8.君と過ごしたい
売れ残り。
一般の兵舎へ続く扉からアイゼン少佐が入って来た時、不謹慎ながら、私はそう思ってしまった。
そして、自分のせいで少佐が懲罰房送りになってしまった事と、リー中尉に私室で大人しくしている様に言われた事を思い出し、血の気が引いた。
少佐は私を見つけ、眉間に皺を寄せている。
まずい………
こちらにツカツカと歩いて来て、私は右手で抱え上げられた。
血の匂いがする。
少佐は無言のまま、私を運んで行く。
私室棟の廊下は、掃除の行き届いた絨毯が敷いてあり、足音がしない。
私は、誰にも見られません様に…と祈りながら、大人しく私室棟へ連れ戻された。
少佐は、私の私室の前まで来ると、扉を開けて中に入り、無言で私をソファーの上に座らせた。
そして、そのまま部屋を出ようとする。
さっき、見張の隣で座っていた事を見られた。私室棟から出ようとした事を謝っておくべきか⁈
いやでも…怒られなかったもんな…下手に話を蒸し返さない方が良いか…
「あ、あの…アイゼン少佐、」
「何だ。」
心なしか、少佐の声が小さい様な気がする。血の匂いも酷い。やっぱり、懲罰房で……
さすがに、リー中尉が言う程、切り替えては行けない。私のせいだ。モニカにもっと怒らないでと念押しすべきだった。
「申し訳ありませんでした。私のせいで懲罰房に…大丈夫ですか?」
大丈夫ですか?と言ったものの、大丈夫では無いと思う。でも、それしか言葉を掛けようが無い。
「君のせいでは無い。だが、そう思うのなら、大人しく部屋に居てくれ。」
少佐は、表情を変えずにそう言うと、部屋を出て行った。
これはさすがに、脱走出来そうにないな…
「はぁ……」
私はソファーでため息をついた。
つまらない…
しょうがないので、とりあえず、シャワーを浴びた。
置いてある石鹸で体を洗うと、とても良い匂いがする。
「高そうな石鹸だなあ。」
何かの花の香りかな。
だけどこんな良い匂いじゃ、野営訓練で森に入った時、悪目立ちするだろうな…森にこんな良い匂いの動物はいない。獣達にも気づかれる。森に入る前は、家から持ってきてる、匂いの少ないやつを使うか。
しげしげと石鹸を見る。見れば見るほど高そうだ。あまり使えないのだから、使わずに売っちゃえば良かったな。失敗した。もしかしたら、一晩飲める位の値になったかもしれないのに…
無駄にいい匂いを撒き散らしてシャワー室から出た。
クローゼットに用意されていたワンピースは、何となく着る気になれず、私はまた下士官用の青を基調とした軍服に袖を通した。そして軍用の黒いブーツを履く。
その後はまた暇になる。本を読むか、エイダンに手紙を書くか、だなあ。
リュックの中からペンと便箋を出し、机の上に置いた。
エイダンから、野営訓練中は、定期的に手紙を書く様に言われている。訓練内容について書く事は出来ないので、その他の私的な事について書いているのだが、それに対して、とても心のこもった小言が来る。
淑女として、貴族令嬢として…
リー中尉への態度が悪い…
オーウェンと遅くまで飲み歩くな…
言葉遣いが残念すぎる…
そもそも字の練習を…
最近は特に厳しい。
やっぱり、本を読もうかな。
ベッドにうつ伏せになり、モニカのお父さんの小説を開いた。
三分の一程読み進め、主人公の少年が、大きい獣の様な怪物に向かって矢を射った時、隣の部屋で扉を開閉する音がした。
リー中尉が私室に戻って来たんだ。
私の、この惨状を是非とも訴えたい。
外にも出れず、飲みにも行けず、
そしてそして、飲みにも行けない。
ただでさえ辛い野営訓練が始まるのに、こんなの耐えられない。
私は静かにリー中尉の私室のドアの前に行き、ドアをノックした。そして小声で呼びかける。
「リー中尉、いるんでしょ?ジルベールです。」
返事は無いが、ベッドが軋む様な物音がした。
居留守だな。私の相手を面倒くさがって…!
