11.乞い願う
ノアは、自分の私室で紫煙草に火を付けた。
円柱状に丸められた吸口を咥え、思いきり煙を吸い込む。その独特の匂いがする、薄紫色の煙が肺に到達すると間もなく、懲罰で付いた全身の傷の痛みが和らいでくる。
「人の好みとは、難しいものだな…」
ベッドの端に座り、紫煙草の煙を吐き出しながら、先程のジゼルの言葉を思い返す。
───外に出たいのです───
どんなに彼女の好みを考え、上官を説得し、兄に頼み込み、部屋を整えたとしても…1日と持たずに下士官用の兵舎に戻りたいと言い出す。
一体何のために、隣の奴を配置替えで飛ばして追い出したんだか。まあ、それはいいか……。
どちらにせよ、ここは兵舎だ。
彼女を私室に留まらせる事も、
彼女の私室に行く事も、
理由はどうあれ、何とでも言える。
許されるのなら、俺の私室に閉じ込めておきたいが、
正式な婚姻前では、それはやはり、駄目だろう…
何故だか分からないが、ジゼルは、ここをリーの私室と勘違いして騒ぎ立てていた。私室棟で騒がれては困る。
一度部屋の中に入れた彼女を、外に出してやれたのは…
自分でも、奇跡だと思う。
おそらく、無いと思うが、
もう一度来られたら、無理だな…
先程火を付け、短くなった紫煙草を灰皿に押し付けて火を消し、2本目の紫煙草に火を付けた。
ベッドのサイドテーブルには、軍の購買部で買った紫煙草の箱が5箱程積まれている。
この私室には、紫煙草の他に、壁際に据え付けられた本棚の本と、机に置かれた執務室から持ち帰った書類の山、あとは軍服。それ位しか私物は無い。
ノアは、本日新たに医務室で渡された、片手に収まる程の、20本入のその小さな箱を、サイドテーブルに1箱積み上げた。
彼女は、紫煙草を好まない。
同じ普通科連隊だった、兄のテオドールもそうだった。匂いが嫌いだと言っていたな。
紫煙草は、俺も含め、普通科連隊の者は、そのほとんどが好んで吸っているが、偵察班で有能な者は、意図して吸わない者が多い。
個人の趣味嗜好もあるため、彼女が意図して吸わない様にしているのかは分からないが、テディが好まなかった事を考えると、同じ様にこの匂いが嫌いな可能性が高い。
そのため、彼女の前で紫煙草を吸う姿を見せない様にしているのはもちろん、会う前にも吸わない様にしているのだが…
これは、一体どういう事だろう……
ノアは、ジルベールの独房拘留記録を見ながら、前髪を掻き上げた。
【氏名・階級】
ジルベール・ガルシア 軍曹
【拘留事由・期間】
紫煙草の不正利用及びその主犯格 拘留3日間
机に置かれた書類の山の中には、個人的に集めた、彼女に関する情報もある。殺風景なこの部屋にある、数少ない私物の一つと言えるのかもしれない。
彼女の、独房拘留記録も、その大事な私物の一つだ。
前回の、野営訓練中の記録だな。
この国では、紫煙草は酒と同じく、軍人であれば年齢を問わず合法だ。
横流しならともかく、好まないはずの紫煙草を不正利用とは、何を指すのだろう。しかも主犯格…
この時、オーウェン・ミラー伍長も、全く同じ内容で、拘留されている。2人で何かしでかしたな。
オーウェン・ミラーは、貴族出身の志願兵だが、ジゼルと同じ10歳の時に入軍している。リーが彼女の上官となり、面倒を見出してすぐに、彼女の同窓である彼も、リーが面倒を見る事になった様だ。
この件に限らず、よく2人して突飛な行動を取り、リーは頭を抱えている。
彼女は、新兵だった最初の方こそ、軍務や任務の不履行で、頻繁に独房送りになっている。
懲罰房へも何度か送られている様だな…
だが、ここ数年では軍務や任務の不履行は無く、この記録の様に、訳の分からない内容で、独房に送られている…
若い兵の中には、時折この様な、行動力が変な方向に向く者がいるが、そういった者は、兵として有能な場合が多い。
おそらく、この2人はそうだろう。
直属の上官は頭を抱える事になるが、良く戦果も上げてくれる。
とはいえ、ジゼルとその同窓でなければ、さすがに左遷も視野に入れるな。この破天荒さは…
どうして、彼女だと怒る気にならないのだろう。
どちらかと言えば、心配になる位だ。
なぜ…どうして…
分からない……
本来なら…今日2人で街に出掛けた時、ガルシア家に婚姻を申し出に行くつもりである事を、彼女に告げようと考えていた。
だが、町民の子どもが、彼女は軍人は嫌いだと言い、彼女も言葉を濁した。
ジゼルは、テディの死後、ガルシア家に男児がいなかった事から、王命により軍人にさせられている。
嫌って当然だ。現に、軍内でも彼女に同情する者は多い。
しかし、彼女が言葉を濁してから、なぜだか言い出せなくなってしまった。
