2.病室ではお静かに
ぼんやり目を開けると、見覚えのある天井だった。今まで、飽きるほど、見上げてきた。
軍の医務室だ。
頭の痛みと共に、記憶も蘇ってくる。
記憶とは、簡単には無くならないものだな。
どうせなら、無くなってほしかった。軍での記憶なんか、嫌な事ばっかりだ───
いつもの、負傷兵用の相部屋だけど、今日は、ベッドの周りを、白いカーテンで区切られている。
またぼんやりと眠りに落ちようとした所で、聞き覚えのある声に、眠りを妨げられた。
声というか、会話、というか…酷い罵り合いだ…
「私、家名をひけらかす様な事は普段はございませんのよ?ですけどね、今回ばかりはお父様から、軍と貴方のご実家に苦情を入れて頂きますわ。貴方がやった事は婦女暴行です。たとえ部下でもあるまじき事でなくて?」
「モニカ・ベネット公爵令嬢、確かに私は彼女に怪我をさせてしまいました。大変申し訳なく思っていますが、これは事故です。事実、現場検証もあり、そう処理されております。」
「あなたがそう処理させたのではなくて?」
「なにをおっしゃいますか、憶測で物を言わないで頂きたい。」
「あなたこそ、ジルに憶測であれこれ問い詰めたのではなくって?すでに街でも、噂になっておりますわよ?隣国帰りの貴方が、ジルに憶測で言い掛かりをつけた挙句、暴行を働いて傷を付けたと。」
「その様な事実はございません、モニカ・ベネット公爵令嬢。」
白いカーテンに囲まれた病室のベッドの外で、大声で罵り合いをしているのは、モニカと……アイゼン大尉だろう。
それにしても軍の医務室でここまで言い合えるのはすごいな。私も他の受傷者達も、完全に息を潜めている。
アイゼン大尉のセリフは、まるで昨日の自分の様だ。
いやしかし、その様な事実はあるだろう。
嘘を付くな嘘を──。私は投げ飛ばされて打ちどころが悪く失神したぞ。いや、それどころか……
若干不慮の事故の様な気もしなくはないが…それにしても横暴すぎる。これだから軍人のお偉いさんは嫌なんだ。
息を潜めていると罵り合いは更なる盛り上がりをみせてきた。
「そんな言い訳信じられると思って?貴方戦場帰りだからって、欲求不満をジルにぶつけようとしたんではなくて?」
「ご冗談を、仮にも軍人ですから、欲求の発散相手位わきまえております。それに私にも好みがありますから。」
──欲求不満?……どういう事だろう。最後の一言は、すごく失礼な気がする。怪我させといて……無礼千万じゃないのか…
「そうかしら?ノア・アイゼン侯爵子息様。あなたみたいな粗野で、野蛮な、侯爵家三男なんて、娼館の方々以外には相手にもされないんじゃなくって?」
──もはや会話が高貴過ぎてついていけない、あいつは侯爵家の三男なのか…十分雲の上の人だと思うけど、改めてモナの家はすごいんだな……何?しょうか……?最後の方、よく聞こえなかった。
ベッドに横たわる受傷者全員が、この争いが無事に終わる様、神に祈りを捧げ始めた時、助け船がやって来た。
「ちょっと貴方達!ここは、医務室です!いかなる理由でも揉め事は厳禁ですよっ!」
──神様女神様っ!この声は、女医のオリビア先生だ!やっとまともな人がやって来た…
「オリビア様…おっしゃる通りですわ。私ったら、申し訳ございません。ジルが起きるまで待ちたいと思っておりましたが、本日はこれで失礼させて頂きます。」
「モニカ様、ご心配なさる気持ちは分かります。おそらく、近いうちに目を覚ますでしょう。ジルベール軍曹の意識が戻り次第、ご連絡させて頂きますので、ご安心なさって下さいね。」
「ありがとうございます、オリビア様…」
「オリビア殿、彼女が目覚めたら私にも──」
「お前は死ねっ!クソ大尉がっ!家ごと潰されろ!」
──あぁっ!オリビア先生っ…………!!
受傷者達は全員静かに目を閉じた。そして神を信じる者もそうでない者も、心を一つにして懸命に祈りを捧げ続けた。