1.恋にポンコツ
ジルベール・ガルシアが、アイゼン中将に呼ばれた日の前の晩、ノア・アイゼンは自分の執務室にいた。
「ウィリアム・リー中尉であります。」
「入れ。」
「失礼します、大尉。ピオージャー前線での捕虜の解放交渉についてご報告です。」
部下が敬礼をして机の前に立つ。
「話せ。」
「はっ。現時点で、隣国からこちらの捕虜解放要求に回答はございません。」
「そうか。」
「いかがいたしますか、大尉。」
「宣言通り、明日、こちらが捉えている兵長以下の捕虜は全員処分しろ。下士官以上は、今後の交渉、もしくはこちらの作戦に使える可能性がある、まだ生かしておけ。」
「はっ。」
事務的にそう告げると、ノア・アイゼンは机の上に広げた書類を片付け始めた。
「大尉、本日はもう兵舎にお戻りですか?」
ここの軍事基地には、士官学校とその寮の他に兵舎もあり、実家から通わず兵舎で暮らす者も多い。兵舎は数十人単位の相部屋となっているが、下士官からは数名での相部屋、将校以上は私室が与えられる。ノア・アイゼンは兵舎の私室で生活をしていた。
また、普段実家から通っている者でも、訓練時に兵舎を利用し寝泊まりする事も出来る。
ノア・アイゼンは、部下の質問に珍しく回答が遅れた。彼の頭の中は「兵舎」という言葉に反応して雑念が駆け巡ってしまったのである。
ノア・アイゼンはジルベール・ガルシアについて、自分の権限を濫用し、得る事の出来る彼女の個人情報を片っ端から収集する、というほぼストーカー同然に見える行為を、軍務と並行してせっせと行っていた。その活動で得られた情報の中で、彼女は偵察班が行う野営訓練や夜間訓練の際は、兵舎を利用していることが分かったのだが、彼女の階級は軍曹、下士官である。つまり、数名での相部屋だ。実際に、他の下士官達と相部屋を使用している記録がある。
彼女が他の下士官達と相部屋を利用している…と言う事を考えると、よく分からないがモヤモヤして思考が鈍ってしまうのだ。ノア・アイゼンはそう言った時、どうすれば良いか分からず、無言になってしまうのだった。
「………」
「大尉?」
「いや、すまない。本日は所用があり、実家に帰宅する。明日の朝までにはこちらに戻ってくるつもりだ。何かあれば明日の朝また報告する様に。下がって良い。」
「はっ。失礼いたします。」
部下が部屋を後にすると、ノア・アイゼンも直ぐに実家に帰る支度をし、執務室を後にした。
明日は彼女が出勤して来るとの情報を得た。彼女に怪我をさせた事を謝罪したいと思い、そのために実家に帰る事にしたのだ。ついでに父親に至急帰って来る様に、と言われていたので今夜会わねばならない。
そうだ、どうせ父親に会うなら彼女の事を話すか…
こういう事は早い方が良いだろう。
ノア・アイゼンは、軍人の家系に生まれたため、幼い頃より入軍し、その人生の大半を軍の中で過ごしてきた。
加えて、本人の性格上、私生活で他者に興味を向ける事があまり無かったため、仕事とプライベートの線引きが自分でも曖昧で良く分かっていなかった。
そのために公私混同しているという自覚がなく、権力を濫用してしまっている事について、何の罪悪感も湧いていないのであった。
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「おい、起きろ。誰が気絶して良いと言った。」
ノア・アイゼンは机の角に頭をぶつけ、血を流して気絶した部下の襟元を左手で掴んだ。片手で易々と持ち上げると、右手で遠慮せず溝落ちを殴り上げた。
「……ッ…カッハッ───」
ジルベール・ガルシアは衝撃で意識を取り戻した。口元からは唾液混じりの血が垂れている。
「お前の言い分を聞くつもりは無い。」
ノアはそう言い放つと、左手でジルベールを持ち上げたまま、首を締め上げた。
ジルベールの顔が苦痛で歪む。その両目はしっかりと自分を締め上げる男の顔を見ていた。
その目には驚きも恐怖も無い。ただ強く、底の深い憎しみが宿っている。敵兵がこちらを見る時の目だと、ノアは思った。
程なくして憎しみを宿す目から光が消え、目蓋がゆっくり閉じると同時に、補佐官が部屋に戻って来た。
普段、寡黙で冷静な彼は、戻るなり、目の前の惨状に息を呑み、自分の上官に掴みかかった。そして大声で人を呼んだ。
