えなくなるのは……本当は……少し寂しい気がします。」
ノアは顔を上げながらそう言った。
「ノア………」
人の表面しか見ていない父親は、
普段感情を出さない、まだ幼い6歳の子どもの中に、
他の子どもと何も変わらない、
上手く表現する事の出来ない、子どもらしい感情が渦巻いている事に気付かない。
そしてそれを、家の使用人達に指摘されても…
聞き入れようともしないのだ。
「ノア、その馬車は、俺が修理してあげるよ。」
「いえ……来月から、兵舎で暮らしますし…どうせ持っては行けませんから。」
「いいの?」
そう言うと、ノアは一瞬考えた顔になった。
「やっぱり…お願いします。皆がくれた物ですから。この部屋に、置いておきたいです。」
「分かった。修理したら、机の上に置いておくよ。」
「ありがとうございます、兄上。」
そう言って、ノアは少し微笑んだ。
「じゃあお休み、ノア。また読書して、夜更かししたらダメだよ?早く寝なさいね。」
「はい。」
素直にそう返事をしたが、またずっと戦術書でも読んでいるのだろう。後で、料理長に、寝るように言いに来てもらうか。
翌月、新兵として入軍したノアは、最年少記録の更新と共にすぐに耳を取り、父親に自身の考えを強く肯定させる事となった。
「料理長、厨房忙しそうね。今日、何かあるの?」
アイゼン家お抱えの女医は、珍しく活気付いている厨房をひょこっと覗き込んだ。
「あぁ、君か。忙しいも何も…大変だよ。今日の夕食に、ノア坊ちゃんの婚約者が来て、晩餐会があるんだ。」
料理長は、額の汗を白いタオルで拭きながら答えた。そして、何やらボールに入ったクリーム色の液体を、ガシャガシャと泡立て始めた。
「え………?今、何て言ったの?」
「ノア坊ちゃんが、婚約者を連れて来るんだ!」
ガシャガシャガシャガシャ───
「婚約者……誰の……?」
「ノア坊ちゃんだよ!」
「ノア様の…?何…?」
ついに料理長は、作業の手を止めた。
「だからっ!ノア坊ちゃんが!ノア坊ちゃんの婚約者を連れて!夕食を食べに帰ってくるんだーっ!しかも今日!」
「えっ!えええええええええーっ!」
女医の叫び声に、他のコックからうるさいぞ!と怒号が飛んだ。
「ご、ごめんなさい…でも、それ、本当なの⁈」
「本当だよ。昨日旦那様から聞いてはいたんだが…ついさっき、ノア坊ちゃん自ら、晩餐会に出したいメニューを言いに来てね。その後また、軍にとんぼ帰りだよ。」
「ノア様が自分で…?ねぇ、旦那様が用意した、ノア様の縁談って…全部先方から断られて破談になったんじゃなかったの⁈」
「その通りだ。一字一句間違って無い。」
「じゃあ、婚約者なんかいる訳…はっ!まさか…ついに、頭がおかしく……⁈」
「おい!失礼だぞ!気持ちは分かるが、本当に存在するんだ!」
「だ、誰なのよっ!!」
「……8年前か。ノア坊ちゃんには、軍に、仲の良いご友人がいただろう?」
「えぇ。それは覚えてるわ。でも、その方は確か……」
「殉職してしまわれた。8年前に。そのご友人には妹さんがいて、木の実のケーキが好きだとかで。ノア坊ちゃんに頼まれて、良く作って渡していたんだが…」
「そうね。それも、覚えているわ。」
「その、妹さんだよ。」
「え…」
「その、ご友人の妹さんが、ノア坊ちゃんの婚約者だ。」
「まぁ………」
女医は驚きと、感動の入り混じった表情を浮かべ、料理長は微笑んだ。
「それは…本当に良かったわ…妹さんと、親交がお有りだったのね、ノア様は。」
「親交も何も。妹さんも、軍人だよ。ガルシア家だからね。」
「ガルシア家──って…もしかして、これ?」
女医は小脇に抱えていた書類から、一枚の紙を出した。それは、今日仕事で街に行った時に配られていた、志願兵募集のポスターだった。
「あー!そうそう!ノア坊ちゃんの言う通り、銀色の髪がよく似合っておいでだ。ノア坊ちゃん、ずーっと彼女の話をするもんだから、料理が焦げちまってね。よっぽど、好きなんだろうねぇ。幸せそうだったよ。」
「いやいやっ!妹って…ジルベール様⁈」
「そう。軍人令嬢ジルベール様。」
「来るの⁈今日、ここに⁈」
「だからこんなに皆忙しくしてるんだろうが。」
「嘘…ノア様が…ジルベール様と…」
「しかも、ガルシア男爵と、旦那様は、戦友らしいからね。ノア坊ちゃんにとって、願っても無い、良縁だよ。」
「………本当ね。ノア様が…ジルベール様と……ね、ねぇ、大丈夫かしら?」
「何が?」
「ほら…ノア様は…ちょっと、なんと言うか…ずれてる所があるじゃない?女性に対して、ちゃんと接する事が出来るのかしら…」
「それは……ノア坊ちゃんは、6歳から軍にいるんだ。おかしくもなるさ。だけど、ジルベール様も、あの有名なガルシア家の王命で、子どもの時に入軍させられたんだろ?お互い、理解し合えると、私は思うよ。」
「……きっと、そうね。」
「そうさ。」
「嬉しそうね、料理長。」
「嬉しいに、決まってるだろ?ノア坊ちゃんが、自分で、好きな相手を見つけて来たんだ。正直ね、旦那様は、縁談が全て破談になったと嘆いておられたけど、6歳で軍に入れられて…大人になったら次は家の為に結婚しろだなんて…そう何でもかんでも押し付けたら、あまりにもノア坊ちゃんが可哀想じゃないか。私はね、ノア坊ちゃんに、人として、幸せになってもらいたいんだ。」
「……皆、そう思っているわ。それにしても…なんだかすごい量ね。そんなに大勢来るの?」
「いや、ジルベール様と、上官の方だけだよ。ノア坊ちゃんによれば、ジルベール様は沢山召し上がるらしいんだ。」
「えぇー……ちょっと多すぎなんじゃ…」
「まあ、仕事のしがいがあるよ。いつもは、料理も質素だろう?たまには、ね。暇なら手伝ってくれるかい?その棒付きの果物に、チョコレートを付けて、バットに並べてくれ!」
「分かったわ!」
アイゼン家の厨房は、慌ただしくも、幸せに包まれていた。