42.上官で無い何かに
昼時の過ぎた軍の食堂、食事をする者もまばらな中、ノアはジルベールと、食堂の端の方、長いテーブル席の一番端に、向かい合って座っていた。
今、彼女はせっせと、山盛りの食べ物を次々に頬張っている。初め、料理の山に隠れていた彼女の顔は、ようやく見える様になってきた。
彼女は食堂で、楽しみにしていたハムサンドを買い求めようとしたのだが、何と、ハムサンドは何者かによって買い占められており、可哀想に、彼女は食べる事が叶わなかった。
錯乱してもなお、
あれ程食べたがっていたのに……
余程悔しかったのだろう。彼女は、カウンターで歯軋りをしながら目に涙を浮かべていた。
そもそも、軍の食堂で、買い占め行為をする奴がいるとは……例を見ない、卑劣な犯行だと言えるだろう。
彼女が、不憫でならない。
残念ながら、どの兵による犯行なのか、名前は分からなかった。
「ジゼル…可哀想に。ハムサンドは残念だったが、他に食べたい物は、何でも買ってやる。今日は、それで我慢して欲しい。買い占め犯は、見つけ次第処分する。」
カウンターで悔し涙を流す彼女をなだめながらそう言うと、彼女は納得した様に頷いた。
カウンターの内側に立つ、調理師の男が──俺が食堂に来た時、応対はいつもこの男だ──ジゼルをなだめる俺を見て、なぜか驚いた顔をしていた。
「ジゼル、美味しいか?」
ノアは、向かいに座るジルベールに尋ねた。山盛りの料理を食べるジルベールに対して、ノアは冷たい紅茶と、パン、サラダだけだ。
「はい!美味しいです。少佐は、それだけで良いのですか?」
「ああ。昼食は、これで十分だ。」
本当に、これで十分だ。むしろ、普段より食べている。
「お腹、空きませんか?」
彼女は、トマトソースのパスタを食べながら、心配そうに聞いてくる。
「夕食に、アイゼン家の料理を、君と私室で食べるからな。昼食は、それほど必要無い。」
「そうなのですね。私、錯乱した後は、いつもすごくお腹が空いて……」
彼女は心配そうに、そう言いながら、もりもり食べ続ける。
食べっぷりが…テオドールにそっくりだな。
彼女の口元に、パスタのソースが付いている。ノアは右手を伸ばして、親指でソースを拭った。
⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎
「……ノア……んう───」
うつ伏せのまま、彼女の柔らかな体を、しっかりと抱きしめた。
ふわふわだな………
目眩は、どんどん酷くなってくる。
少し、視界が回転し始めた。
彼女の頬に、顔を寄せると、視界は物凄い速さで、ぐるっと回転した。
「う………」
思わず、目を瞑ったが、それでも頭の中まで、ぐるんと回転している。
「ジ…ゼル……」
目を瞑ったまま、彼女を呼ぶと、確かに腕の中にあったはずの、彼女の気配が無くなっていた。代わりに、何か膝の上辺りで、衣擦れの音がする。
「わぁっ!」
ばっと顔を上げると、医務室のベッドの上で、彼女が叫び声を上げ、尻もちを付いている。
「ジゼル……そうか……ここは──気が付いたのか?」
一瞬、訳が分からなくなったが…そうだ。俺は、錯乱した彼女を医務室に運んで……
彼女が寝付いた事を確認し、目を覚ますのを待っていて、自分も眠ってしまったのか。
「少佐、顔が赤いですよ?大丈夫ですか?」
目の前で、透けていない下着を身に付けたジゼルが、尋ねてくる。
「……大丈夫だ。君が起きるのを待っていたら、眠ってしまって……少し、夢を見ていた様だ。」
俺は……
夢の中とはいえ、流石に何と身勝手な事を……
夢での罪悪感から、脱がせていた彼女の軍服の上着を、ぎゅうぎゅうと着せ付けた。
「あの……私、どうしてここに……」
「君は、錯乱してしまったのだと、リー中尉が言っていた。それで、正気に戻るまで、ここに寝かせていた。暑くて寝苦しそうだったから、上着を脱がせていたんだ。」
軍服の前ボタンも、しっかりと留めた。全ては罪悪感からだ。
「ありがとうございます、少佐。ご心配をおかけしました。」
いや、むしろこちらがありがとうだ。
「君は…もう、先程の様には呼んでくれないのだな。」
夢の中や、錯乱していた時…確かに呼ばれた声が、今も耳に残っている。
彼女にとって、決して、上官で無い何かに、
なれた気がした。
「え?」
「いや、いい。仕方の無い事だ。君が、目が覚めて良かった。具合は悪くないか?」
「はい、もう大丈夫です。」
そう言って微笑むジゼルは、いつもの状態に戻っている。無事に目が覚めて良かった。
