12.寝ている時に見える光景
ノアは、ベッドから体を起こした。
ここは…知らない部屋だ。
それほど広くはない。
軍の私室より、多少広い程度だが清潔に整えられている。
小さな窓にはレースのカーテンが掛けられており、
明るい日差しが差し込んでいる。
もう昼前だろうか…
こんな遅い時間に起きるなど、ありえない。
いつも夜明け前には嫌でも目が覚める。
どういう事だ…
ここは2階か?
窓の外は………街の住宅地の様だが……
隣で人の気配がした。
ジゼルがシーツにくるまって寝ている。
なぜ…ここは一体…
彼女の顔にかかっている、銀色の髪を耳にかけた。
左頬の古傷が見える。
古傷をそっとなぞると、彼女が眠そうにゆっくり目を開けた。
シーツの中で小さく伸びをした後、
体を起こしてこちらを見ている。
ああ、そうだった……
なぜ忘れていたのだろう。
俺は、昨日彼女と………
水色の両目が緩やかに細められ、眉尻が下がった。
微笑みながら俺に何か言っている。
何だ…よく聞こえない…何を言っているんだ…
ジゼル……
そして、また目が覚めると、
そこはいつもの軍の私室だった。
「就寝時に、現実でない光景が見えたのだが。」
「は?」
第一師団普通科連隊長付の補佐官は、自分が補佐すべき相手から、よく分からない問いかけをされた。
朝っぱらから、何なんだこの人は…
忙しすぎて、遂におかしくなったか。
この、第一師団普通科連隊長のノア・アイゼン少佐は、最近前任者の移動により、特科連隊長も兼任している。普通科連隊の方だけでも、相当な忙しさだ。気が触れるのも理解できる。
今日から、特科連隊情報中隊の野営訓練が始まる。
リー中尉が中隊長を務める隊だ。
アイゼン少佐は、兼任する特科連隊の、この野営訓練を指導するため、こうして、いつにも増して朝早くから執務室に来て、普通科連隊の方の軍務をこなしている。
そう聞けば、尊敬出来る人物の様に思えるが、いっつも無表情で無愛想、軍の中で見かけるのは、仕事の話をしている所か、ミスをした部下を叱責している所位だ。
小さなミスでも、隊にとって取り返しのつかない事になり得る…それは分かるが、こう毎日の様に、部下を蹴り飛ばす姿を見せられて、好感を持て、と言う方が無理があるだろう。
時には机や椅子ごと派手に蹴り飛ばし、うずくまり悲痛な声で謝罪を述べる部下を、顔色一つ変えずに平然と懲罰房へ送る…
高位貴族だか何だか知らないが、
感情という物が無いのかね…この人は…
そもそも私は、あの件以来、この人には愛想が尽きた。
ジルベール軍曹を、医務室送りにした件だ。
ジルベール・ガルシア軍曹。
偵察班に所属しており、上官はリー中尉、若い女性の軍人だ。
彼女は私達にも、いつも愛想良く、話しかければどんな時でも、人懐っこい笑顔を見せてくれる。庶民的で、上官のリー中尉に、言い訳や、小さな反抗をしている姿も可愛らしいものだ。
今は、そんな彼女だが…8年前、彼女が入軍した当初は…
それは悲痛なものだった。
まだほんの幼い子どもが、引きずられる様にして、訓練だか、任務だかに行かされる。
毎日の様に独房に放り込まれ、軍の指示を上手く聞けない彼女は、容赦なく殴られていた。
軍で働く私達の様な者は、誰もが彼女を自分の子どもや、家族の姿に重ね合わせた。どうか死なないで欲しいと願っていたのだ。
リー中尉は、そんな幼い彼女の上官として、親身になって面倒を見ていた。確か、彼女と同じ歳の妹がいるのだとか、言っていたな。
彼女は、今の姿からは信じられないが、よく泣きじゃくりながら、リー中尉の背に負われて、訓練から帰って来ていた。
そして当時他の軍人達は、そんなリー中尉を見て、子守り係だの、出世コースから外れただのと、揶揄っていた。
本当に…よく成長してくれたものだ。
そんな辛い目に合っても、私達にいつも笑顔で……
彼女が軍人として、一人前になった頃、広報部からの依頼で、市民への広告塔として、ポスター等に使われ出し、今では軍人令嬢として、あの人気だ。
しかし、幼い頃からの彼女を知る私達から見れば、彼女の心境を思うと複雑だ…
自分を酷い目に合わせた…今も合わせている、軍の徴兵ポスターに、自分が使われる。
普通なら、嫌な仕事だろうに……
このアイゼン少佐は、そんな彼女を知らないから、
平気で彼女を締め上げ、医務室送りに出来るのだ。
しかも、噂によれば、ジルベール軍曹とリー中尉は、医務室送りにした、アイゼン少佐を許し、降格させないでくれと願い出たそうじゃないか……
何でも、ジルベール軍曹の兄、テオドール殿の友人だから、という理由で。愛する兄は、処分を望まないと…
