92.マザーコンプレックス
「このクソガキが。ジゼルに近づきやがって………ジョセフ、お前の家は息子が3人居るのだったか?それなら1人位居なくなっても構わないよな?」
軍の玄関ロビー。鬼の形相で、フレイヤはノアの襟首を掴み、締め上げていた。
「いや……確かに3人居るが……フレイヤ殿、どうか怒りを収めて頂けないだろうか……いや、もうむしろ、この機にノアは潔く殉じた方が良いのか──」
「閣下っ!貴方、ご子息をそんな簡単に見捨てないで下さいよっ!」
フレイヤに詰め寄られ、頭を抱えたジョセフに、彼の補佐官が慌てて諭した。
「二度とジゼルの視界に入るなよ屑が。」
フレイヤはノアを締め上げる手に力を入れた。ノアは抵抗せず大人しくしているが、流石に苦痛で顔を歪めた。
「フレイヤ殿っ────」
「義母上っ!止めて下さいっ!さっきから、こんなにお願いしてるのに………」
ノアを締め上げるフレイヤの右手をジルベールが掴み、訴えると、フレイヤはハッとして娘の顔を見た。
「少佐を降ろしてっ!」
「ジゼル………」
「早くっ!」
ジルベールの訴えに、納得の行かない顔をしながらも、フレイヤは手を緩め、ノアを床に解放した。
────ドサッ────
「……グ……ゲホッ……」
「大丈夫ですか⁈少佐……」
「……あぁ、心配無い。」
ジルベールはすぐさま、床の上に、雑に落とされたノアに駆け寄った。
「ジゼル…貴女どうしてそいつの心配をするの……?上官だからって、遠慮する必要は無いのよ?」
自分を医務室送りにした男の顔を、心配そうに覗き込み体調を気遣う愛娘に、フレイヤは怪訝な顔をした。
「義母上……上官だから…と言う訳では無いのですが……いえ、アイゼン少佐が上官なのはそうなのですけれど───」
「貴女を医務室送りにしたのは、こいつなんでしょう?」
「義母上、その件は、直接謝罪を頂きましたし、先日家にアイゼン中将閣下と、侯爵夫人がわざわざお越しになったと、父上から聞きました。義母上は、ご不在だった様で…お帰りになったら、父上から話す予定だったのでしょう。そもそも、下士官の私に、そこまでして頂く義理は、本来ありません。私は軍人です。もう、済んだ事なのです。」
「私も謝罪に伺うべきですが…遅くなり申し訳ありません。後日、必ずお伺いします、義母上。」
「だから、なんであんたにまで母上呼ばわりされなきゃいけないのよっ!」
「ノア、いい加減に止めないか。まだガルシア家には何の話も───」
フレイヤ、ジョセフ、ジルベール、ノアが内輪揉めを始めたため、他の兵達は4人を残し、そっとその場を去り出した。
「とにかくっ!義母上、私は大丈夫ですから。その件で、軍に来られたのですか⁈」
「いや…今日は別件の用事だったんだけどね。ジゼル、貴女こそ、その格好……広報部の仕事?それで、ノアと一緒に居るの?」
フレイヤは娘を心配し、不安な眼差しを向けている。
「フレイヤ殿、用事ではなくて、文句では──」
「黙れよ、ジョセフ。塵にするぞ。ジゼルの前で言うな。」─ひそ…─
ジョセフが小声で呟き、フレイヤはジルベールを優しく見つめたまま、言い返した。
「仕事ではないのですが……市場で開かれている、祭典に行くのです。」
「祭典?広報部の仕事じゃないのなら、私と行きましょう、ジゼル。久しぶりに、2人で出掛けたいわ。」
フレイヤはジルベールの答えを聞くと、ジルベールに向かってにっこりと微笑み、残った兵達は、これでやっとフレイヤが去ると安堵した。しかし──
「義母上、大変申し訳ありませんが、本日彼女は、私と祭典へ出掛けますので…心苦しいのですが、ご遠慮願います。」
「はぁっ⁈」
ノアの不躾な言葉に、フレイヤは再度怒り出し、ジョセフとその場に残った者達は、頭を抱えた。
「このクソガキ……遠慮しろだなんて、どういう了見よっ!暴行を加えた相手と、出掛ける許可を出す親が、どこに居るのよっ!!」
フレイヤはノアに向かってぶんぶんと拳を振り回し、ノアは無言でそれを交わした。
