5.ふわふわ
さすがに…視界が霞むな…
頭部から垂れてきた血が、両目に入って目の前が霞む。手で拭いたいが、両手首に付けられたままの金属製の拘束具が重く、手を動かすのが億劫だ。普段なら、この位の重さ何でもないのだが。
ノア・アイゼンは、薄暗い懲罰房の鉄格子の奥で床に座り、壁にもたれ掛かっている。
執行役達は引き上げ、一人になった。
曲げた両膝に手を置いているが、手首の拘束具がだんだん重くなってきて、両手を床に下ろした。拘束具につけられている鎖が、煩い金属音を立てる。鎖の先端は、懲罰房の壁に打ち付けられた留め具に繋げられており、右手で鎖を引くと、金属音と共に留め具が軋んだ。
それにしても───
「アイゼン少佐、何を考えているのかな?」
ノアが物思いにふけり、ため息をついた時、明るい声が懲罰房に響いた。
ゆっくり顔を上げると、ベネット公爵子息が、にこやかな笑顔で懲罰房に入って来て、鉄格子に外から手をかけた。
鉄格子に手をかけた時、ベチャッと水を踏んだ音がして、ベネット公爵子息は自分の足元を見た。
「ん?……うわっ!凄い血溜まりだな!」
鉄格子の外まで、自分の至る所から流れ出た血で、血溜まりができている。
「いやー!良く切れてるみたいだね!次の商品も良く売れそうだよ!ありがとう!」
あの女の兄だけあって、良く喋る奴だ。
「ねえねえ、アイゼン少佐!」
「なんだ既婚者。」
「……君ねぇ、さすがに不敬だよ、それは。……まぁいい。で、考え事をしてたみたいだけど、何を考えてたのかな?かわいいジルの事でも考えてたの?」
「………だった。」
「ん?何だって?」
「ふわふわだった。抱え上げた彼女は…。」
「……君、頭おかしいって良く言われない?」
先程、ジゼルの反応に舞い上がってしまい、つい彼女を抱え上げたが、抱えた彼女は予想以上にふわふわだった。
女性に触れる事は初めてでは無いのだが、こんなにふわふわだったか?正直彼女以外に触れた女性がどうだったか…何も覚えていない。触れた感想など無かったと思う。
あまりにふわふわで、感触を確かめたくなり、つい力を入れ過ぎてしまった。父親に叩かれなかったら、危なかったかもしれない。彼女は大丈夫だったのだろうか…心配だ…後で様子を見に行こう。
「既婚者、彼女の名誉の為に言うが、彼女がふわふわなのは訓練を怠っているからではなく、所属部署の指示によるものだ。軍事的な内容なので、あまり詳しくは言えないが───」
「もういい、もういい!分かったから!全く…この状況で何を言い出すかと思えば…からかう気も無くなるよ。」
「ふわっふわだった……」
「……。本当に軍人の思考は分かりかねるよ。ジルが不憫だ。虫も殺せない様な人なのに…」
「彼女のどこが虫も殺せないんだ?彼女は、野盗の討伐数も上位の成績だぞ。彼女を見くびるな。」
「君達が、ジルをそうしてしまったんだろ⁈本来彼女はそんな女性では無い!」
「彼女を良く見ていないのはお前だ。彼女は弱くない。」
ベネット公爵子息は声を荒げたが、また直ぐに元の笑顔に戻った。
「いや、もういい。君達とは、何を話しても無意味だ。分かっていた事だが…」
「分かったのなら、もう二度と、ジゼルをお前の視界に入れるな。彼女は俺のだ。お前は、良い武器を見つけて、俺たちに卸してればいいんだ。」
「君ねえ……」
ベネット公爵子息は鉄格子を握りしめた。
「だいたい、リーに言われていたが、既婚者なのだろう?過去にジゼルと仲が良かったのか知らないが、ジゼルに馴れ馴れしく触れようとするな。自分の妻と仲良くしていればいいだろ。」
「妻ね……結婚式以来、顔を合わせてもいないよ。」
「だったら会いに行け。ジゼルには会うな。」
ベネット公爵子息は、脱力してため息をつき、右足で血溜まりを踏み締めた。
「……ノア・アイゼン少佐、君がうらやましい。」
「でもね、閣下に聞いたけど、君達はまだ縁談も何もしていないそうじゃないか。それなのに君ときたら人前であんな……そもそもね、君も貴族の出なら、まず家に招いて家族と食事とか、そういう事からでしょ?普通。」
「家に招いて食事……」
「家で食事、した事ないんでしょ?僕はあるよ!妹も一緒にね。ジルもすごく喜んでくれたよ!」
「……ある。」
「え?」
「……ある……家で食事……した事……」
「嘘をつくな!何だその、たどたどしい言い方は!」
ベネット公爵子息は、鉄格子をガンガンと鳴らし、手を離した。
「まあ、もういいよ。君は何をしても死にそうにないね。それだけの傷で良く喋れるものだ。血の匂いが酷い。僕はもう気が済んだから行くよ。」
「まて、既婚者。」
背を向けたベネット公爵子息は、苦笑いで振り返る。
「何かな?ノア・アイゼン少佐。」
「ジゼルは…彼女が主に使用しているのは、下士官以下の希望者に支給している、刃渡が18センチの短剣だが、使用者が少ないため、旧式のままだろう?彼女を死なせたくなかったら、すぐに新型を卸しに来い。」
「………分かったよ。」
「重さは同じにして、刃渡りを20センチにしろ。出来るだろ?」
ベネット公爵子息は返事をしなかったが、笑って手を振って出て行った。
やっとうるさい奴が出て行ったと思ったら、階段を降りてパタパタとこちらに向かってくる足音が聞こえる。
「ちょっとちょっと!今回は酷いわねー!」
「オリビア殿…」
女医のオリビアは、右手にモップ、左手に医療品の入った箱を持って、懲罰房に入って来た。
「あーあー。こんなに血溜まりが…あんた、応急処置が終わったら、医務室に来なさい。さすがに輸血が必要よ。」
そう言いながら、自分が踏まない様、慣れた手付きで血溜まりをモップで拭くと、鉄格子の鍵を開けて中に入ってきた。
「オリビア殿、良いのですか?懲罰対象者の手当ては──」
「ダメに決まってるでしょ。しかも、あんたなんか私の知った事では無いんだけどね。あー、もう、縫う箇所が多いなー。」
文句を言いながら手際良く応急処置を進めていく。多少の扱いが雑な気がするが、正直指摘する体力も惜しい程残っていない。
「でしたらなぜです……?」
「リー中尉に頼まれたのよ。ジルベール軍曹が心配してるから行って欲しいって…ジルベール軍曹は、何で自分に酷いことしたあんたなんか心配してあげるんだか……」
「彼女が……」
「あの2人に頼まれたら、断れないからね。」
オリビアは、その後は無言で手際良く作業を続けた。そして最後に、ノアの手首に付けられた拘束具の鍵を外した。
「重っ…なんなのこの重さは。こんなのつけられてよく平気ね。腕がもげるわ。」
そして拘束具を外した手首を一通り見ると、医療器具を片付け始めた。
「じゃあ、自分で医務室に来なさい。私は先に戻るから。」
「お手数かけます。オリビア殿。少々寄る所がありますので、多少遅くなってもよろしいですか?」
「別に構わないけど…その傷でうろついたら、建物の床があんたの血で汚れるでしょ。さっさと来なさいよ。」
オリビアはこちらをチラッと睨むとパタパタと出て行った。