4.逃げろー!
「私の愛する兄は、大尉の処分を望まない。」
私がそう言い切ると、モニカは優しさからの涙を流した。
兄が死んでから、兄を殺したであろう敵兵を恨んでいた。優しい兄を、確かに私のものだった幸せを、奪った人物がいる事が許せなかった。
しかしその怒りは、自分が歳を取るにつれて変わっていく。
自分を守るため、初めて敵兵を殺した時。
自分が軍人であるために、野盗を殺した時。
その行為に心が揺れ動かなくなった時。
直接的で無くても、私の提案した作戦で、軍人だけでなく民間人も死んだかも知れない。
敵兵でも、野盗でも、一人の人間だ。殺されて悲しむ人は必ずいる。私も兄を殺した人物と、同じ事をしている。
そして生き延びた私は、死んだ兄と同じ年齢になっていた。
兄も少なからず、人を殺していたはずだ。
その事に気づいてから、兄を殺したであろう人物を、恨む事はできなくなった。
恨んでいいのは、綺麗な手をした者だけだ。
私の手は狡くて汚い。
そしてこれからも、どんどん汚くなる。
逃げる事はできない。
モニカ達が、私が敵兵を何食わぬ顔で手にかける姿を見たら、どう思うだろう。
私は人を殺した翌日も、何事も無かった様に彼女達に笑いかけている。
そしてその事に、罪悪感すら感じなくなった自分を、私は大切に思えない。
だけど、この木の実のケーキを見た時、
琺瑯の容器の蓋を開けた時、
とっくの昔に蓋をした思いが溢れてきた。
兄を殺した人物を、恨む事はできないけれど、
兄の死を悲しむことは、悪いことではない。
悲しんでも良いんだ。
並んだ木の実のケーキに、そう言われた気がした。
「閣下、私は、ガルシア軍曹が大尉に呼び出された日に、彼女とお茶の約束をしていたんですのよ。」
涙を拭ったモニカは、アイゼン中将に向けて話し出した。
「そうでしたか…重ね重ね愚息が失礼をいたしました。非礼をお詫びします。」
「それに彼女は、まだ体を休ませるべきですわ。私は今回の大尉の処分として、彼女に休暇を与える事をご提案します。」
アイゼン中将は、柔らかな目つきになり、私の後に立つ上官を見た。
「ふむ。彼女に休暇を取らせられるかね。」
「承知いたしました。休暇はどれほどにしましょうか?」
モニカが可愛らしい声で、主張する。
「私とのお茶は必ずしてほしいわ!私は明日から数日は、領地の仕事があるし…1週間は欲しい所ね!」
「ベネット公爵令嬢は、領地経営も長けていらっしゃると、ベネット公爵から聞き及んでおります。お忙しいでしょうし、ガルシア軍曹と予定を合わせるとなると…休暇は10日でいかがかな?」
アイゼン中将は、穏やかな笑みを浮かべながら再度上官を見た。
「はっ。承知いたしました。」
私は木の実のケーキから思考をこちらに戻した。
10日の休暇…
明後日から、野営訓練だったな。という事は、訓練期間が少し短くなる!それは結構嬉しいかもしれない…!
モニカが怒りを収めた事で、今回の件は事なきを得た。
話し合いが終わると、モニカは、早く領地の仕事を終わらせて私とお茶がしたいからと、足早に家に帰って行った。
モニカは本当に、優しく、綺麗で、かわいい人だ。彼女のおかげで、どれ程私の心が救われているか、私が死んでも彼女が知る事はないのだろうな。
モニカが帰ると、アイゼン中将が話しかけてきた。
「今回は、穏便に収めてもらった事、感謝する。」
「とんでもございません。自分の落ち度であった事です。」
敬礼をして答える私を、アイゼン中将は、またもや困った様な表情で見てくる。なぜだろう…
「褒賞として願い出る…訳にはいかんよなぁ……あぁ、それならあの件の方を願い出ればもしくは………」
「閣下…?」
何やらブツブツ独り言を言い出したが、何の事なのか全く分からない…
「いや、失礼した。それでは私はこれで。ではまた、ガルシア軍曹。」
「はっ。」
また……?良く分からない人だな。それに私はもう会いたくはないけど…面倒事はごめんだ。
「何とか、事なきを得たな…結構ひやひやしたぞ。」
上官が、フーッとため息をつく。
「ご心配をおかけしました、リー中尉。私もこれ以上モニカを怒らせたらと思うと、ひやひやしましたよ。」
「そっちじゃねぇよ、お前。あのままアイゼン大尉が降格なんて事になってみろ!後であの人に何をされるか分かったもんじゃねぇぞ!」
「アイゼン大尉にですか?」
「そうだ!俺たちは折角ここまで生き残って……俺は中尉、お前は軍曹にまでなったってのに…左遷じゃ済まなかったかもな…」
「左遷じゃ済まないって…確かに大尉に呼び出された時は殺されるかと思いましたが…勘違いと分かってからは、そんな恐い人じゃないですよ。謝罪…みたいな事もされましたし。」
「このバカ!お前は何にも分かってねぇんだ。昨日だって、捕虜をまるで物みたいに───。とにかく、お偉いさん方は、腹の中じゃ何考えてるか分かんねえもんだ。優しそうだからって、気を許すんじゃねぇぞ。」
