49.義兄と呼んでくれ
「は……ジゼルの妹と⁈」
特科連隊情報中隊の詰所に、ノアの拍子抜けした声が響いた。
先程ジゼルに、私室にいる様に告げた後、急いで特科連隊情報中隊の詰所に戻って来た。オーウェン・ミラーに、事の詳細を確かめる為だ。
詰所の扉を開けると、そこはお祭り騒ぎで、オーウェン・ミラーを他の兵達が取り囲み、今から酒場で結婚祝いだなんだと、騒ぎ立てている。
やはり…彼女と……
オーウェンに近づいて行くと、俺に気付いた詰所の兵達は黙り始め、オーウェンを取り囲んでいた者は、蜘蛛の子を散らす様にその場を離れた。
「はい、少佐。以前から、打診されていたのですが…ジルの妹はまだ10歳ですから。例え王命から逃れる為とはいえ、直ぐには返事をしていなかったのです。」
「王命から逃れる為…なるほど……」
ガルシア家に掛けられている王命は、嫡男を従軍させる、というものだ。家を継ぐ男児を強制的に徴兵し、後継ぎの子が入軍するまでは、軍を辞する事は出来ない。ガルシア男爵であるジキル殿は、テオドールの入軍後、彼の勧めもあって退役した。
そして、テオドールの殉職と同時に、ガルシア家に男児がいなかった事から、当時10歳だった長女のジゼルを徴兵すると、国王からの勅令が出された。
妹を王命から逃す為───
ジゼルが、策を打ったか。
王命は、あくまで「ガルシア家」に掛けられている。結婚し、ガルシア家から出た事になっていれば、王命の及ぶ範囲外であろう。
しかし、勅令を出されたら、話は別だ。例えガルシア家から出ていようと、どうとでも言える。
だが…ジゼルが広報部と活動を開始してから、軍人令嬢ジルベール・ガルシアとして市民から支持を得ると共に、ガルシア家に掛けられている王命も、広く世間に知られる事となった。
彼女の妹の結婚、となれば、当然市民にも知れ渡るだろう。その妹を、無理矢理に勅令で徴兵すれば、支持率の下落は免れない。そうまでして、徴兵する価値があるとは考え難い。
現時点で出来得る、最善策であるだろう。
「ガルシア家には、王命が掛けられているが……例え王命といえども、ガルシア家に同情する者は多い。現に軍内にも、ジゼルの徴兵に異議を唱える者もいた。俺も、出来る限りの事はしたいと考えている。」
「アイゼン少佐──」
オーウェン・ミラーは、上官の意外な発言に驚き、目を丸くした。
高位貴族であればある程、古くから王族に毛嫌いされているガルシア家には触れたがらない。こんなにはっきりと、ガルシア家の肩を持つ発言をするとは思わなかった。
現に、表立ってガルシア家に好意的な態度を示している高位貴族は、ベネット公爵家、そして軍の広報部、アデル部長のマルティネス公爵家くらいだ。
そうか…リー中尉も言っていた。この人、ジルの兄さんと戦友だったらしいからな。それで───
「結婚おめでとう、オーウェン。アイゼン家としても、祝福する。」
「あ、ありがとうございます、少佐。」
「仲人は、アイゼン家がしよう。リー中尉の家は、彼自身が婚姻の準備で忙しいからな。それが良いだろう。」
「っ……!アイゼン少佐……そこまで……良いのですか?もし、そうして頂ければ、ジルも喜ぶと思います。」
オーウェンは珍しく、瞳を緩めた。
「仲人位、何でもない事だ。」
「ありがとうございます、少佐……」
「これからも、彼女の妹と共にガルシア家を支えてやって欲しい、義弟よ。」
「は……?弟?」
「今後の武運を祈っている。」
「え……あ、ありがとうございます、アイゼン少佐。」
「ああ。これから俺の事は、私的な用件の場合──いや、多少性急すぎるな。さすがに彼女との話が付いてからか……気にしないで欲しい。」
