3.振り向けばポンコツ
「……………は…⁈」
書斎は、夜が深まるとともに、月明かりが一層差し込み、輝きを増している。
ジョセフ・アイゼンの間の抜けた声だけが、書斎に響いた。
「ガルシア家のジゼル嬢…⁈ガルシア軍曹の事か⁈」
「そうです。」
「はぁ………⁈お、お前達は恋仲だったのか⁈それなのに暴行を働いたのか⁈」
「いえ、一切恋仲などではありません、父上。」
「……………。」
ジョセフ・アイゼンは、わなわなと口元を震わせながら、目の前に立つ息子を見た。
ノアは兄弟の中でも特に整った容姿をしている。軍人らしく引き締まった体躯は、父親であるジョセフ・アイゼンも、我が子ながら誇らしく思っていた。
しかし、今は月明かりに照らされ、キラキラと輝きながら、やや照れた表情をする息子を、これ程理解出来ないと思った事はない。月明かりに照らされて輝きを増しているせいで、憎たらしさも増してくる。
「お、ま、え、はぁ………さっきの話聞いてた⁈どんな思考回路してるんだっ!!ダメなのっ!!ガルシア家は例え男爵で!部下でも!軽々しく扱えないって言ってるだろっ!だいたいどこに自分を掴み飛ばして、みぞおちを殴って、首を締めた相手と結婚する女がいるんだっ!!何でそうなるんだあぁぁー!」
ジョセフ・アイゼンは見合い写真でテーブルをバンバン叩きながら叫んだ。
「お言葉ですが、父上、」
「お言葉がすぎるんだよ!さっきからお前は!!」
「過去に公爵家であったとしても、現在は男爵、それに父上もガルシア男爵とは懇意にしておられたのなら、何の問題も無いと思いますが。」
ジョセフ・アイゼンは、彼が若かりし頃、前線で勇猛果敢に戦っていた時の殺気溢れる表情で、ノアに向かって見合い写真を投げつけた。
ノアが当然の様にそれをかわすと、見合い写真は書斎のドアにバンッ!とぶつかって床に落ちた。
その後すぐに、騒ぎを心配した長兄のルーカスが、そっとドアを開け顔を出すと、2投目の見合い写真が飛んできて、ルーカスも当然の様にそれをかわし、アイゼン家の騒がしさはクライマックスを迎える。
「父上、ノア…大丈夫ですか?もう夜も遅いですし、あまり騒がれると子ども達も起きてしまいますから。」
ジョセフ・アイゼンはやや落ち着きを取り戻して、長男を見た。
「いや、すまないな。」
「ノア、お前も今日中に軍に戻らないといけないんだろう?事情は分からないが、あまり父上を困らせるな。」
「困らせてなどいませんよ、兄上。」
ジョセフ・アイゼンが歯ぎしりしながら投げてきた見合い写真を、ノアは今度は避ける事なくパシッと左手で受け止め、中の写真を見た。
見合い写真の令嬢達は、夫が家に帰らなくとも文句は言わないと父親は説明していたが、投げられた見合い写真に映る令嬢はそんな風には見えず、可愛らしく、家庭的な微笑みをこちらに見せている。
「こちらの令嬢は?」
「あ?……それはハリス子爵家の令嬢だな。」
「良いですね。こちらの令嬢と縁談を進めさせて下さい。」
「何っ!ノア、やっと分かってくれたのか⁈」
「いえ、私では無く、部下に紹介するのにちょうど良いなと思いまして。」
ノア自身がこの見合い写真の令嬢達に、1秒たりとも興味を惹かれることはないのである。
ジョセフ・アイゼンは今度こそテーブルに両手を付き、がっくりと頭を垂れた。完敗だ…
ルーカスは、にやけた顔で、くれぐれも子ども達を起こさないでやって下さいね、というと書斎のドアをパタンと閉めた。
「お前は…何故…何故なんだ…そうだ、理由は⁈理由はなんだ⁈なぜ彼女にこだわるのだ⁈」