きっと、彼女はお腹を空かせているはずだ。早く食堂に連れて行こう。
⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎
ノアは、先程の事を考え込みながら、ほぼ無意識に、そのソースの付いた親指を、自分の口に持っていった。視界の中で、彼女はそれを、少し目を見開いて見ているのが映った。
少し、彼女の頬が赤い。水色の瞳がこちらを見て小さく震えている。が、決して食事の手は止まらない。赤く染まった頬は、まるで頬袋の様に食べ物が詰め込まれ、もぐもぐと動いている。
ノアは、ふと、思い立った様に、ジルベールの前髪に手を伸ばし、そっと掻き上げた。
そこには、夢の中の様に、額の右側の生際に、引っ掻いた様な、小さな古傷があった。
「ジゼル……この額の傷は……」
ノアは目を見開いた。
「え……あ、えっと…この傷は…確か、果物を取ろうとして、木に登って落下した時、かな…」
ジゼルは、ごくんと食べ物を飲み込んで答えた。
先程の…夢と同じ……
「その……まさかとは思うが、身体が痛んだりは……」
「え…?すみません、錯乱していたので、全く記憶は無いのですが、大丈夫です。それに、医務室に寝かせて頂きましたので。ご心配をお掛けしました、少佐。」
「そうか。それなら、安心した。」
しかし、この様な偶然があるとは──
彼女の、額の古傷を左手でそっと撫で、そのまま頬に手を滑らせた。
「少佐──」
彼女の赤らんだ頬が、更に赤くなる。焦点のしっかりと定まった水色の瞳が、揺れながらこちらを見ている。
彼女は、くすぐったがる様に、掌で包まれた左側の頬を、少し傾げた。
「ジゼル──」
「アイゼン少佐、貴方にはここが、小洒落たレストランにでも見えているのかしら?」
「……マルティネス部長殿、」
ふと見ると、テーブルの横に、腰に手を当て、呆れた様な顔をした、広報部のマルティネス部長が立っていた。
気付かなかった。いつから居たのだろう。
ノアは仕方なく、伸ばしていた左手を引っ込めた。
「たとえレストランだったとしても、褒められたマナーとは言えないわね。」
マルティネス部長は、目を細めて俺を睨んだ。
「アデル部長、お疲れ様です。」
「久しぶりね!ジルベールちゃん!元気そうで、良かったわ。食事の邪魔をしてごめんなさいね。」
「いえ、そんな事は……」
マルティネス部長は、彼女ににっこりと、手を広げて笑顔を向けた。
「マルティネス部長殿、お一人なのですか?」
いつも、周りにうじゃうじゃといる、煩い広報部員達はおらず、マルティネス部長は単体だ。
「そう!ティータイムも終わったし、今はソロ活動中よ!」
「……そうなのですね。何か、我々にご用ですか?部長殿。」
そう言うと、マルティネス部長はギロっとこちらを睨んできた。
「あんたを見かけたからね。早々に抜け出したのね、無愛想少佐!誰かに開けてもらったのね!」
「あの……アデル部長、何かあったのですか?」
「ジルベールちゃんは気にしなくて良いのよお!こっちの問題だからね!」
気にしないで良いと言われ、彼女はまた、もりもりと食べ出した。一緒に買った、冷たい紅茶も、腰に手を当て、ごくごくと飲んでいる。
それを見て、マルティネス部長は彼女に視線を向けた。
「……仲が悪い訳では無いのね、貴方達。」
「もちろんです、マルティネス部長殿。」
「だったら何で、あんな騒ぎを起こしたのか…理解もしかねるけど。」
「私の考えが、至らなかったのです。ガルシア家には、謝罪に赴きます。」
会話を耳にして、彼女はきょとんとしている。
マルティネス部長はため息をついた。
「まあ……まず、相手の胃袋を掴む、っていう方向性は、間違ってないわね。」
だいぶ減ったが、まだ、彼女の前に山盛りにある料理を見て、マルティネス部長は静かに呟いた。
そして、じゃあまた今度、と言いながら、食堂のカウンターに歩いて行った。
「あの……少佐、さっきのアデル部長とのお話は、一体……」
「ああ、その───」
その時、カウンターの方から叫び声がした。
「すみません、アデル部長!今日は、ハムサンドは───」
「何ですってええぇぇぇぇ!!」
カウンターの前で、アデル・マルティネスは膝から崩れ落ちていた。
お読み頂き、ありがとうございます。
不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
続きが気になる!と思って頂けましたら、
「★★★★★」をつけて応援して頂けると、励みになります!
どうぞよろしくお願いいたします。