貴族間の婚姻は、家同士の合意だ。
そうなれば、本人の意思は関係ない。
彼女が、軍人を嫌っていようと、瑣末な事だ。
それなのに……なぜ……
俺は…もしかすると…
怖かったのではないだろうか。
軍人である自分が、彼女に嫌われる事が。
ノアは、もう何本目か分からない、紫煙草に火を付けた。
紫煙草の煙を吸って吐き出すと、彼女に会うまでは経験した事の無かった、よく分からない焦りにも似た感情が落ち着き、思考が整理される。
傷の痛みも、あまり感じなくなってきた。
……アイゼン家との婚姻に応じた場合の利益を考えれば、ガルシア家はおそらく首を縦に振る。
ここで婚姻に応じないなど、王命に喘ぐ自分達の首を、ますます締める様なものだ。
どうせ遅かれ早かれ結婚するのだ。やはり、先に彼女に伝えておいた方が良いだろう。
それに、明日の晩は実家で共に食事をする予定だ。伝えた方が、都合も良い。
ノアは、ジルベールに与えた隣の私室の前に立った。
「ジゼル、起きているか?」
小声で呼びかけたが、返事は無い。
気配から察するに、眠っている様だ。
「入るぞ。」
そっと私室のドアを開けると、部屋のランプは消えており、スースー、と小さな寝息が聞こえる。
紺色のカーテンは開けられ、レースのカーテンから入る月明かりで、ベッドに人影が見える。人影は、全く起きる気配が無い。
ノアはベッドの人影に歩み寄った。
ジゼルは、俺が用意したベッドの真ん中に沈み、丸まってすやすやと眠っている……ときおり、口をモグモグ動かしている。眠っていても、食事をしている様だ……
ノアは、ベッドの端に腰掛けた。重みでマットレスが沈むが、彼女はそれでも一向に起きようとしない。それどころか、寝息を立てながら、呑気に口をせっせと動かし続けている。
………なんだか、思案していた事が、どうでも良くなってくるな。
ノアは、自分が私室に閉じ込めた女性を見つめた。
敷布に、銀色の髪が広がっており、柔らかく波打っている。
綺麗な色だと思う。彼女は心底嫌っている様だが。
彼女は、軍服を着て寝ている。用意した室内用の服を着ていないのが、少々残念な気がするが、兵舎で常に軍服を着ている、というのは、感心できる事だ。
左手首には、短剣を結んで寝ている。あの網紐は、こういった用途で使用していたのか。短剣を結んで寝ていても、今の時点で起きないのであれば、全く意味は無いのだが、軍服を着て寝ている事と同様に、褒められる点ではある。
何度も思うが、全く意味は無いが。
俺が敵兵であったなら、既に殺されている。
ベッドに沈む彼女は、軍服を着ていても、その細い腰や、丸みを帯びた体付きがはっきりと分かる。
俺はどうして、一瞬でも女性だと分からなかったのだろう。
あまり、他人について、全体を見ようとして来なかったからなのか。
───持って帰りたいな、このまま。
婚約した、と言って、私室に連れ帰ったら、騙した事になるのだろうか……
まあ、何とでも言えるだろう、その時は……
ノアは、起きない彼女が悪い、と訳の分からない言い訳をして、丸まってスヤスヤ寝ている体を抱え上げようとした時、ある事に気が付き、彼女は難を逃れた。
今、丸まって寝ている、という事は、
普段の兵舎でも、丸まって寝ているという事か?
そして兵舎で丸まって寝ている、という事は、
任務中や、前線でも丸まって寝ている、という事になる。
ノアは、冷や汗が出た。良く、今まで死ななかったな…
リーはどういう指導をしてきたんだ⁈
……いや、今リーに文句を付けても仕方がない。
リーは、上官として、良くやっていると思う。
彼女の方に、問題があると見るのが正しいだろう。
「ガルシア軍曹、起きなさい。」
彼女は呼びかけても、全く起きる気配が無い。
ノアはため息を付いた。
駄目だ、これは……
何度も呼びかけ、彼女はやっと目を覚ましたが、俺をテオドールだと勘違いする。
その後、はっとした表情をしたかと思えば、今度はリーだと勘違いする。
リーの苦労が伺える……
それから、彼女はベッドから落ち、短剣が頭に当たり呻いた後で、ようやく状況を理解した。さすがに遅すぎる。
そもそも、他人が部屋の前に立った時点で、普通は気配で起きるものではないのか?
例えそこで起きなかったとしても、部屋に入って来られたら、絶対に気付くだろう。
これは早急に正す必要がある。命がいくつあっても足りない。
目を覚ました彼女に、一通り指導した後、彼女の私室を後にした。
恐らく、今回指導したからと言って、直ぐには治らないだろう。ここまで重症だと……
良くて、次は軍服ではなく、用意した室内用の服で丸まって寝ている、程度だろうな。