9.右手の行方
「ジゼル。」
「アイゼン大──じゃなくて…少佐!」
アイゼン少佐は、街の正門をくぐった所で、軍服姿で腕組みをして立っていた。私を見つけると、ツカツカと近づいて来る。
私は右腕を曲げて力こぶを作る、というなんとも間抜けな格好をしている事に気づいた。
「まずい……」
アイゼン少佐が目の前に来たので、慌てて右手で敬礼をしようとしたのだが、そこから私は心ここに在らず…アイゼン少佐の取った行動のせいで、どうしたら良いか分からなくなってしまった。
「君の右手は、すぐに頭の上に行ってしまうな。」
アイゼン少佐はそう言って、敬礼のために上げかけた私の右手を取って引き寄せると、私がいつもモニカにする様に、手の甲に軽く唇を落としたのだ。
私はそこから意識がスローモーションになった。
それは新兵の時、初めて敵兵と対峙した時と同じ感覚だった。残念ながら私には、それ以外に表現が出来ない。
手の甲に少し温かいものが触れる。私の脳が、それはアイゼン少佐の唇だと判断するのに、かなりの時間がかかったと思う。
そして伏せられていた少佐の顔がゆっくりと上がり、紺色の両目が、上目遣いに私を捕らえる。
決してその瞳は笑ってはいない。一見無表情の、冷たい眼差しにも見えるが、何かを私に乞い願う様な、そんな感情が宿っている様にも思えた。
私の取り巻きの女性たちの、悲鳴とも受け取れる叫びが、遠くの方で聞こえる気がした。
それからアイゼン少佐が私の右手をゆっくり離す。私は少佐をポカンと見上げながら、おそらく口もポカンと開けている。それに気付いても私の口は、間抜けに開いたままだ。
モニカならきっと、何でもない様に、笑って挨拶を返すのだろう。
でも、私は出来ない。
初めての事で、どうしていいのか分からない。
他の令嬢になら出来て当然のはずなのに。
モニカは……
今まで私が同じようにしてきた他の令嬢達は……
この後どうしていただろうか。顔が熱くて思い出せない。
「………ル……ジゼル?」
アイゼン少佐に名前を呼ばれる声が聞こえて、我に帰った。しかし、我に帰った所で、どうしていいのか分からない現状は変わらない。
「あ…う………あ……」
私は言語を失くした様になってしまった。恐らく困った顔もしていたと思う。アイゼン少佐も、淑女らしさのかけらも見られない、私の醜態に呆れたのか、顔を伏せ、軽く咳払いをした。
「ジゼル、君は今日も軍服なのだな。休暇では無かったのか?」
かけられたその言葉に、少し冷静さを取り戻した。先程、筋肉さんとも交わした内容だったからだ。
「あ……はい、明日から野営訓練ですので、この後このまま軍に行こうと思いまして。」
呼び出されたから軍服で来た、というのは言わない方が良さそうだ。
「そうだったのか。野営訓練は、訓練を受けた者と受けなかった者とでは、生存率が違う。しっかり訓練に励む様に。」
リー中尉と同じ事を言われて、私はほとんど落ち着きを取り戻した。
というよりも、恐らく私の中では、先程の件は処理出来ない案件として、記憶の奥底に封印された。私のレベルでは到底無理だったのだ。
何だかんだ、少佐は名家の出身だ。私の心が追いつけなくても、少佐にとっては、当たり前の挨拶なのだろう。
しかし、呼び出した部下にまでする必要はあるのだろうか…
「本来なら、君の家に迎えに行きたかったのだが、仕事の都合で申し訳ない。」
「とんでもございません、少佐。」
どこに上官の呼び出しに、家まで来てもらう部下がいるのだ。さすがにそれはダメだと私にでも分かるぞ。
「………帰りは俺も軍に戻る。一緒に送ろう。」
「いえ、お気遣いは嬉しいのですが、自分で──」
「ジゼル。」
「はい、少佐。」
「あまり駄々をこねるな。送ると言っている。」
アイゼン少佐は私の返事を遮って、小さくため息をつきながら、子どもを諭すように告げた。
「駄々………」
「駄々じゃないなら何なんだ。」
「……駄々であります、少佐。」
もはやよく分からないが、上官が白と言えば白、黒と言えば黒、駄々と言えば駄々、の法則に従う事にした。
「分かってくれれば良い。」
正解した様だ。
しかし、アイゼン少佐は、また問題を出してきた。
