36.胸やけ
特科連隊情報中隊の詰所には、午前中に2日目の訓練を終えた兵達が帰って来ていた。
ジルベールはそこで、軍のパイプ椅子に座り、アシェリーの弓を調整している。ガチャガチャと工具が音を立てているが、それを掻き消す様に、背後から、ウィリアム・リーがものすごい剣幕で、ジルベールに向かって怒鳴り散らしている。
詰所に居合わせた者は、固唾を飲んでなり行きを見守っていた。
──ガチャガチャ──
「ジル、てめぇいい加減にしろよ⁈マシューの指示を聞けってあれ程言っただろ⁈何で言う事気かねえんだっ!!終いには、あっちへ行けだの、下士官のくせに何様のつもりだっ!!」
──ガチャガチャ──
ジルベールは、リーを無視して、無言で弓の調整を続けているが、ジルベールの眉間には、険しい皺が刻まれている。
「だいたい…素行が悪過ぎて引き取り手の無かったお前らを、マシューは何も言わずに自分の隊に置いてくれてるんだろうがっ!自分の立場分かってんのかっ⁈」
──ガチャ………
「別に……私は、隊付きの兵にして頂かなくても結構です。そんなに私の態度が気に入らないなら、ルイス少尉の隊から外して下さい。そうすれば、ルイス少尉とは、話さなくても良くなりますから。私の態度も問題無くなりますよ?」
ジルベールは手を止めて、振り返らずに言い捨てた。
「ジル……てめえ……」
リーは怒りに震えながら、ジルベールの胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「流石に許容できない、ジル。懲罰房へ行け。上官への反抗、軍務の不履行、軍規違反で鞭打ちだ。」
ジルベールは何も言わないが、血走った目でリーを睨んでいる。
「せめて……執行役は厳しく無い奴を選んでやる。懲罰房で、その腐った態度を反省───」
「ルイス少尉、こっちです!急いで下さいっ!」
その時、詰所のドアが勢い良く開いて、レオの声が響いた。レオとアシェリー・マーティンに連れられ、マシュー・ルイスが詰所に飛び込んで来る。
マシューは、リーに胸ぐらを掴まれているジルベールを見留めると、早足で歩み寄った。
「ウィル………一体どうしたんだ⁈何の騒ぎだ⁈」
「マシュー、」
リーは詰所に入って来たマシューを見ると、ジルベールを離した。
「こいつの、お前に対する態度……もう、流石に許容できない。何度言っても態度を改めるどころか、終いには、自分をお前の隊から外せと言いやがった。」
「ジルベール………」
マシューは思い詰めた顔でジルベールを見た。ジルベールは、フンっと顔を逸らしている。ジルベールの銀色の髪が、顔の動きに合わせて左右に揺れる。こんな時でさえ、今日の彼女の髪は、いつにも増して綺麗だと、マシューは頭の隅で考えた。
「隊付きの偵察班の兵が、その小隊長に反抗的な態度を取る等、許されない。ジルは懲罰房へ送る。」
「なっ……ウィル!止めてくれっ!俺はそんな事は望んでいないっ!ジルベールの態度は……俺に非がある!」
「マシュー……お前に非がある訳無いだろう?どうしてそう、庇い立てるんだ?」
リーは、マシューの慌て様に困惑した。周りでは、レオとアシェリーが、どう考えてもお前のせいだと言わんばかりの表情で、マシューを睨み付けている。
「何だよ…リー中尉の前では良い人ぶって……」
ついに、ジルベールがマシューに対して口を開いた。
「ジルベール…」
「ジル!本当に良い加減にしろよっ!!」
リーは、またジルベールに向き直った。
「ジル、お前はもう下級兵じゃねぇんだ。下士官で、しかも隊付きのお前がそんな態度をとれば、隊の風紀が乱れる。続けば、隊の統率が乱れ、兵の命に関わる問題なんだ。何度言ったら分かるんだ⁈」
リーが訴えるが、ジルベールは顔を背けたままだ。
「あの……リー中尉。ガルシア軍曹は、悪くないと思います……」
