30.ノードレド地方の食文化についてどう思われますか?
……さま……おねえさま……
「お姉様っ!朝よ!起きて!」
頭の上から、可愛らしい声が降ってくる。
見慣れた天井、私の家の、私の部屋だ。
「ん……メイジー……もうちょっとだけ……」
ジルベールは寝返りをうち、メイジーが作ってくれた、大切なぬいぐるみの山に顔を埋めた。
「もうっ!お姉様はいつもそうなんだから…遅刻しちゃうよ⁈エイダンが、朝ご飯準備してくれてるよ!早く一緒に食べようよー!」
メイジーは、知性を感じさせる、黒の瞳を細めながら、だらしなく寝続ける姉の体を、バシバシと叩いた。
「メイジーは早起きだなぁ……偉いよ……10歳にして立派な淑女だ……」
ジルベールは、目をつぶったまま、眠そうに答える。
「お姉様の寝起きの悪さが酷すぎるのよ!私は普通なのっ!ほら…ジゼルお姉様ってば!」
メイジーは、軍服で寝ている姉を、服ごと、ぎゅーっと引っ張った。
「お、き、てぇぇぇ!!」
「分かった分かった。メイジー……起きるから…おいで。」
ジルベールは、ベッドに寝たまま、いつもの様に、妹を抱きしめた。
妹を抱きしめる自分の左手に、短剣の網紐が結ばれているのが見える。
「あれ……私、家なのに短剣結んじゃったのか。癖になってきたのかな…」
メイジーは、にっこりと笑って、私に抱きついてくる。こうやって、出勤前に、メイジーが部屋に起こしに来てくれるのは、いつもの事だ。
「ああ、そうだ、メイジー。私はまた、お仕事で他の国に行くけれど、お土産は何がいい?何か欲しい物はある?」
「君の、その両目が欲しい。その目に、常に正しく映りたい。」
「え…………やだな、メイジー!君、じゃなくて、お姉様、でしょう?目が欲しい…?メイジー…私はね、メイジーになら、何だってあげるよ?多少難しい物でも、手に入れてくるから。考えておいて!」
妹の、燃える様な輝く赤毛の髪に、顔を寄せる。
しっかり者で、義母に瓜二つの、かわいいメイジー。
いつもの、子ども用の石鹸の匂いが──
……………しないな………
この匂いは、あの高そうな貴婦人石鹸の匂いだ。
メイジーの髪の毛、なんだかチクチクする。
それに、メイジーの体、固くて大きくないか?
…………メイジー?………
「…うぅ…ん……メイジー?」
「ジゼル、起きたか?」
「…………うわっ!!」
見慣れない天井、軍の私室だ。ふかふかのベッドの上、紺色の髪の毛が、視界いっぱいに広がっている。
私は、メイジーではなく、覆い被さるアイゼン少佐の紺色の髪に、顔を寄せていた。
「少佐……し、失礼しました……くっ……重…」
私は少佐の両肩を押し返そうとしたが、びくともしない。
「でも、こんな朝早くにどうして──……!」
「何だ?ジゼル。」
どうして少佐が私の私室に…そう尋ねようとして、私はハッとした。
──ここは兵舎だ。上官が部下の部屋にいるのがおかしいか?──
一度、同じ質問をして、そう返された。上官に、同じ質問を何度もする訳にはいかない。
「いえ、何でもありません……ぐ……」
私は、依然としてびくともしない、少佐の両肩をぐいぐい押しながら答えた。
「そうか。」
「ひゃあっ!」
少佐は、両肩をぐいぐい押す私の両手を引き剥がすと、そのままぎゅっと、私を抱きしめた。
まだ、こんな早い時間……
私はどうして、ベッドで少佐に抱きしめられて…
「ジゼル、君は、軍ではリーに起こされ、家では妹に起こされているのか?君はもう軍曹だろう?先日も言ったが、2階級上から将校になる。将校になっても、自分で起きないつもりなのか?野営訓練は、精神的にも、かなり疲弊するのは理解出来る。寝起きが悪いのも、それが原因なのかもしれないが…少しは危機感を持ってもらわなければ、心配でならない。このままでは、前線でも同じ様に───」