「だ、誰かーっ!誰か来てくれーっ!あんた!いくら上官でもやって良い事と悪い事があるだろ!!」
「内通者を締め上げる事はやってはいけない事なのか?」
補佐官は冷える様な目で睨みつけられても、自分の主張を曲げる事は無かった。
「さっきから内通者内通者って…それはあんたが勝手に決めつけてるだけだろっ!彼女を殺す気かっ⁈」
「彼女…?」
「それにあんた、テオドール殿の友人じゃなかったのか⁈あんたに妹まで殺されたら、テオドール殿も浮かばれないだろうが!!」
「テオドール…妹…何を言っている…」
「早く彼女を離せっ!本当に死んでしまうぞ!!」
ノアは左手で締め上げている部下を見上げた。
一つに束ねられていた銀色の髪は投げ飛ばされた衝撃で解け、所々血が付いている。締め上げられて青白くなった顔、閉じられた目蓋を縁取る長いまつ毛、確か瞳はテオドールと同じ水色だった。
そう言われれば、顔付きもテオドールに…過去に見た事のある、テオドールの父親、ガルシア男爵に似ている。ガルシア男爵も、確か銀色の髪に水色の瞳だった。
そして軍人らしく鍛えられてはいる様だが、明らかに筋肉のつき方が男性的ではない。
冷静になれば、どう見ても女性だ。
テオドールの妹…
会った事は無かったが、王命により、徴兵され、従軍している事は知っていた。テディが、生前よく話していた…落ち着いてから、一度会いたいとは考えていたが…
だがしかし…この様な名前だったか?
ノアは茫然として左手を緩めた。崩れ落ちる彼女を補佐官が抱き止めた所で、騒ぎを聞きつけた者達が部屋になだれ込んで来る。
彼女の細い首には、締められた手跡がくっきりと付いている。暴行を受けた事は疑い様が無かった。
補佐官の指示で速やかに応急処置が施され、ノアはされるがまま、他の軍人に両腕を取り押さえられていた。
「早く彼女を医務室に…君は確か、ガルシア軍曹の同窓の…」
「オーウェン・ミラー伍長です、補佐官殿。」
「ちょうど良かった、彼女を至急医務室に。」
「承知しました。」
補佐官に指名された男は、全く何したんだお前は…飲み会どころじゃねぇぞ…等呟きながら、まるで土嚢でも担ぐ様に、ひょいと彼女を左肩に担いだ。
ノアは、彼女を認識した瞬間、自分の気持ちが、スッとどこかに落ちていき、見える世界が変わった様な気さえした。
そして彼は、仕事以外に置いては、非常に残念な思考回路の持ち主だったため、自分が医務室送りにした彼女を見て、守ってやりたい、等と考える始末だった。
ノアは、土嚢の様に担がれて行く彼女を見て、声を荒げる。
「貴様、彼女は怪我人だぞ!もっと丁重に運べ!」
「はっ。失礼しました、大尉。」
オーウェン・ミラーが彼女を肩から下ろし、両腕で抱え直した。
「どの口が言ってるんだ!!」
その場に居合わせた全員が、ノアに対して思った事を、補佐官がすぐさま叫び、掴みかかった。止める者はいない。ジルベールが医務室に運ばれた後、ノアは直ぐに上官に呼び出された。
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ノア・アイゼンは、恋愛事に対して、ポンコツの極みであった。
ジルベール・ガルシアの事について、なぜ職権濫用までして軍務の合間に情報収集をしているのか…もはや情報収集せずにはいられなくなってしまっているのだが、自分でも説明が出来ない。
ウィリアム・リー中尉は、彼女の偵察班の上官で、彼女が入軍した時から、良く面倒を見ている様だった。調べた所なかなか有能な男だったため、先日から第一師団の、自分の連絡係を兼務させる事にしたのだ。
というのは建前で、本来の目的は、より彼女の情報を得るためなのだが、ポンコツ本人は、なぜ自分がそうしてしまうのか、理解できていない。
さらに、何故だか分からないが、ウィリアム・リー中尉が自分とあまり変わらない年齢で、かつ独身である、ということが無性に引っかかっている。今度遠縁の貴族令嬢でも紹介して、結婚させておくか…
ポンコツは実家へ向かいながら、非常に名案だと考えていた。
もちろん職権濫用に当たるが、先程隣国の捕虜を処分する様言いつけた時の様に、ポンコツには何の罪悪感も無かった。
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