頭を掻きむしりながら、ジョセフ・アイゼンは息子、というより神にすがる様に問いただした。
「…………」
「何で無言になるんだっ!何か言えこの愚息が!!」
ジョセフ・アイゼンはもはや精根尽き果て、力無くソファーに項垂れた。
「お前はガルシア男爵の息子、テオドールと仲が良かったな…彼女がテオドールの妹だからか?それとも、軍の広告塔である彼女との婚姻が、アイゼン家にとって利益になると考えているのか?もし後者が理由なら、要らぬ気遣いだと断言しておく。彼女である必要は無い。」
「…………」
「……何か言え……」
ノアは、感情の読み取れない、けれども確かに何かを想っている表情で答えた。
「……文句を…言われたいのです。」
「は?文句?」
「もし私がほとんど家に帰らず、不甲斐無く異国の地で戦死していたり、夫の務めを果たさない様なら……彼女には文句を言われたい。そう思えるのです。」
ジョセフ・アイゼンは、もう何度目か分からない、信じられない、という顔で息子を見た。しかし今回は、ただアイゼン家に生まれたというだけの理由で、軍人になる以外の選択肢を与えなかった、息子に対する負い目も感じていた。それが仮に息子にとって天職だとしても。
そしてほんの数分思案した後、確かに我が子として愛している息子に向かって口を開いた。
「貴族同士の婚姻は、基本的には家同士の合意によるものだ。アイゼン家がお前とガルシア軍曹の婚姻を申し出た場合、お前は彼女に暴行を働いている。喜んで受け入れてはもらえないだろうが、恐らく向こうが婚姻に応じるだろうという手が、無い訳ではない。」
ノアはただ静かに父親の言葉を聞いていた。
「ガルシア家は、王命により、代々嫡男を強制的に軍人にさせられている。わがアイゼン家も、軍人である事に重きを置き、男児は基本的に皆軍人だが、強制的に軍に取られるのとでは天地程の差が、そこにはある。」
「ノア、お前は三男であるな。家督は既にルーカスが継いでいる。」
「はい。」
「対してガルシア家は、実質ガルシア軍曹が入軍した時に、彼女が家督を継いだ様なものだ。もし、お前とガルシア軍曹が婚姻を結ぶとなると、お前がガルシア家の婿養子となるのが妥当な線だ。」
「私はどの様な形でも構いません。」
「しかし、このままガルシア家の婿養子となれば、お前と彼女の子どもは強制的に軍に取られるぞ。例えそれが、女児であろうとも…」
ジョセフ・アイゼンは、息子に向かって悲しげに事実を述べた。
「こども…彼女との…こども…」
ノアは父親の言葉を聞いて、何やらびっくりした様に呟いている。
「ノア?聞いているのか?…とにかく、私も自分の孫がその様な事になるのは辛いところだ。そこで、お前がガルシア家の婿養子になる事を理由に、現国王に、ガルシア家に対する王命を撤廃する様求めるのだ。国王も、代々軍において重要な位置を占めているアイゼン家の申し出となれば、恐らく認める可能性が高い。それに、仮に認められなかったとしても、既に婚姻は結んだ後だろう。」
ジョセフ・アイゼンはやや悲しげに言葉を続けた。
「どちらにせよ、お前の目的は達成される。」
「だが、ノア…お前は本当にそれでいいのか?」
ジョセフ・アイゼンは、今度は息子を憐れむ様に問いかけた。
「どういう意味です?」
「彼女が、ガルシア家に対する王命を撤廃することを目的にお前との婚姻に応じる。それで本当に良いのか?と聞いているんだ。」
「それの何が問題なのですか。」
本当に、全く何も問題に感じていない息子に、ジョセフ・アイゼンはもう良い、と言い捨て言葉を続けた。
