1.肋骨は今日限りだ
「リー中尉をここに呼んでいる。もうすぐ来る頃だ。今日は、リーに兵舎に連れて行ってもらう様に。」
少佐と並んで軍の門を潜り、少し進んだ所でそう指示された。
「はい、少佐。」
返事をすると、間を置いて、少佐が尋ねる。
「ジゼル…今日行った店は、気に入ったか?」
「はい。ありがとうございました。」
「野営訓練が明けたら、また行こう。」
「本当ですか!楽しみです。私は兄ほど食べませんので。次はメニューを全部頼まないで下さいね。」
「理解している。」
少佐はそう言って、楽しそうに笑った後、私に向き直って、自分の左手を私の右肩に添えた。
そして右手で、私の左頬にある、古傷の位置をなぞった。
私の顔には、複数の古傷がある。あまり目立たなくなってきたが、鼻の頭から左頬へ向けて、直線に入っている一番大きな古傷は、どうしても目立つ。近くで見れば、嫌でも目に付いてしまうので、軍の広報活動で必要な時は、担当者が化粧で見えないようにしている。
でも、顔の古傷は少ない方で、体には顔と比べ物にならないほどの古傷があるし、正直あまり気にしていなかったのだが、少佐は気になる様だ。一緒に出掛けるに当たり、不敬だったのだろうか…隠してくれば良かったかな。
「すみません、目立ちますよ……ね……」
そう言い掛けた時、私の意識は、またもスローモーションになった。初めて敵兵と対峙した時の様な──は、もうどうでもいいんだけど、思考が追いつかない。
私の古傷を手でなぞった少佐は、私の右肩に添えた手に少し力を入れて、そのまま私の左頬に顔を近づけ、古傷の上に唇を落とした。
これは……挨拶……では無いよね……
どうして良いか分からず目を見開くと、少佐の紺色の瞳が、今までにない位、優しく揺れていた。
まだ幼い頃、両親が寝た後に部屋を抜け出し、兄のベッドに潜り込んで、寝る前に絵本を読んでもらっていた日のような、優しい優しい、夜の色だ。最後はいつも、お話の途中で、寝てしまってた。
眠りに落ちる前の、とろける様な、夜の色。
その目を見ていたら、悪い事をされた気にはならなくて、左手で古傷を押さえながら、なんだかへらっと笑ってしまった。
少佐は笑った私を見て、なぜか驚いた顔をした後、別人かと思える程優しい笑顔で破顔した。
が、次の瞬間───
「ぐっ……あ………」
両足が地面から離れたと思ったら、肋骨に激痛が走り、私は呻いた。
何だ、何が起こっているんだ……
少佐を見て、訳は分からないが、状況は理解した。
少佐は、その別人かと思える笑顔のまま、両手で私の肋骨を掴み、大人が子どもを、いわゆる高い高いをする様にして、抱え上げている。
そして、その笑顔に反して、肋骨を掴む力が尋常じゃない。
何だこいつ……!化物か……!
少なくとも人間の力じゃない。
痛すぎて声が出ない。このままでは───
兄との思い出の夜が、私の肋骨を砕きに来ている。
「ジゼル…明日の野営訓練入りまで、まだ時間はある。君さえ良ければ…今日は俺の私室で共に過ごそう。」
「……ぐ…ぅ……」
何だか凄い事を言われた気がしたが、痛みによる幻聴か?
私は何とか逃れようと足をバタつかせたが、抱え上げられているためどうにもならない。
──ジル、こいつに何かされそうになったら、遠慮なくその剣で斬り殺しなさいよ──
モニカの言葉が頭をよぎった。私は思い出した様に軍刀に手を伸ばそうとしたが、脇の下に手を入れられ、肋骨を掴まれているせいで、上手く手が伸ばせず掴めない。
「嫌では無いんだな、ジゼル。俺は……今まで生きてきた中で、今日が一番幸せだ。」
何故か化物が、大輪の花が綻ぶ様な笑顔になっている。
今日が幸せだなんだと聞こえた気がするが、
私の肋骨は今日限りだ。
「あぁ、可愛いな……こんなに可愛い物がこの軍にあったとは…」
───お前は何にも分かってねぇんだ。昨日だって、捕虜をまるで物みたいに───
──お偉いさん方は、腹の中じゃ何考えてるか分かんねえもんだ。優しそうだからって、気を許すんじゃねぇぞ──
リー中尉の言う通りだ…
まずい……もうこれ以上は肋骨が持たない……
涙で視界も悪くなってきた…
「う………あああっ!……」
砕ける………!