アシェリーが、おどおどと、だが確かに2人の間に割って入り、詰所内はざわついた。ジルベールは、驚いた様に目を見開いてアシェリーを見た。
「おいっ!お前、何口出してんだよっ⁈」
「オーウェンの分隊の奴か⁈」
他の兵が、慌ててアシェリーを引き戻す。
「でも、僕……」
アシェリーはそれでも口を挟もうとする。
「リー中尉、ジルベール先輩の口が悪くても、僕たちが真似する事は無いですから。大丈夫ですよ。」
「レオ!お前まで……止めろっ!」
レオも、怖いもの知らずの様な口調で、間接的にリーの言葉を否定した。それを聞いて、リーが2人に向き直る。
「お前らは……オーウェンの分隊の奴だな。レオと……ああ、アシェリーか。ジルがこっちに連れて来たんだったな。」
リーが2人に歩み寄り、レオとアシェリーはたじろいだ。リーは、身長はさほど高くない。170㎝あるか、無いか位だろう。偵察班出身の、この中隊長は体格も小柄だ。分隊長のオーウェン・ミラー伍長に比べれば、一回りは小さい。
だが…普段気の良い中隊長は、今、別人の様な威圧感で目の前に立っている。
「ジル、お前のせいで、こいつらまで上官の話に無許可で口を出す様になっているぞ。どうしてくれるんだ?」
ジルベールは、リーが2人を叱責し出した事で、怒りでわなわなと震え出した。水色の優しげな瞳は、血走り過ぎて、今はほとんど赤くなっているとアシェリーは思った。
「レオ、アシェリー。お前らはいつ、発言を許可されたんだ?言ってみろ。」
「リー中尉!やめて下さいっ!その子らは関係ないっ!」
今度は、ジルベールがリーの背後から訴えた。
「お前ら2人、独房にでも入りたいのか?」
リーがその発言をした瞬間、空を切る音がした。
「ジルベール!止めろっ!」
すぐにマシューの声がした。レオとアシェリーは、その後でやっと、ジルベールがリーに殴りかかった事を理解した。
ジルベールは腰を低く落とし、リーの視界から姿を消しながら、リーの右後ろから、自身の右拳をリーの顎目掛けて突き上げた。
少ない動きでリーの右後ろに回り込んだジルベールは、あの時森で…野盗を射抜いて自分を救ってくれた時の様だと、呆気に取られながらアシェリーは考えた。凪いだ様な、静かな殺気が、確かにリーに向けられている。
「ガルシア軍曹───」
──パシッ、ゴンッ!──
だが、アシェリーがそう思ったのも束の間、リーは右後ろ、下方向から突き上げられる拳を横目で見ると、左手で当然の様にそれを受け止め、ジルベールの頭に向かって、親が、聞き分けの無い子どもにする様に真上から拳骨を落とした。
「ジルッ!てめぇ、このクソガキがっ!本当にどういう思考回路してるんだっ⁈この流れでっ!どうして殴り掛かってくるんだーーっ!!お前はもう下士官なんだってあれ程言っただろーっ!!」
リーは両手でガリガリと髪の毛を掻きむしりながら、ジルベールの……自身が一番気に掛け、将来を案じている部下の愚行を嘆いた。
その真下で、潰れた蛙の様に、ジルベールはうつ伏せでぺシャッとのびている。
「ジルッ!それは駄目だろう⁈絶対駄目だっ!間違っても他の上官にするなよっ!いや、俺にも駄目だが、とにかくお前は自覚が足りな───」
「おいっ!ジルベール!大丈夫か⁈」
のびたまま、ピクリともしないジルベールを心配し、マシューが駆け寄って肩を叩いた。肩を叩かれても、ジルベールの反応は無い。
「おいっ!ジルベール⁈ジルベール⁈……ウィル、やり過ぎだぞっ⁈」
「あ?大丈夫だろ。おい、ジル。起きろっ!」
リーが呼ぶと、ジルベールはむくっと上体を起こした。
「ジルベール、大丈夫か⁈……ジルベール…⁈」
「うわあああぁあぁああ!リー軍曹ーっ!」
「!!」
ジルベールは、座り込んだまま、叫び出した。
「ジル……まさか……!」
「おい!ウィル!だからやり過ぎだって言っただろっ⁈」
「いやあぁああああぁぁあああ!!」
ジルベールは叫び続ける。その目は、焦点が合っていない。
