37.嘘付きはハムサンドの始まり
「ちょっとやり過ぎたな……けどよ、先に手出ししてきたのはお前の方だからな、ジル。」
「……ゲホッ……」
独房へ続く階段を降りながら、ウィリアム・リーは呟いた。左手で錯乱したジルベールの脇を抱え、ゆっくり歩かせながら、右手で紫煙草をジルベールの口に押し当て、無理矢理吸わせ続ける。
ジルベールは、焦点の合わない両目で階段の先を見ながら時折り咳き込み、何か意味をなさない言葉を呟く。
以前はよく錯乱して、この状態になっていた。ジルも実力が付いてきて、段々と錯乱しなくなり、最近ではほぼ、無くなってきていたが……
だが、多少強く殴り過ぎたとはいえ、錯乱する程か?俺がマシューの指示を聞く様に言った事が、よっぽどストレスだったのか?
だいたい、どうしてそこまでマシューを嫌うのか…マシューとは、軍に入ってから長い付き合いだが、小隊長としてだけでなく、人間性も素晴らしいと思える。高位貴族だが、それをひけらかすことも無く、俺や、オーウェンとジルがまだ下級兵の時も、決して野次ったりしなかった。
──別に……私は、隊付きの兵にして頂かなくても結構です。そんなに私の態度が気に入らないなら、ルイス少尉の隊から外して下さい──
それなのに…あんな言い方しやがって…
確かに、偵察班の者は、全員が隊付きの兵では無い。だが、隊付きの経験がある方が出世もし易く、遠征に出る任務の際は、近くに自分の付いている隊を配置してもらう事も出来るため、難易度の高い任務であったとしても、無事に帰還出来る可能性が高まる。
理由はいろいろあるが…一番の理由は、隊付きの経験が無い兵は、捨て駒にされる可能性がある、という事だ。まあ、経験があれど、可能性がゼロでは無いが……
任務という名目で、自分が知らぬ間に、作戦遂行の為の駒として使われる。そのまま本人は殉職する為、最後まで気付く事は無い。
ジルにとっては、絶対に隊付きの方が良い。何としても、どこかの小隊に付けたかった。マシューも、その方が良いと言って、ずっと自分の小隊に付けてくれている。多少実力が付いてきたからと言って、まだ隊を抜けるには早すぎる。
隊付きになりたくても、なれない者もいると言うのに…今回ばかりは我儘が過ぎる。
「ジル、着いたぞ。敵兵はいない、安全だ。ここで大人しく寝てろ。」
「………ケホッ……小麦粉。」
──ギィ──
ドアノブを回し、金属製の扉を押し開けた。そして、独房の檻に目をやると、誰も居ないはずの檻の中に、誰か座っている。
「あ、アイゼン少佐……!何故、独房に……ここの使用記録は無かったのですが……」
檻の中で両膝を立て、壁にもたれ掛かり座っているのは、アイゼン少佐だった。少佐はこちらを見留めると、少し驚いた様に口を開いた。
「リー中尉、彼女を独房に入れに来たのか?何があった?」
「いえ……少々錯乱してしまいまして……」
「錯乱?確かに、焦点が定まっていない様だが…」
「……ケホッ………リー軍曹、誰かいる…」
「大丈夫だ、ジル。敵兵じゃない。……強いショックや、ストレスを受けると、新兵の頃の記憶と混同してしまうのです。最近は、錯乱する事は殆ど無かったのですが…」
「そうか。今日は下級兵の強化訓練だろう?何がそんなにストレスだったのだ?あぁ、その前に、独房の鍵を持っているか?開けてもらいたい。」
「あっ!はい、失礼しました、少佐。」
独房の鍵を開けると、少佐はゆっくり檻から出てきた。錯乱したジルベールを見た後、こちらに視線を向け口を開く。
「すまない、来てくれて助かった。流石に、一日中ここに入れられていては、軍務に支障が出るからな。」
少佐はそう言うと、前髪を掻き上げた。
「あの…もしかして、アデル部長に…?」
「そうだ。」
やっぱりそうか…激怒していたもんな…アデル部長は。あの後、無理矢理入れられていたのだろう。
「それで、彼女は何故錯乱している?」
「……リー軍曹……」
ジルは、少佐の方を向いたまま、こちらを見ずに呟く。
「大丈夫だ、ジル。この人は味方だ。敵兵はいないと言っているだろ?………流石に、マシューに対する態度が悪過ぎたので、叱責したのですが、少々強く殴り過ぎた様で…」
「そうか………大丈夫なのか?」
少佐は、右手でジルの頭を撫でた。ジルは焦点の合わない目を少佐に向けると、身構えた。
「ジル、大丈夫だって……いつも、しばらく独房に入れると、一眠りして元に戻りますから。」
「………ケホッ……ロールパン。」
少佐はジルの顔をじっと見た後、その切れ長の目でやや睨む様にこちらに視線を向けた。多少やり過ぎだと思われたか……
「彼女は、俺が医務室に連れて行こう。独房に入れる必要はないだろう?」
「えっ⁈ですが…錯乱していますから……」
まさか、この人が自らジルを医務室に?そんな事を言い出されるとは思わなかった。
「暴れている訳では無い。医務室でも構わないだろう。寝たら正気に戻るのか…寝付くまで見ていよう。」
「そんなっ!少佐にそこまでして頂く訳には…!」
「構わない。彼女をこちらに寄越せ。」
「……ゴホッ……クロワッサン。」
「ですが……」
「いいから。」
「い、いいから?……承知しました。お手間をおかけして申し訳ありません、少佐。」
「ほら、行け。」