こちらは、一方的にこんな所に閉じ込められているのだ。そう簡単に引き下がれない。何としても、怪我はもう大丈夫だと理解してもらわないと…
「リー中尉!いるのは分かってるんですよ!返事して下さい!」
微かに、部屋の中を歩く音がする。
「リー中尉、お願いです!私はもう、怪我は大丈夫ですから、いつもの下士官用の兵舎に戻して下さい!私はあっちが良いんです!」
あくまで無視を貫くつもりだな。返事位してくれてもいいじゃないか。
「もー…私がこんなに頼んでるのに。怪我は治ったって言ってるじゃないですか!治ってたらどこでも良いでしょ⁈」
私が少し声の大きさを上げて呼びかけると、ガタッと少し大きな物音がした。出て来てくれそうだ!
「ねー、中尉!私頑張って耳取ってくるから。中尉の指示も聞きます!だから、ね!お願いします!戻して下さい!」
今度はしっかりと部屋を歩く音がする。居留守は無理だとやっと気づいたか。あと一押しだ。
「無視するなら、もういいですよ。耳とるのサボりますからね。私知ってるんだから。リー中尉、普通科中隊の上官と、野営訓練で、どっちの隊が多く耳を取れるか競いあってるでしょ。良いんですか⁈私がサボったら絶対負けますよー!ねー、リー中───」
「ガルシア軍曹、」
その時、後ろの私室の扉が開いて、他の隊の上官が、入口から顔を出した。優しそうな人だ。
「あ……申し訳ありません…お騒がせしました。」
私はちょっと騒ぎ過ぎた事を反省して、敬礼をした。
「いや、君の事は聞いてるから、別に良いんだけどね。評判通り、元気が良いね…ただ、その部屋はリー中尉の部屋じゃなくて───」
「え?」
上官が私に言いかけた瞬間、リー中尉の私室の扉が少し開き、私は右腕を掴まれて部屋の中に引きずり込まれた。
引きずり込まれる時に、上官が、あちゃー…という顔をしていたのが見えた。
部屋の中で、扉を背に立たされる。頭の後ろで、ドアの閉まる鈍い音がした。
「部屋の前で騒ぐな。」
血の匂いがする。
そこに立っているのは、リー中尉ではなく、オレンジ色のランプの灯る薄暗い部屋で、不機嫌そうに顔をしかめたアイゼン少佐だった。
「どうして………」
「どうして?……なぜ騒ぐなと言われているのか分からないのか?」
当たり前だが、絶対怒っている。
「申し訳ありません、少佐。」
私は怖くて少佐の顔を見れず、正面を向いたまま敬礼をした。
目の前に、少佐の胸元がある。少佐は軍服姿だが、佐官用の、黒を基調とした軍服の前は開いており、シャツは着ておらず、包帯だらけの上半身が見えている。上着を脱いで休んでいた所を、私が起こしてしまったのだろう。肺の辺りが浅く上下し、呼吸も早く、見るからに辛そうだ。
起こしておいて言える事では無いけど、この状態で、良く起きてられるものだな。
私が敬礼をしたまま固まっていると、頭の上で、大きなため息が聞こえた。
「ジゼル、」
少佐はそう言うと、私の右手を頭から下ろし、左手で私の頭を掴んで上を向かせ、自分に視線を合わせた。
右手を扉に付いて私を囲うように体を屈める。
「あの部屋の、どこが気に入らない?」
「え……?」
「何か足りない物があるなら言いなさい。気に入らないなら、君の好きに変えて良い。」
少佐の紺色の目は、苦しそうに半分程閉じられ、浅く早い呼吸を繰り返している。
私はチラッと視線を部屋の奥に逸らした。少佐の体に遮られ、あまり良く見えないが、部屋の作りは同じ様だ。ただ、この部屋は、左側の壁一面が本棚になっており、難しそうな本がずらっと並んでいる以外は、最初私が想像していた様な、いかにも殺風景な軍の私室だ。
私は視線を泳がせながら、歯切れ悪く答えた。
「いえ……とても素敵なお部屋で……十分過ぎる位で……」
「では何故、他の兵舎に行きたいと言っている?」
確かに。
抜け出そうとしているのは、満足していないからだ…
「本当に…す、素敵なお部屋だと思うのですが…」
頑張れ私!もう正直に言うしか無い!