少佐は私を抱きしめたまま、顔のすぐ横で小言を言う。こんなゼロ距離で小言を言われても、頭に入ってくる訳ないじゃないか。
「うう……あの……重い…です……」
私に小言を遮られて、少佐は少しムッとした表情をした。
「君が、俺を妹と間違えたのだろう?」
「す….すみません……」
そうだけど…答えになっていない様な…
少佐は私を引き寄せ、抱きしめなおした。全く離れようとしない。
そして、私の左手に結ばれている短剣の網紐を解くと、私の左手をそのままベッドに縫い留め、自分の右手で私の頭を撫でる。
少佐は、私を押さえつけたまま、私が夢の中でメイジーにしたように、私の髪の毛に顔を寄せて、大きく息を吸い込んだ。
もう……よく分からなくなってきた…
眠い………夢かな……?これ……
その方が、納得出来る……
そして…それなら、まだまだ眠れる……
スヤ………
……スースー……
「こらっ!起きなさい!」
「っ!!」
私はハッとして、目を開けた。
軍の私室だ。何だか、変な夢を見ていた様な…
ベッドの端に少佐が立って、こちらを見下ろしている。私は目をこすりながら、少佐を見上げた。
「君は…全く信じられないな…あの状況から二度寝するか?普通……」
少佐は何やらぶつぶつ小言を言って、機嫌が悪そうだ。
「ジゼル、起きなさい。訓練に遅れるぞ。」
「え……でもまだこんな朝早い時間…」
「早くない!君はいつも、一体何時まで寝ているのだ⁈」
そう言われても…軍服に着替えて、食堂に駆け込んで…ギリギリ間に合う時間には起きてるのに…
そういえば、何だか良い匂いがする様な…
「ほら、座って後ろを向きなさい。」
私が、匂いの元を探してキョロキョロすると、少佐に抱えられ、ベッドに座らされた。
「!!」
次の瞬間、いきなり髪の毛を触られて、私はびっくりして振り返ろうとしたが、少佐に肩をぐっと押さえられて、前を向かされる。
「じっとしてなさい。すぐ済む。」
そして、髪の毛に、櫛を入れられる。
少佐は…髪の毛をとかしてくれている様だ。
所々絡まっている毛先も、痛くない様に、そっとほどいてくれる。
少佐は、何か本を確認しながら、手際良くとかしてくれる。私はされるがまま、終わるのを待っていた。
「よし…ジゼル、いつも何で髪を留めている?」
とかし終わった少佐が、聞いてくる。
「あ、はい。これです。」
私は、ベッド横の、サイドテーブルに置いていた留め具を渡した。しかし、少佐はそれを見て、目を見張った。
「ジゼル……まさか、とは思っていたが…これは、軍の総務課で支給される、軍用の輪ゴムだろう⁈君はいつも、これで髪を留めていたのか⁈」
「え……はい、少佐。」
少佐は、銀色の髪の毛が数本絡まっている輪ゴムを掌に乗せ、信じられないという顔をしている。
でも、軍用の輪ゴムは丈夫だし…ちょっと髪の毛が絡まるけど…いつでも捨てれるし、すぐに貰えるし。うってつけだと思ってたけど。
「ジゼル、俺は、女性の身に付ける装飾品については、正直良く分からないのだが、流石にこれは駄目だと分かるぞ!」
「えー…そうですか?」
「駄目だっ!全く…一緒に借りてきて良かった。確かここに…ほら、前を向きなさい!」
少佐は、小さな袋から何やら取り出し、また私の肩をぐっと押さえて、前を向かせる。
「……こうか。さほど難しくは無いな。……これは…うちの家紋が入っているな。まぁ、良いか。虫除けになるだろ。」
何やら、またぶつぶつ言いながら、私がいつもしている様に、髪を一つに結んでくれた。
「よし、出来たぞ!」
少佐はそう言って、私の頭を右手で、軽くポンポンと叩いた。私は少佐を振り返って、結ばれた髪の毛を触る。
「ほら、早く顔を洗って着替えてきなさい。」