「あの…ルイス少尉…ジルベール先輩はいったい……」
「錯乱してしまったんだ。久しぶりだな……ウィルがやり過ぎたんだ。」
マシューは、ジロッとリーを見た。リーはバツが悪そうな顔をしている。
「しまったな……最近は、オーウェンとジルも、腕が立つ様になってきたからな。つい力が入り過ぎた……」
リーはポリポリと頭を掻いて、困った顔をしている。
「ジルベール、落ち着け。大丈夫だ。」
「や……いやああああ!リー軍曹!どこっ⁈」
焦点の合わない目で、ジルベールは叫び続ける。
「リー軍曹?軍曹は自分でしょう?ジルベール先輩、どうして……」
「新兵の頃の記憶と、混同しちまってるんだ。当時、俺は軍曹だったからな。ほら!ジル!俺はここだ。敵兵は居ない。大丈夫だ!」
リーがジルベールの前にしゃがみながら答える。
「リー軍曹っ!おんぶしてっ!」
「ジル、ここは安全だ。森じゃない……マシュー、紫煙草をもらえるか?悪いが、今待ち合わせが無いんだ。」
「ああ。」
マシューが紫煙草に火をつけ手渡すと、リーはそれを無理矢理ジルベールに咥えさせた。
「ゲホッ………リー軍曹……」
リーはジルベールをゆっくり立たせると、歩き出した。歩き出したリーに、アシェリーが問いかける。
「あのっ!リー中尉。ガルシア軍曹をどちらへ……あっ!は、発言しま……願います。」
リーは、おどおどしながらも主張してくるアシェリーを、疲れた顔で見た。
「……独房だ。こうなったら、しばらくしないと元に戻らないからな。」
「あの……懲罰房へは……」
「安心しろ。流石にこの状態じゃ無理だからな。今回は無しにする。」
「ケホッ……リー軍曹!おんぶしてっ!」
「ジル、敵兵は居ない。ほら、行くぞ。」
アシェリーとレオは、ほっと胸を撫で下ろし、なぜだか悲しげな表情の騒ぎの原因、マシューを睨みつけた。
───────
「ジルベール先輩、医務室に寝かせてもらえて良かったね、アシェリー。」
医務室へ向かって歩きながら、レオが安心した様にこちらを見ながら話しかけてくる。
「本当そうだよ。懲罰房なんかとんでもないけど、今回は、独房でも酷いと思うよ。ガルシア軍曹は、悪くないのだから……」
懲罰房と独房では、雲泥の差だが、それでも独房が居心地が良いとは、お世辞にも言い難い。打ちっぱなしの床は固くて冷たく、明かり取りの窓もないため、ランプだけの室内は薄暗い。そこには、今までに独房送りとなった、幾人か知れない軍人達の怨念が、漂っている気がする。
「まあ、ジルベール先輩だったら、独房位気にしないと思うけどね。前に、ジルベール先輩が独房送りになった時、檻の中で、今街で流行りのお洒落なジュース飲みながら本読んでたもん。」
「えっ……一体どうやって……」
「前もって、独房の見張りを買収してたんだろって、ミラー伍長が言ってた。」
「へ、へぇー。逞しいんだね…ガルシア軍曹は…」
「そうだよ!強く、図太く、逞しい、軍人の鑑の様な人だよ。」
リー中尉に連れられ、独房送りになったガルシア軍曹の事がどうしても心配で、しばらくして戻って来たリー中尉に様子を尋ねた所、ガルシア軍曹は医務室にいると言われた。それで、今から昼休憩なので、昼食前にレオと一緒に医務室へ向かう所なのだ。
医務室に着き、ドアをそっと押し開けた。医務室は、薬と、紫煙草の煙が混じった様な独特の匂いがする。
軍医はこの時間、いなかった。巡回診察に出ているのだろう。広めの診察スペースの奥に、傷病兵達が寝ているベッドが並んでいる。ガルシア軍曹は、恐らくそっちだろう。
手前の方のベッドで、若い兵が上体を起こして俯いている。アシェリーは、そろそろと話しかけた。
「あの……具合が悪い所、失礼します。アシェリー・マーティン二等兵です。先程、ジルベール・ガルシア軍曹が、こちらに運ばれて来ませんでしたか?」
俯いていた若い兵は、アシェリーの言葉を聞いて死んだ様な目を向けた。返事は無い。