ジルを少佐の方へ促すと、ジルは一歩進んだ所で立ち止まった。
「では…お手間をお掛けして本当に申し訳ありません、少佐。宜しくお願いいたします。」
「ああ。」
ジルは少佐の方を向いたまま、振り返らない。
ウィリアム・リーは、アイゼン少佐がジルを引き寄せるのを確認して、独房を後にした。
──────
「かわいそうに。君は、こんなものを吸う必要は無い。」
ノアは、ジルベールが咥えさせられていた紫煙草を取り上げると、代わりに自分が口にした。そして、ジルベールにかからない様に、そっと薄紫色の煙を吐き出す。
「リー軍曹、誰かいる。」
ジゼルは、焦点の合わない両目でこちらを向いたまま、独房を出たリーに話しかけている。
「リー軍曹、おんぶしてっ!」
「ジゼル、リーは退室した……が、大丈夫だ。敵兵は居ない。」
「リー軍曹……ぐすっ……うう……」
ジゼルは、子どもの様に泣き出してしまった。焦点の合わない水色の両目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちている。
「ああ、ジゼル……困ったな。」
ノアはしゃがんで、ジルベールに目線を合わせると、右手でジルベールの頭を撫でた。
「ジゼル、俺は敵じゃない。テオドールの友人だ。分かるか?テオドールは、君の、兄の名前だ。」
「テオドール……」
「そして俺は、君の夫でもある。」
ノアはジルベールがこの様な時でさえ、しれっと嘘を付く。
「おっと……」
「そうだ。夫だ。」
ジルベールは、泣き止み、言われた言葉を反復しながら、ノアと、自分の間にある空間を見つめた。
「君は、ジゼルだ。俺の妻だ。」
「じぜる……る………グル……ル……」
彼女は獣の様な唸り声を発したかと思うと、左目の瞳が、ゆっくりと上に上がっていき、三白眼になった。
「………誰だ。」
彼女は、左目だけを三白眼にして、低く、唸る様な声で、そう言葉を発した。今度は、リーではなく、こちらに問いかけている。
相変わらず両目とも焦点が定まっていないが、子どもの様な雰囲気が消えたな。現在の彼女に近いものになったと思える。
何か…
彼女の意識の根底にある様な、人格なのだろうか…
だとしたら……
「俺は、ノアだ。君の夫だ。さっきも言っただろう?忘れてもらっては困る、ジゼル。」
「……………」
ノアは、ジルベールの意識の根底に、嘘を教え込み、事実に塗り替えようとしている。
ジルベールは黙っている。
──パシッ──
ジルベールは、ノアの顔を目掛け、少ない動作で右手で殴りかかった。ノアは紫煙草を咥えたまま、左手でそっとジルベールの拳を受け止める。そして、掌で包み込む様にして、ゆっくりと下ろした。
「ジゼル、少しは元気になってきたのか?まだまだだが、無駄が少なくて良い動きだ。拳が動き出す瞬間が、俺の視界に入っていて、丸分かりなのが致命的だったな。」
「…………」
「腹が減っているだろう?医務室で一眠りしたら、食堂で何か食べよう。何が食べたい?」
彼女の前髪を撫でながらそう告げたが、彼女は、殴りかかった手を止められた事で、何か考えている様だった。相変わらず焦点の合わない右目と、同じく焦点の合わないまま三白眼になった左目が、小さく揺れた気がした。
そして、俺から距離を取る様に、後ずさろうと右足を引いた。
ノアはガシッと両手でジルベールの肩を掴んだ。
「!!」
ジルベールは身構え、ノアの方向を見上げた。
「大丈夫だ、ジゼル。俺は君の夫だと言っただろう?敵じゃない。」
「…………………」
「後から食堂に行こうな。食堂で、何が食べたい?何が好きだ?」
「………ハムサンド。」
彼女は、普段よりも低い声で、しっかりとそう言葉を発した。少し首を傾げながら、様子を伺う様に問いに答える仕草が可愛らしい。
どんな状態になっても、変わらず愛らしいものだな。彼女は……
「あはは、ハムサンドだな。分かった。後で、好きなだけ買ってやる。他にも何か食べたいなら、何でも食べていい。君は良く食べるからな。」
「……………」
ノアは、目を細めて笑いながら言うが、ジルベールは黙っている。
「本当なら、このまま俺の私室に持って帰りたいが……俺は君の夫だからな。許される事だ、ジゼル。」
「………グルル………」
「こらこら、俺の手を噛もうとするな───だが、君の容態が、急に悪化しては心配だ。医務室の方が良いだろう。治るまで見ててやるから、医務室へ行こう。」
そう言うと、ノアは紫煙草を咥えたまま、軽々と右手でジルベールの膝裏を抱え上げ、左手で背中を包み込む様にして横抱きにした。
ジルベールは、ノアの顔の辺りを見上げている。火のついた紫煙草の先から、微かに立ち昇る煙を、目で追っている様だ。
「ああ、君の顔に灰が落ちてはいけないな。」
ノアはそう言うと、咥えていた紫煙草を床に落とし、左足で踏み付け火を消すと、ジルベールを抱え、嬉しそうに独房を後にした。
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不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
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