確かに、何を考えてるのか分からないという点では、ある意味恐さを感じる。急にジゼルと呼ぼうとしてきたり…兄の妹だと分かったからって、いきなり距離を詰めて来すぎて恐い、というか、失礼を承知で言うが気持ち悪い…
「分かりました、中尉。あ、そういえば〜」
「ん?何だ。」
いきなりニヤけて顔を覗き込む私を、鬱陶しそうにリー中尉は払い除ける。
「私は明日から休暇ですよね〜、そして明後日からは野営訓練ですよね〜、という事はぁ〜」
「野営訓練はお前の休暇が明けてからに延期だ。」
「えーっ!えーっ!先に始めてもらって問題ないのにぃーっ!!」
「バカが。野営訓練に出た者と出なかった者では、生存率が違う。少しでも多く訓練した方が良いんだ。お前のためだ。ジル。」
「ちぇーっ。」
「上官に向かって何だそれは。口を尖らすな口を。全くお前は新兵の時から成長してない…」
「中尉、私は肋骨にひびが入ってるんですよー!あーいたたたぁ〜!」
「……あの人にやられたのか…」
「痛いなー…心も痛い…」
「10日でくっ付けろ。」
「ううう…骨に響く…」
「………。あぁ、そうだ、休暇に入るなら休暇申請書を書いていけ。ちょうど執務室の前にいる事だしな。終わったら、帰っていいぞ。」
「はーい。」
私とリー中尉は再び執務室に入った。
「10日の休暇か。呼び出しもないだろうし。羨ましいな。」
リー中尉は机に向かい、休暇申請書にペンを走らせながら呟く。
「へへへ。いいでしょ〜」
リー中尉と2人きりなので、私はソファーに寝そべって、足を投げ出しながら自慢した。
リー中尉は、私が軍に入った時からの上官だ。私以外に対しても、面倒見が良く、部下に慕われている。話しやすく、軍の中で冗談も言える、数少ない存在だ。
「中尉、仕事終わり暇ならご飯でも食べに行きましょうよー。暇でしょ、中尉どうせ恋人もいないし。私がデートしてあげますよ!」
「うるせーよ。お前は肋骨をくっ付けるんじゃなかったのか?家で大人しく寝てろ。」
「えー。どうせ野営訓練延期だし…大人しくする意味ないじゃん。モニカもお茶の日以外は忙しそうだし。」
「領地経営に、慈善活動か…ベネット公爵令嬢には頭がさがるな…」
「そうでしょ?中尉位なんですよ、暇人なのは。ねーねー、行きましょうよー。美味しいものでも食べないと、ストレスで死んじゃう〜、肋骨も痛いし死んじゃう〜。野営訓練もヤダヤダ。」
ソファーで足をブンブンばたつかせながら訴える。本当に肋骨はかなり痛いのだ。
「全くお前は…野営訓練は絶対延期だ。美味いものは今日早く上がれたら連れてってやる。オーウェンも確か今日軍に来てたな、誘うか……ほら、書類出来たぞ。あとはここにサインし………ろ……」
机から顔を上げたリー中尉は、ドアの方を見て固まった。顔が青ざめている。
「中尉…?」
ドアの方を見ると、形容し難い表情で立つ、アイゼン大尉の姿があった。
怒っている。おそらく、このだらしの無い、お茶の間感溢れる会話に怒っているのだ。
「アイゼン大尉……」
あまりの殺気に私もリー中尉も敬礼が取れなかった。だらしがないのは分かるけど、殺される程の事では無いと思う…
「……リー中尉、話がある。」
アイゼン大尉はツカツカと入って来て、執務室の机に、何やら装飾の施された豪華な表紙の書類を、バンッ!と叩きつけた。
「ひぇっ………」
私と中尉の蚊の鳴くような悲鳴が重なる。
「悪い話ではない。」
リー中尉はもはや死んだ様な顔になっている。絶対悪い話だろ、この雰囲気は。どうやったら良い方向にもっていけるというのだ…私はドサッとソファーから落ちた。
ソファーから落ちた私に、リー中尉は、サインは良いから席を外せ!と死んだ顔で目配せしてくる。長年の付き合いで、この位は声が出せなくても意思疎通できる。
すると、アイゼン大尉は私の方を振り返って、こちらに歩いてきた。
「ひっ……」
「ジル…!」
アイゼン大尉の後ろに見えるリー中尉が、逃げろー!と口パクで言っている。戦場か、ここは……
私は退室しようと思ったが、腰が抜けてしまい上手く立てない。尻もちを付いた格好で、後ろにズリズリと後ずさる。
アイゼン大尉は、私の前まで来ると、私の両脇に手を入れ、大人が子どもを抱える様にひょいっと持ち上げた。
そしてそのまま私を抱えて執務室の外に出た。投げ出されるかと思ったが、予想に反してドアの外で優しくそっと下ろされる。その後、アイゼン大尉は怒りに溢れる低い声で告げた。
「生憎だが、リー中尉は当分の間残業で早くは帰れない。何か食べたい物があるなら、後日俺が連れて行く。あと、人前で足を投げ出すな。」
私は恐怖で表情筋が強張って、上手く返事が出来ない。何を言われているのかも、頭に入って来ない。
「ジゼル、返事は?」
紺色の目を細めながら、アイゼン大尉が顔を近づけて返事を強要する。
「は…い……」
私のほぼ聞こえなかったと思われる返事を確認すると、納得した様にアイゼン大尉はバタンと執務室の中に消えて行った。
ポジティブに考えれば、残業出来るという事は、執務室の中で殺される事は無い、という事ではなかろうか…
私はリー中尉の武運を祈って、家路についた。