そういえば…いつもは、多少傷病兵達の喋り合う声がしているのだが、今日はなぜだか静まり返っている。
「……あの……」
すると、向かい側のベッドに寝ている兵が、奥の方を指差した。この兵も、死んだ様な目をしている。よく見れば……全員が、頭を抱えたり、青ざめたり……嘘だ……と呟いたりしている。
「レオ、一体…皆どうしてしまったのだろう…」
アシェリーは、異様な雰囲気に包まれている、医務室を見回した。
「分からない…とりあえず、あの、奥のベッドに寝ているんじゃない?」
指差された奥のベッドは、白いカーテンが引かれていた。重傷者の場合等は、ベッドの周りにカーテンを引き、中が見えない様にする。誰が寝ているのか分からないが、恐らくそこにガルシア軍曹が寝かされているのだろう。錯乱したガルシア軍曹は、酷い有様だった。
レオとアシェリーは、カーテンで区切られた、奥のベッドに近づいた。
「…………ノア……」
ベッドのすぐ横に来た時、カーテンの中から声がした。
低く……唸る様な声だが……
確かに、ガルシア軍曹のものだ。
「やっぱりここみたいだね。ノア…って、誰か先にお見舞いに来ているのかな?レオ、知ってる?」
「うーん…聞いた事あるような…他の科の人かな?」
レオとアシェリーは、ヒソヒソと話し合った。
他の人がお見舞いに来てくれているなら、大丈夫だろうし…ただ、ガルシア軍曹の声色が、少しおかしいのが気になるけど…声をかけない方が良さそうだ。
「そうだ!良く言えた、ジゼル!」
「えっ⁈」
レオとアシェリーが、帰ろうとした時、カーテンの中から、男性の声がした。
「良い子だ、ジゼル。もう一度……」
「ノア。」
男性の優しい声が、ガルシア軍曹に向けられている。すごく、嬉しそうだ。対してガルシア軍曹は、ずっと低い声のままだ。
「え……レオ……聞いた⁈誰だろう…この声の人、知ってる?ガルシア軍曹の恋人なのかなぁ⁈」
「聞こえたよ!でも、知らないな。こんな優しそうな人…もしかして、軍で働く、軍人じゃない人とか⁈でも、ジルベール先輩に恋人なんて、聞いた事ないけど……」
2人はヒソヒソと会話を続けた。
「ああ、かわいいな……兵としては使えないが、このままでも全然…」
「えっ⁈兵として使う…?どういうこと⁈レオ⁈」
「僕も良く分からないよっ!まさか…ジルベール先輩が錯乱してるのを良い事に、いたずらしているんじゃ……!」
「えっ⁈そんな………」
「ハムサンド。」
「ちょくちょくハムサンドが登場するが…そんなに美味しいのか?ここのハムサンドは。」
「ノア。」
レオとアシェリーは、状況を飲み込めず、困惑した。ハムサンド?食堂のハムサンドは、確かに美味しいが…どうするのが正解なのか…カーテンを開けた方が良いのか、このままそっとすべきか……
「あはは!ジゼル、覚えたか?君の夫の名前は何だ?」
「ノア。」
「なっ…お、夫⁈レオ、ガルシア軍曹って結婚してたの⁈」
「いや、そんなはずは無いよっ!ガルシア家には、王命もあるから、下手な相手とは結婚出来ないはずだし!」
「でもなんか、嬉しそうに名前を呼ばせてるよ⁈あと、ガルシア軍曹の事、ジゼルって…」
「それは、ジルベール先輩の昔の名前だよ。その名前で呼ぶって事は、かなり親しい人なんじゃないかな…本当、誰なんだろ…どうしたら…」
「ジゼル───」
「んう…………………ぷは……」
「ええっ⁈」
医務室内に衝撃が走った。レオとアシェリーだけでなく、他の者も、見えるはずの無いカーテンの中に視線を向けている。
「ちょっと待って!何⁈今の…まさか…キス……」
「ぼ、僕はもうどうしたら良いか分からないよ、アシェリー!」
「レオ……もしかして、本当にガルシア軍曹が錯乱しているのを良い事に、勝手に……⁈」
レオとアシェリーは冷や汗が出た。
「ジゼル……軍服だと、暑くて寝苦しいだろう?脱ごうか………」
な、何だとおぉぉ!