「何だ。」
「ほ…他の…同窓の者達と…飲みに…行きたくて……」
「………」
「外に出たいのです。」
最後の言葉だけは、しっかりと言い切った。
「そうか……」
少佐は、それを聞いて、納得した様に呟く。
「では……良いですか⁈」
「駄目だ。」
「えっ!」
そんな。絶対許可されそうな流れだったのに。
「なぜですか?少佐……」
今度は私が問う側になった。
「なぜ……」
「私は…もう怪我は大丈夫です。」
瀕死の大怪我をしている少佐に向かって申し訳ないが、本当に大丈夫だ。ちょっと肋骨が軋む気はするけど…
「……なぜ……」
「はい。なぜでしょう。」
少佐は何だか自問自答している様だ。
「分からない。」
「えっ!」
私は少佐のよく分からない答えに、びっくりした顔で少佐を見つめた。
分からないなんて事はないだろう。
一体何のために、あの難しそうな本棚の本達を読んでいるんだ。モニカのお父さんの小説を愛読している私の方が、まだ語彙力ありそうだぞ。
「分からないのですか……?」
「すまないが…分からない……」
少佐は本当に分からない様で、嘘では無さそうだ。先程と一転して、困った様な表情になっている。
「では、分かったら戻って来ますから、それまで外に出ても良いですか?」
「駄目だ。」
「…………」
私は小さくため息をついた。
「……ジゼル、一緒に飲みに行ってるのは…確かミラー伍長達だな。」
「はい。」
「彼等とは…いつでも行けるだろう?訓練内容にもよると思うが、野営訓練中、毎日兵舎に帰ってくる訳ではない。」
「……はい。」
「兵舎に帰って来る日は、私室で過ごして欲しい。」
少佐は困った様な表情のまま言った。
言い方が多少変わっただけで、結局、なぜ私室から飲みに行ってはダメなのかは、告げられないままだ。
上官の指示とは言え、納得性に欠ける…
「飲みに行きたい…か…酒を用意する事は難しいが、私室に戻る日は、アイゼン家から食事を持って来てもらおう。君の食べたい物を用意する。一緒に食べよう。」
「えっ……!良いのですか⁈」
モニカが言ってたけど、確か、少佐の家は侯爵家…
食事も美味しいのでは…軍の食堂も悪くはないが、ぜひ食べてみたい。
「ああ、何でも好きな物を言うと良い。」
「ありがとうございます。」
それは納得性には欠けるが、指示を聞く決定打にはなった。
「分かりました、少佐。私室に戻ります。」
「ジゼル、」
私が戻ろうとすると、少佐はなぜか扉が開かない様に抑えた。
「少佐……?」
部屋が薄暗くて、はっきりと表情が分からなかったが、少佐は苦しそうな表情で、私の前髪に自分の額を付けた。
少佐の浅い呼吸音だけが、殺風景な私室に響いている。
ここから、二度と出られない様な気がした。
「……あの……アイゼン少佐……」
私が何とか声を振り絞って少佐を呼ぶと、少佐は私に額を付けたまま喋り出した。
「君は…いつまで俺を少佐と呼ぶんだ…?」
「え……少佐が、中佐になられるまで…です。」
この人は、何でそんな当たり前の事を聞くんだ。
この部屋の本、本当に読んでるのか?
私が答えると、少佐は、そうか、と言って顔を離した。
その時の少佐の表情は、どの様な感情から来るものなのか、私には良く分からなかった。
エイダンやモニカなら、分かったのだろうか。
私は初めて、エイダンの忠告を聞いてこなかった事を後悔した。
いや…本当は…
今日街で、少佐に右手を取られた時から後悔していたんだ。
でも、今だって…
社交辞令の挨拶だとか
お茶の注ぎ方だとか
そんな事を練習する余裕がある程、私は強くない
どれだけ訓練しても
同じ量の訓練をしたオーウェンに打ち負ける
それどころか、訓練をさぼっている者にさえ
正面から挑んだら、歯が立たないじゃないか
どうして 何で 私だけ
今は、正々堂々なんか程遠い戦い方を身につけて
何とかやって来れてる
どれだけやり方を罵られようとも構わない
死ななければそれで良い
実戦であれば多少の自信も付いてきた
だけど
軍務に関わる事以外に時間を割く事が
私は怖くなっている……
頭の上に、ポンと大きい掌を乗せられて、私は我に返った。
「明日から野営訓練だ。寝坊しない様に。」
そう言って、少佐は私室の扉を開けた。
「はい。」
私は今度こそ、大人しく部屋に戻って、ベットに潜り込んだ。