まだ、ボーっとしている私に、さっさと着替える様に促してくる。少佐は、当然の様に、私のクローゼットを勝手に開けると、私の下士官用の軍服をさっと取り出して、軍用ブーツと一緒に、私にぎゅっと押し付けた。そして、私の背中を押して、洗面台のあるシャワー室に、私を押し込んでドアを閉めた。
──バタン──
「………………」
私は、軍服とブーツを両手に抱えたまま、洗面台の鏡をじっと見た。そこには、いつもみたいに適当じゃ無く、綺麗に髪のまとまった私が映っている。丁寧にとかされた髪は、ほつれもなく毛先までツヤツヤしている。
髪は、輪ゴムじゃなくて、きちんとした髪留めで、頭の上の方から一つにまとめられている。髪留めには、丸い、小さな銀色の飾りが付いていた。
少佐は………
少佐はどうして、私の身支度をしてくれるのだろう………
鏡に映る私は、答えを知っているはずも無い。
ただそこには、ツヤツヤした髪で、眠そうな、古傷だらけの顔が映っている。
考えても分からない。鏡の中の私は、とりあえずその軍服を、さっさと着ろと言っている様だ。その通りだな。
私は、急いで、顔を洗って軍服に着替えた。詰襟の留め具を留めて、ブーツを履く。だんだん眠気が無くなってきて、だいぶ思考がしっかりしてきた。
………私……さっきの……夢……?
何だか、ベッドで抱きしめられていた様な……
そーっと、シャワー室のドアを開けて顔を出した。
「ジゼル、着替えたか。朝食を食べよう。」
私が顔を出すと、すぐに少佐が寄って来て、着ていた室内用の薄黄色のワンピースをさっと取り上げた。そしてまた、当然の様にクローゼットを開けると、ワンピースを掛けて、クローゼットを閉める。そして、ソファーの方に、すたすたと歩いて行く。
その一連の流れを、他人事の様に見ていた私の鼻に、またいい匂いが漂って来た。
「朝食……?」
「そうだ。ほら、おいで、ジゼル。」
少佐が手招きする、ソファーのテーブルの上には、美味しそうな朝食が並んでいる。
「わあぁ!美味しそう!!」
私は一気に目が覚め、ソファーに駆け寄った。
「君は……今、やっと目が覚めた様だな。」
少佐が、やれやれという顔で、私を見てくる。
テーブルにかけられた、柔らかな水色のテーブルクロスの上には、いつもエイダンが用意してくれる様な、パンや、スクランブルエッグや、ハム、サラダ…サラダには、みずみずしい櫛切りのトマトも乗っている。それらが2人分、行儀良く隣り合わせに並んでいた。
「ジゼル、座りなさい。」
少佐はそう言って、温かい珈琲の入ったカップを左手で手渡してくれた。自分も右手に珈琲の入ったカップを持ち、ソファーに座ってそれを飲む。
私は、渡された珈琲をもらって、少佐の隣に腰掛けた。座った重みで、少しソファーが沈んだ。
カップに入った珈琲は、温かくていい匂いがする。テーブルに置かれた、お湯の入ったポットの横には、朝食を入れていたのだろう、薄い木材で編まれたバスケットが置いてあり、その中に、コーヒーを淹れた後の器具も入っている。
「あの……ありがとうございます。少佐が淹れて下さったのですか?」
「ああ。アイゼン家の料理長に、朝食も準備してもらったのだが、何でも、料理長が言うには、この珈琲豆は最近流行りの物らしい。確かに美味しいな。ベネット公爵家が、仕入れている物らしいが…」
珈琲を飲みながら、納得した様に少佐が呟く。
「モニカが…最近流通経路を開拓したと、言っていました。美味しいです。」
私も飲みながら答えた。
「そうなのか。本当に手広くやっているんだな。ベネット公爵家は……」
美味しい。本当に美味しいのだけど…私が美味しいと思ったのは、モニカが仕入れた豆のおかげだけじゃなくて……
私は上手く言えずに、じっとカップを見つめた。こんな、お礼一つも、私は伝え方が分からないのだな…
少佐は、私の為に、こんなにも親切にしてくれているのに…
「ジゼル…どうかしたか?何か、足りない物があるのか?」