医務室に居合わせた全員は阿鼻叫喚した。
「ガ、ガルシア軍曹っ!!駄目ですっ!!」
「今日はそんなに暑くないですよっ!!」
意を決して、レオと、アシェリーは、ベッドを囲う、白いカーテンを勢いよく開けた。
「っ…………………」
二人は息を飲んだ。
黒い、佐官の軍服。
そこに居たのは、自分達の連隊長、アイゼン少佐だった。軽く後ろに撫で付けられた紺色の髪に、紺色の瞳。整っているものの、普段全く感情の分からない顔。
アイゼン少佐は、ベッドの上に腰掛け、自分の膝の上に、ガルシア軍曹を横向きに座らせていた。背の高いアイゼン少佐に包まれる様にして、ちょこんとガルシア軍曹が座っている。
この人が、先程の言葉を……⁈
あぁ、だから他の傷病者達は、あんな顔で俯いていたのか……
レオとアシェリーは、固まったまま、動けなくなった。
アイゼン少佐は、膝の上に乗せたガルシア軍曹の詰襟の留め具を外し、首すじに口を寄せようとしていた。紺色の両目が、別に驚く訳でもなく、慌てる訳でもなく、いきなり現れた自分達を見ている。
こ…この人は…医務室で一体何を……
いや……だけど……それよりも……
レオとアシェリーは、膝の上に大人しく座る、ジルベールを見た。2人の頬に冷や汗が伝う。
それよりも……
この状態の人間に、かわいい等と言っていたのか……
感覚がどうかしている。
ガルシア軍曹は、誰がどう見ても、かわいいどころか、およそ普通の状態ではない。
表情は虚ろで、焦点は定まらず、なぜか左目は三白眼になっている。何が見えているか分からないその目で、自分を膝に抱きかかえる、アイゼン少佐の方向を見上げていた。
「ノア。」
その様な状態のガルシア軍曹が、また、低く唸る様な声で少佐の名前を口にすると、少佐は確かにガルシア軍曹に視線を移して、目元を緩めた。
「が……ガルシア軍曹、大丈夫…ですか…?」
アシェリーは、恐る恐る、つい先程までは、確かにガルシア軍曹だった者に声を掛けた。
新兵の頃の記憶と混同してるって、リー中尉は言っていたけど…今はそんな気配じゃない様な…
すると、少佐の方向を向いたまま、三白眼になっているジルベールの左目の瞳が、上からゆっくりと降りてきて、アシェリーに焦点が合った。
「…………アシェリー……」
そして、その低い声で、ゆっくりと自分の名前を呼んだ。
「……っ……」
アシェリーは、口を引き結んで唾を飲み込んだ。
ガルシア軍曹は、武器を持たせたら……いや、素手であっても、今にも襲って来そうな気配だ。焦点が合った左目は、敵兵でも見るような目で、こちらを見ている。
右目は未だ焦点が定まらず、少佐の方向を向いたまま、虚空を彷徨っている様だ。
「アシェリー…お前の名はアシェリーというのか?」
アイゼン少佐が、感情の無い様な声でこちらに話しかけてきた。いつもなら緊張したと思うけど、今は、何故だかこの声色の方が、ホッとする……
「は、はい。アシェリー・マーティン二等兵であります、少佐。」
「……こいつの事は、認識するのだな……ジゼル、他の者は気にしないで良い。休みなさい。」
アイゼン少佐は、確かに聞き覚えのある声色でそう言うと、ガルシア軍曹の頭を撫でた。ガルシア軍曹の左目の瞳が、ゆっくりアイゼン少佐の方へ動いて行く。
出来る事なら、カーテンを閉めたい。
自分達は、選択を間違ったのだ。
開けてはいけない扉を、開けてしまったと思われる…