「それで良いなら、近いうちにお前とガルシア軍曹の婚姻を申し出に、ガルシア家に行って来よう。」
「ありがとうございます、父上。」
ノアの声色は、もう自分達の結婚が決定事項になったと言わんばかりに晴れやかなものだった。
「全くお前は…仕事以外は二等兵以下だな…」
ジョセフ・アイゼンは目の前の息子を幼い頃から軍に入れ、人…特に好意を寄せる相手の心を慮る、という事を教えなかった事を後悔した。そのせいで、これ程息子との意思疎通が難航を極めようとは…
「父上、私が二等兵以下とはどの点においてですか?仕事にも差支えるかもしれませんし、至らない部分は速やかに改善したいと思いますので、是非お教えいただき───」
「あーっ!もう良いもう良い!私の勘違いだ!お前は立派な大尉だよ。まぁ、中尉に降格するかもしれんが。」
真面目に聞き返す息子に、ジョセフ・アイゼンはもう行け、と退室を促した。
ノアは、失礼します、と書斎を後にしようとしたところで、父親を振り向いて言った。
「父上、」
「何だ。まだ何かあるのか。」
「私は出来るだけ早く彼女と結婚したいのです。式なども、簡素なもので構いませんし…この件は早めに手続きをお願いします。」
「もう振り向くなお前はっ!さっさと行け!このポンコツがっ!」
ジョセフ・アイゼンはシッシッ!とポンコツを追い払った。
やっと息子が書斎を出て行った後、ジョセフ・アイゼンにはもはやソファーから立ち上がる気力さえ残っていなかった。
一方ノアは書斎を出た後、それはそれは晴れやかな顔をしていた。戦地での任務を無事終えた時の様な、希望に満ちた顔である。父親を自分の都合で窮地に追いやっている等とは、微塵も感じていない。
そして軍に戻る前に、厨房に寄った。
「ノア坊っちゃん、お帰りなさい。お父上とのお話は終わりました?ケーキはご準備できておりますよ。」
恰幅の良いコックが、厨房で迎えてくれる。コックは、かわいい親戚の子どもを見るような眼差しで、ノアに微笑んだ。
「ふふ。お話がなかなか終わりそうになかったんでねぇ、さっきもう1回焼いた所なんですよ。こっちを持っていって下さいね。出来立てですよ。」
コックは、小ぶりな琺瑯の容器をノアに手渡した。
「ありがとう。」
「久しぶりですねぇ。このケーキを焼くのも。以前は坊ちゃんに頼まれて、良く焼いてましたが。もう何年振りですかね…」
コックが少し悲しげに言う。
「8年振りだ。」
「もうそんなになりますか…時が経つのは早いもんだ。」
「そうだな…でも、これからまたちょくちょく焼いてもらうと思う。」
コックはそれを聞いて、ややびっくりした顔をした。そうだろう、8年前、もうこのケーキを焼いてもらう必要はないと告げたのだ。
「テディの…妹に…再会した。明日渡そうと思う。」
「そうでしたか…」
コックは少し涙ぐんでいる。
「それなら私も作りがいがありますよ。そうだ、ルーカス坊ちゃんの子どもたちにも、今度からおやつにこのケーキを出しましょうかね。」
「そうしてくれ。テディの妹とは近いうちに結婚する。連れて来るよ。」
「えっ……⁈」
コックは、脈絡のない唐突な言葉にポカンとした。
「じゃあ、また。」
「え…あ、はいはい。ノア坊ちゃんお気をつけて。……え……⁈結婚?誰が?」
コックは理解が追いつかず、祝いの言葉も言えなかった。
ノアがアイゼン家を出た後、父親から事の顛末を聞いた長兄のルーカスは笑い転げた。あまりに笑い続けたため、父親から全てが無駄となった見合い写真の角で頭を叩かれた。
それでもルーカスの笑いは止まらず、彼の笑い声で子どもたちは夜中に目を覚ましてしまった。