少佐が、私の顔を覗き込んで尋ねる。
「いえ、違います。そんな事は……あの……えっと…用意して頂いて、ありがとうございます、少佐。」
少佐は、私の答えを聞いて微笑んでくれた。夜色の瞳が、優しく緩む。
だけど、本当は、もっと違う答えを言いたかったのだけど……どう言えば良いのか、結局よく分からなかった。
エイダンの言う通り、何て残念なんだ。
私は………
「ジゼル、食べよう。今日の訓練は、午前中全体訓練だったか?午後はどうするのだ?」
「はい。1ヶ月間は下級兵の強化訓練期間ですので、午前中は、私が付いているルイス少尉の小隊の、全体訓練に出ます。オーウェンの分隊は特にそうなのですが…全体的に下級兵が多いので、基本動作を、一人一人確認したいと思っています。足音が、ほんの少し小くなるだけでも、単独行動の際に有利ですから……午後は───」
私はふわふわのパンをちぎりながら答えていたが、ふと、エイダンの言葉が頭をよぎった。
──じゃあ、少佐にジゼルって呼ばれたら、何て返せばいいの?──
──ノア様、に決まっているでしょう⁈ここまで説明して、なぜ分からないのですかーっ!!──
そう……アイゼン家で、夕食に呼ばれた時から、正さねば、とは思っていたんだ。
エイダンの言う通り、自分の事を、自分の社交の不出来さを残念に思うのならば、早急に正しい呼び方で答えなければいけない。
でも……でも……
どうしてだろう……
頑張って、そう呼ぼうとすると、
息が…苦しくなって……
私は、ちぎったふわふわのパンを口いっぱいに頬張った。美味しいパンを一刻も早く体内に取り込もうと、私の口からは一斉に唾液が出る。そして、少佐の方を、じっと向き直った。
「……ジゼル、ど、どうした急に…いや、午後の予定は、言えないのなら、言う必要は無い。君は、諜報部からの依頼も来ているだろう?それについては、言えないだろうから──」
私はパンを、ごくんと飲み込んだ。そして、珈琲も、ごくごくと飲み干す。
「ぷはっ……」
「ジゼル………?」
言うぞ……言うんだ……言うんだぞ……
淑女に……なるんだっ……
「ノ……ノ……」
「え?何だ?良く聞こえないが……」
「ノ………」
「の?」
言葉が……出てこない……息が苦しくて……
「ジゼル⁈大丈夫か⁈何だか苦しそうだが…ああ!パンが喉に詰まったのか⁈」
いや、パンは詰まってない。
私は言葉に詰まっているだけで……
少佐は、流し込みなさい、と、私の空のカップにコーヒーのおかわりをついだ。そしてそれを、ぐいぐいと私の口元に押し当てる。
「ノ…ノ…」
「ジゼル、飲みなさい!」
言え!言うんだ!
言えーーーっ!
「ノ…ノ………ノードレド地方の食文化について、どう思われますかっ⁈」
「は?」
言えなかった………
私の口の中に、珈琲のおかわりが流れ込んで来る。
「……ごくっ……」
「良かった、パンの詰まりは取れた様だな。ノードレド地方……ここから南方だな。俺はあまり詳しくないが、そこの食文化は変わっているのか?」
「変わっている訳では無いのですが、主食が、稲科の種子で、炊いたり、蒸したりするのですが──」
「そうなのか。」
朝食を食べながら、ノードレド地方の食文化を力説する私を、少佐は頷きながら、優しく見守っている。
食べ終わって、食器類を片付けたバスケットを片手に持った少佐は、一緒に私室を出ながら、そんなにその地方の食文化が好きなら、料理長に言って作ってもらおう、と私の肩を抱き寄せて、笑っていた。
お読み頂き、ありがとうございます。
不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
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