「お前達は、ミラー伍長の分隊の兵か?」
少佐が、またこちらに尋ねてくる。
「は、はい。そうであります、少佐。」
「そうか。お前ら─────」
───────
タタタタ…………
レオとアシェリーが、小走りで駆ける足音が、廊下に響く。
「ねえ、レオ。アイゼン少佐はさ、ガルシア軍曹の事、揶揄ってる、っていう感じでは無かったよね?」
「そうだね。今、冷静に思い返せば、軍の医務室で堂々とあんな事……どちらかというと、バカップ───盲目になっている恋人同士…っていう感じかな?」
「そうだね。至言だと思う。」
「それにさ、」
レオが、こちらを見ながら小声になって言葉を続ける。
「見た⁈ジルベール先輩の髪留め⁈」
「髪留め…ごめん、良く見てないや。正直、あの状態が衝撃的過ぎて…」
「ジルベール先輩、いつも軍用の輪ゴムで髪を結んでるんだけど、今日は飾りの付いたゴム紐で留めててね!その飾りに、アイゼン家の家紋が装飾されてたんだ!」
「ええっ!じゃあ本当にあの2人は……」
アシェリーは、走りながら目を見開いた。
「そういう事だよ!そうじゃなかったら、相手の家紋が入った物を身に付けたりしない。ましてや、高位貴族の家紋だったら、不敬罪に当たるよ。でも、アイゼン家が相手だったら、ジルベール先輩の家にとっても、条件は合致する!」
「そっか……それは良かったよね。」
だからガルシア軍曹、ルイス少尉に対して怒ってたのかな?ルイス少尉は、この事知らないのだろうか……
「でもさ、アシェリー、」
レオが、今度はうんざりした顔で、横目で見ながら話してくる。
「ん?どうかした?」
「僕、まだ13歳なんだよ⁈相手が錯乱した状態であんな事するなんて………あんなプレイ、流石に衝撃的過ぎて、下手したらトラウマだよっ!本当、何て物を見せてくれるんだ…胸やけがするよ!」
「いや、プレイって……まあ、2人がそういう事なら、そうなるか。僕だって、まだ整理が追いつかないよ。ただ、ガルシア軍曹の幸せを願っていたはずなのに…」
「本当、高位貴族の人達って、頭おかしいよ。倫理観がどうかしてるんじゃない⁈……まあ、これ、もらっちゃったし。とやかくは言えないけどね。」
レオは、走りながら、右手に握った紙幣を、ヒラヒラさせて言った。
一番高額な紙幣が一枚、右手の揺れに合わせて踊っている。
「これ、どうする?本当に、食堂のメニュー、全部注文してもお釣りがくるよ?」
レオが握る紙幣は、あの後……カーテンを閉めたくても閉める事が出来ない自分達に、アイゼン少佐が、これで昼食を食べろと言って渡してきたものだ。
大人の解釈をすれば、ここで見た事は黙っていろ、という事だろう。
「………見なかった事にする?アシェリー?」
「そうだね。心のカーテンを閉めておこう。」
二人は心のカーテンをそっと閉めた。
「じゃあ僕は、これでハムサンドを買い占めるよ!」
「あっ!レオずるいよ!僕もハムサンドが良いのに!」
「じゃあ、2人で買い占めよう!」
軍の廊下には、心のカーテンを閉め終え、食堂に向かって軽快に走る2人の足音が響いている。
お読み頂き、ありがとうございます。
不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
続きが気になる!と思って頂けましたら、
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