「はい………」
「とにかく、おめでとう。」
ノアは、しっかりとオーウェンの右手を取り、固く握手を交わした。
詰所に居合わせた者は、一連の流れを聞き、2人に拍手を送り、ジルベールの境遇に同情していた者は涙を流した。
「これから、皆で飲みに行くのか?オーウェン。」
「はい、皆が早々に結婚祝いをしてくれると。」
「だったら、酒代は俺が出そう。これを店に出すと良い。」
ノアは軍服の内ポケットから、紙幣と同じ大きさの紙を出して、オーウェンに手渡した。
橙色で半分に折られ、まるでメモ紙の様に渡されたそれを見て、オーウェンはもちろん、詰所に居た者達は興奮した。
「えっ!橙半紙じゃないすか!いいんですかっ!」
一見遠慮する様だが、オーウェンは早くもしっかりと、その紙を受け取った。
橙半紙──いわゆる小切手である。橙色をして、一枚一枚が手帳の様に閉じられた紙であり、一定の資産を銀行に有しているものは、その銀行に発行してもらう事が出来る。店で使用する際は、橙半紙を店に渡し、店側、もしくは所有者が金額を書く。後日店側が銀行に行き、その額を受け取る。高位貴族や商人はもちろん、庶民でも財を成して裕福な者など、銀行に資産があれば誰でも使う事が出来る。
「俺からの結婚祝いだ。好きなだけ飲んで良い。」
「ありがとうございます!少佐!あの、他の皆も飲ませて頂いても……?」
「もちろんだ。構わない。飲みに来たものは全員それを使うと良い。」
「ありがとうございます!」
詰所内は、今日一番の盛り上がりを見せた。所々で、ノアに感謝する声や、橙半紙様っ!と叫ぶ声がする。
「少佐、そういえば、ジルは飲みに行けないんですか?妹の結婚祝いだから、あいつも誘いたくて…少佐も一緒に来てもらえませんか?俺達だけじゃ、悪いですし。」
「気遣い感謝するが、今日は彼女と2人で夕食を取る事にしている。今から、仲人の件も告げるからな。その話もある。俺達は抜きで行って来なさい。」
「仲人の話…そうだったのですね。ありがとうございます。」
「楽しんで来ると良い。ほら、早くしないと、お前らは明日も野営訓練だぞ。さっさと行け。」
「はい、少佐!」
オーウェンが、行くぞー!と拳を振り上げると、全員勢い良く、ノアと橙半紙に礼を言いながら、あっと言う間に詰所を出て行った。廊下から、中隊の奴全員誘えーっ!とオーウェンの声が聞こえる。
ノアは、空っぽになった詰所に取り残された。
「彼女は、想いを寄せていた訳では無かったのか。あの表情は、妹を思って…」
無意識に呟いた声が、詰所にこだました。
詰所の静けさに反して、自分の中に、何か温かい物が溢れている気がした。それが何かは分からなかったが、身勝手な温かさである事は、確かだと思えた。
お財布事情と橙半紙
ノアは、紙幣・硬貨を財布に入れず直接軍服のポケットにいれている。ジャラジャラする硬貨は好きじゃないが、軍の購買部で紫煙草を買う為に、硬貨も少し持ち歩いている。橙半紙も大体いつも数枚、紙幣と同じく、不用心に裸のままポケットに入れている。リソー国軍の佐官以上の兵は、給料が高いため、個人でも橙半紙を持つ事が出来る。付き合いもあるため、佐官以上になると持ち歩いているが、多くの者は財布に入れている。
リーは、橙半紙は持っていないが、お財布派。
ジルベールとオーウェンは、たまに上官に貰える橙半紙が大好き。ジルベールは、橙半紙を貰えると、使う前に橙半紙に長くキスする癖があるため、オーウェンに嫌がられる。高額紙幣を貰った時も、長く紙幣にキスしてオーウェンをイライラさせる。
ジルベールのお財布は、花柄の、赤くて丸いがま口財布。