今は亡きテオドール殿も、とても話しやすく、良い人だった。髪色は違うが、水色の優しい瞳は、兄妹でよく似ているな。
私の妻は、この軍の食堂で働いている。
妻も、よく食堂に来たジルベール軍曹に話しかけるそうだが、以前、どんな人が好きなの?と軽い気持ちで聞いたら、
兄が好きだと。
私は死んだら、兄と結婚したいと、彼女は答えたそうだ。
それを聞いた妻も、同僚達も、彼女が去った後、涙を禁じ得なかったそうだ。私も、今思い返しただけで、泣きそうだ……
こいつは、そんな優しい彼女によって、許され、少佐になれているというのに……
控えめに言っても、お前をジルベール軍曹と同じ目に合わせてやりたいと、軍で働く全員が思っている。
いや、もう死んでしまえ、控えめに言っても。
長年軍で働いているが、こんなに嫌われている人を、私は他に見た事が無い。
もちろん、あの件があってすぐ、私は転属希望を出した。
こんな奴の所には、居られない。
ジルベール軍曹の所属する、特科連隊付きの補佐官に…
そして、私の希望は叶えられ、
私は今も、ここに居る……
「一体、就寝中に見えたあの光景は…なんだと思う?」
派手なコーナークッションに囲まれた自身の机に座り、書類仕事の合間に紫煙草を咥えながら、久しぶりに仕事以外の事を話かけてきたかと思えば……
全く訳の分からないことを……
「就寝時に見える現実でない光景?……夢の事ですか?」
すると少佐は、驚いた様に目を見開いて、何かブツブツ言い出した。
「夢………そうか、これが……噂には聞いていたが、まさか自分が体験するとは……もしや、ジゼルが寝ている時に口を動かしていたのも、夢で何か食事をする光景を見ていたからでは………」
「少佐も夢を見たりするのですね。何か、良い夢でも見たのですか?終戦になる夢でも見ました?」
「……まあ、そんな所だ。その、夢というものは、もう一度同じものを見る事は出来るのだろうか?出来れば続きを……」
「え?全く同じものは、なかなか難しいのではないですか?夢は、印象に強く残った事に影響されると言いますから、強く思っていれば、似た夢は見れるかもしれませんが…」
「なるほど………」
初めて夢を見た訳ではあるまいし、おかしな事を言い出すものだ。やはり、忙しすぎて気が触れたか。
補佐官は、ため息をついた。
この人との会話は…疲れる……
なんだか気が滅入るのは、今朝、許せない噂を軍内で耳にしたせいかもしれない。
アイゼン少佐とジルベール軍曹が、軍の正門の所でキスをしていたと───
ありえないっ……!こんな、この歳で高位貴族のくせに、婚約者の一人もいない、粗野で野蛮なこんな奴と……
おそらく、最近のジルベール軍曹の人気や、戦果に嫉妬する輩の卑劣な誹謗中傷だろう。
だとしても、本当に酷すぎる…私が彼女の親なら警察に駆け込んでいるぞ⁈
それに加えて、妻からも嫌な噂を聞いたのだ。子どもの同級生が、街で彼女に会ったそうだが、恋人と一緒だったそうで──彼女が街で恋人と一緒なのは、何もおかしい事ではない、むしろ彼女が幸せなら喜ばしい事なのだが──その恋人というのが、子どもの同級生が言うには、
彼女と同じ軍人で、礼儀正しいが恐い顔をした、紺色の髪に紺色の瞳のおじちゃん。彼女は恋人の事を少佐、と呼んでいた………
いや、それアイゼン少佐だろ⁈
すでに、街では有名な噂になっているらしい。
何がどうなっているんだっ…………⁈
補佐官は、手にしていた書類を、怒りの余りぐしゃぐしゃに握り潰した。
「……補佐官殿、その書類は……」
「え…、ああ、これは…今朝、特殊武器科から普通科宛に回された嘆願書です。至急、ご確認下さい。」
「…………」
私は、握り潰し、ぐしゃぐしゃに丸まった書類を少佐に渡した。
それを無言で受け取る少佐は、頭の左上に、寝癖がついている。
いつも少佐の髪は、軽く後に撫で付けられているが、今日はその紺色の髪の一部が、ぴょこっと上に飛び出しているのだ。
「少佐、寝癖が付いてますよ。初めてですね。」
「ああ、それが……どうしても取れなくて…時間も無かったからな……見苦しいとは思うのだが。」
「良いんじゃないですか?人間味があって。」
「………」
「また、良い夢が見れたら良いですね。」
「ああ。」
少佐はそう答えながら、ぐしゃぐしゃになった書類を丁寧に伸ばし、目を凝らして読んでいる。
全く…どうして私が、こんな奴の補佐官なんだ…
先日上司から、こいつの補佐官は君しかいない、等と言われてしまうし……
早く別の部署に行きたい……