もう駄目だと思った時、何者かがアイゼン少佐の頭を背後から殴り付けた。
少佐は少しよろけただけで、私を離さなかったが、肋骨を砕きに来ていた両手の力が抜け、私は地面に降ろされた。
助かった…!!
私はゼェゼェと肩で息をした。
「ノア……最早、お前に何から言えば良いのか分からんが……軍の中で何をやっている。」
少佐を殴りつけたのは、少佐の父、アイゼン中将だった。アイゼン中将のすぐ後ろに、兵が10名程控えている。
「……閣下。」
「ノア、今日はお前に私的な用件で来ている。父上で構わんぞ。私もお前の事は、愚息と呼ばせてもらう。」
アイゼン中将は、顔が引きつっている。どうやらご立腹だ。
「では……父上、何の用件ですか。」
「先程も言ったが…お前は軍で、ガルシア軍曹に何をしているんだと言ったのだ。」
「あの女が邪魔しなかったら、外で済んでいた…」
「はぁ?どういう事だ?」
「……。本日彼女は休暇です。私も今日は仕事を終えました。何が問題なのですか。」
少佐はアイゼン中将を睨み付けている。アイゼン中将は、相変わらず引きつった表情のままだ。
「お前……そういう問題では無いだろ。それに、まだ私はガルシア家に何の話もしていない。」
「早く話を付けに行って下さい。」
「貴様………」
なにやらアイゼン中将が、わなわなと怒りで震え出した時、私は後から、左肩をポンっと叩かれた。
「ジル!久しぶり。」
「あ……!」
振り返ると、そこにはモニカの兄、ベネット公爵子息が立っていた。私はびっくりして、少し固まってしまったが、向き直って敬礼をした。
「お元気そうで安心しました。ベネット公爵子息様。」
「……ジル、そんなにかしこまらなくていいんだよ?モニカにずっと話は聞いていたけど、あぁ、妹はいつもね、手紙でも君の話ばっかりで!それか、事業の話かな!ジル、ますます綺麗になったね!」
ベネット公爵子息は、モニカに似た笑顔で、微笑んだ。
「恐縮です。ベネット公爵子息様。」
「ジル、さっきも言ったけど、そんなに固くならなくていいんだよ。そんな、公爵子息様だなんて…!前みたいに名前で呼んで良いんだよ?君には名前で呼んで欲しいな。」
「おい、彼女から離れろ。」
「ノアっ!貴様……!!」
ベネット公爵子息が私にそう言った時、少佐が割って入ってきて、アイゼン中将が声を荒げた。さすがに、公爵子息に対して不敬に当たる。
「あぁ、初めまして。君がノア・アイゼン少佐かな。妹から話は聞いてるよ。今日はその件で来たんだよね。」
「何の用だ。」
「ノア!良い加減にしろ!」
「まぁまぁ、閣下、大丈夫ですよ。いやぁ、私は仕事の都合で、ほとんど他国にいるのだけど、久しぶりに帰って来たら、かわいい妹に泣きつかれてね。君にお茶の相手を何度も取られていると。」
ベネット公爵家の主な事業は武器商で、主にモニカの母とモニカの兄である、ベネット侯爵子息が担っている。ベネット公爵子息は、常に他国を飛び回っているため、ほとんど国には帰らないと聞いている。私も顔を合わせるのは久しぶりだ。
ちなみにモニカの父は、売れっ子の作家で、言うまでも無く、そっち方面に手広く事業を展開している。
「お茶の相手?何の事だ。」
「彼女の事だよ。今日も妹は彼女と約束していたのに、君が横取りしたんだろ。」
「ジゼル、そうだったのか。」
「申し訳ありません、少佐。私がお伝えしなかったので…」
「謝る必要はない。邪魔してすまなかったな。」
少佐はそう言って、私の頭にポンと左手を乗せた。さっきの化物は、完全に鳴りを潜めている。
何だったんだ、さっきのは。
「ベネット公爵子息様、私の判断でした事ですので、アイゼン少佐は───」
「ジル、」
「はい。」
「さっきも言ったろう?前みたいに名前で呼んでよ!」
ベネット公爵子息は、笑ってそう話しかけてくるが、なぜか、少佐から感じる殺気がすごい。
「…お心遣いはありがたいのですが、もう立場がおありですから。それは出来ません。」
「気にしないでって言ってるのに…ん?アイゼン少佐、何だかニヤニヤしてないか?……まぁいい。笑ってられるのも今のうちだよ。」
「どういう意味だ。」