「それとジゼル、」
「はい、少佐。」
「……君は今日は休暇なのだろう。」
「そうであります、少佐。」
「今は勤務中では無い。」
「はい。」
「………俺の名前は知っているのか?」
「?……ノア・アイゼン少佐であります。」
「……知っているなら、少佐と呼ぶのはおかしくないか?」
「少佐とお呼びするのは……おかしくないと思いますが…」
次の問題はかなりの難問だ。何を言われているのか、ひとかけらも分からない。
「何とお呼びすればよろしいでしょうか。その様に呼ばせて頂きます。」
もう正解を聞こう。聞いてしまおう。考えても時間の無駄だ。
「………いや、いい。好きに呼んでくれ。」
好きに呼んで良いのなら、奇人と呼びたい所だが、その程度の分別は付く。
「少佐でよろしいですか?」
奇人はフーッとまたため息をついて、小さく、構わないと答えた。
「ジゼル、立て続けに申し訳ないが、さっき門の外で一緒にいたのは誰だ?」
「リソー警察官殿であります、少佐。」
「……知り合いなのか?」
「違います。ここへ来る途中にお会いしたのですが、親切に送って下さったのです。」
「君は…あいつには簡単に送らせるのだな……」
「え……そういう訳では……」
私が口答えをしてしまったからか、アイゼン少佐は少し怒った様に聞いてくる。
「何を話していた?」
まさか、筋肉を見せてもらおうとしていたなんて言える雰囲気ではない。
「特段変わった事ではありません。私の好きな食べ物や、休日に何をしてるか等聞かれました。」
するとアイゼン少佐は怒りをあらわにして声を荒げた。
「答えたのか⁈」
警察には、答えてはいけない内容だったのか…私は肩をすくませて謝罪した。
「申し訳ありません、少佐。」
「良く知らない男に、私的な事を簡単に話すな。俺以外の奴は全員警戒しろ!」
私にとっては少佐も良く知らない男に入ると思うのだが、軍の関係者以外に、不必要に個人情報を漏らすのは、確かに軍規違反だ。迂闊だった…
「申し訳ありません、少佐。あの……」
「何だ。」
「軍規違反になりますか…?」
「当たり前だ。」
「えっ…!」
私はさすがに怯んだ。軍規違反になれば懲罰だ。個人情報漏洩は、反省文とか降格だとか、そんな甘いものでは無かったはずだ。
確か懲罰房で吊るされるか…場合によっては鞭打ち位重かったかもしれない…
軍人の多くは、新兵の時に教育の一環として、残念ながらも懲罰を受ける事となってしまった、同胞の悲惨な姿を見せられる。軍の指示に背かない兵を作るため、殺される事は無いが、手加減はされない。
私も例外無く、懲罰を受ける同胞を見せられた。懲罰中に舌を噛んで自害しない様、猿ぐつわを噛まされ、気絶してもなお鞭打たれる姿は、目を覆いたくなる。
そして過去に、とある理由から懲罰を課された事が、私は既にあるのだ。
もはや野営訓練どころの騒ぎでは無い。野営訓練は実戦を伴うため判断を間違えれば死ぬ可能性もあるが、ある程度経験を詰んだ今では、懲罰に比べれば、楽しいものにさえ思える。
まさかこんな事になってしまうとは……
「う……うぅ……」
私はその場にへたり込んでしまった。
最悪だ…少し涙がでた。
「ジゼル、」
「……はい。」
アイゼン少佐は腕組みをして、こちらを見下ろしながら告げた。
「今回は見逃してやるが、次は無いからな。以後気をつける様に。」
「あ…ありがとうございます!少佐!」
やった!やった!この人にも慈悲の心があったのか!でもなんだか少し嬉しそうなのはなぜだろう。
「ではジゼル、そろそろ行こう。何が食べたい?」
「え?」
「この間、食べたい物があれば連れて行くと約束しただろう?忘れたのか?」
奇人とそんな約束しただろうか…
「えっと………」
「何でもいいんだぞ。」
「あ…う………あ……」
先程まで私を懲罰房に入れようとしていた奇人の口調は優しかったが、私はもう頭がパンクしてしまい、へたり込んだまま、また言語を失くしてしまった。
街の人々は、整った顔立ちの精悍な軍人と、ポスターでもよく見る有名な軍属令嬢の二人が、戸惑ったり、恥ずかしがったり、怒ったり、泣いたり、照れたりする様子を温かい目で見守っていた。