「生憎我が家の事業は、ボランティアでも公共事業でも無いんでね。これ以上妹を泣かせるようなら、出る所出させてもらうよ。リソー国軍への、うちからの卸値を釣り上げる。嫌なら他から買うんだな。」
「そういう事だ、ノア。今回ばかりはお前の愚行が目に余る。」
アイゼン中将は、黙って聞いている少佐を呆れた様な顔で睨むと、背後に控えている兵に冷たく言い放った。
「おい、こいつを懲罰房へ入れろ。」
アイゼン中将に命じられた兵士が2名、少佐の腕を背後から片側ずつ抑えた。少佐は一切抵抗せず、されるがままだ。
「そんな……閣下お待ち下さい!私が少佐に、ベネット公爵令嬢との約束をお伝えしなかったのです!非なら私に───」
「ジル、」
言いかけた私を、ベネット公爵子息が遮った。
「…また傷が増えたんじゃないのかい?かわいそうに。こんな環境に、君を置いている彼等を、庇う必要なんてないんだよ?」
「!!」
そう言って、ベネット公爵子息は、私の左頬の一番目立つ古傷に、手を伸ばして来たが、私はとっさにその手を左手で掴んで、触れられるのを拒んでしまった。
「ジル……」
「あ……し、失礼いたしました、ベネット公爵子息──」
「私の部下に何をなさっているのですか?」
「リー中尉……」
その時、リー中尉が来た。そういえば、ここに私を迎えに来てくれる事になっていたんだった。リー中尉の声を聞いて、私は少しほっとした。
「ノア、お前に言われているんじゃないのか?」
「………。」
アイゼン中将が少佐に何か呟いている。
「閣下、お取込み中失礼します。少佐、遅くなりました。」
リー中尉はアイゼン中将と少佐に敬礼をして、一瞬取り押さえられている少佐を訝しげに見たが、すぐにベネット公爵子息に向き直った。
「ベネット公爵子息様、貴方は既婚者ではないのですか?いえ、たとえ既婚者でなくとも、ここは軍の中です。私の部下の頬に触れる様な行為は辞めていただきたい。ガルシア軍曹は、女性である前に、ここでは軍人です。」
「ノア、聞いてるか⁈お前は触れるどころかなんて事を…」
「………。」
「それは失礼した。すまなかったね、ジル。」
「上官として言いますが、ガルシア軍曹はここ最近、顔に傷は増えておりませんよ。それに貴方が触れようとしていたその傷は、貴方が我々に卸した武器で、ガルシア軍曹が戦果を上げた時のものです。誇る事ではありますが、貴方が憐れむ事ではありません。」
「リー中尉…」
ベネット公爵子息は、笑った様な表情をした後、少佐に向き直った。
「話がずれてしまったが、とにかく、そういう訳だよ。」
「この愚息をさっさと連れて行け。」
「懲罰を受けるのなら、うちの新しい商品を試させてもらおうかな〜!」
「愚息でよければ、試し斬りにでも何でもお使い下さい。」
「試し斬り⁈ま、待って下さい!少佐は本当に何も……!」
「リー中尉、」
一切の抵抗をしないまま、少佐が言った。
「彼女を兵舎に。」
「はっ。承知しました。行くぞ、ジル。」
「そんな、でも……」
「いいから来い!」
リー中尉が小声で言い、少佐は兵に連れられ懲罰房へ歩き出した。ベネット公爵子息は、私に向かって、元気で、と告げると、アイゼン中将と話しながら、軍の中へ入って行った。
「ガルシア軍曹!」
私とリー中尉が歩き出そうとすると、守衛の男に呼び止められた。
「守衛殿…」
「リー中尉、少々お待ち下さいね…!」
そう言いながら、守衛の男は私の左頬を、綺麗な柔らかいハンカチで、ゴシゴシと拭いた。
「守衛殿、ガルシア軍曹の頬に何か付いてましたか?」
「邪悪なものが、取り憑いてますからね……よし、綺麗になりましたよ!それでは、私はこれで。」
守衛の男は、足早に戻って行った。
「何も付いて無かった様だが…ジル、何かあったのか?」
「……先程、ベネット公爵子息の指が、少し当たりましたから。その事かもしれません。」
「あぁ…全く破廉恥なヤツだったな。これだからお偉いさんは、常識がぶっ飛んでて嫌なんだ。」
「………そうですね。」
私はどうして、モニカの兄の手は止めてしまったのだろう。何となく分かりかけた気がしたが、リー中尉が歩き出したので、それ以上考えるのを止めてしまった。