「義母上、お言葉ですが…確かに、私は彼女を医務室送りにしてしまいました。それは事実です。しかし、現在彼女とは、寝室を共にする間柄です。彼女と祭典に出掛ける事に、何の問題もありません。」
「なっ………………」
ノアは、床に落とされた自分に直ぐに駆け寄ってくれ、隣にしゃがみ込むジルベールをそっと抱き寄せた。
そして、無表情で淡々と告げるノアに、フレイヤは目を見開き絶句し、ジョセフは固まった。ジルベールは、顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
「い………いやいや!怖い怖いっ!なんなのこいつ!」─ぞぉっ─
フレイヤは青ざめると、慌ててジルベールをノアから取り返し、抱き寄せた。
「本当もう……ジョセフッ!なんなのノアは…もはや怖いわ!人の親としてっ!………あんたねぇ………これ以上うちの娘に近づいたら……警察に駆け込むからなっ!正式な手続きを以て、公的な機関に相談してやるっ!」
「ノア……フレイヤ殿に、こうまで言わせるとは……とにかく早く謝りなさい。お前と彼女の件は、なんだか絶望的だ。」
「父上、そんな…私はただ彼女と───」
「ジゼル、怖かったわね。でも、もう大丈夫よ。あの、上官のふりした変質者は、警察に捕まえてもらいましょうね。」
「ノアッ!お前、アイゼン家で一体どこまで───」
「父上達に、いつも邪魔されましたから。最後まではしていませんよ。」─イラッ─
「お前……本当に、家の貴族教育を受けたのか⁈正式な婚姻を済ませるまでは、相手と深い仲になってはならないと、習わなかったのか⁈さぼったりしたのでは───」
「チッ……父上が、なかなか先方に赴いて下さらないからでしょう?このまま待たされては、私は先に戦死してしまう可能性も……そんな事になってたまるかっ!」
「あんた達、何をごちゃごちゃと───」
「あの……義母上、」
ジルベールが、言い合いに口を挟んだ。
「私……今日の祭典は楽しみにしていて……本当なんです。だから、行きたくて……その……アイゼン少佐と……」
「ジゼル、貴女───」
ジルベールは上目遣いに、義母親の顔を覗き込んだ。
「初めてね、ジゼル。貴女からそう言うなんて……」
「義母上、私───」
ジルベールが何か言いかけた瞬間、ノアは、さっとフレイヤからジルベールを取り返した。
「あっ!この変質者がっ!まだ、うちの娘と出掛ける事を、許してはないんだからねっ!」
フレイヤも、ジルベールを取り返そうとし、ジルベールの左腕を掴んだ。ノアも、ジルベールの右腕を掴んだまま離さない。
───ぎゅううぅぅっ───
「うわあぁっ!痛い痛いっ!腕がちぎれるーっ!」
フレイヤとノアから、左右の腕を引っ張られ、ジルベールは悲鳴を上げた。
「ジゼル………」
娘の悲鳴を聞いて、フレイヤはすぐに手を離した。一方ノアは、フレイヤが手を離した瞬間、ジルベールを強く掴んだまま、自分の方へ引き寄せた。そして、フレイヤに取り返されない様、自分の背後に隠した。
「この……本当なんなのあんたは…………」
フレイヤは生まれて初めて、生身の人間に対し純粋な恐怖を覚えた。
「フレイヤ殿、愚息が本当に申し訳無い……」
ジョセフの謝罪を聞いて、フレイヤは大きくため息をついた。
「ジゼル……貴女、本当に自分の意思で変質者と出掛けたいのね?嘘ではないのね?」
そして、ノアの背に隠され、心配そうにチラッとこちらを見ている娘に向かって問いかけた。
「はい。」
ジルベールが、小さく、しかしはっきり言い切ると、フレイヤは諦めた様に頷いた。
「義母上、それはそうと、本日はどうして軍へ?彼女に会いにいらした訳では無さそうですが。」
ジルベールの返事を聞き終え、ノアは上機嫌で質問をした。
「…………もう、あんたからの呼ばれ方を訂正する気力も、こんな所へ来た理由を説明する気力も、無くなったわ。」
「ノア、これだ。これが出された理由を聞きに、フレイヤ殿は来られたのだ。」
ノアとのやり取りに疲れ果てたフレイヤに代わり、ジョセフが、リソー国軍が誤って出してしまったフレイヤ個人宛の依頼書を、ノアに差し出した。
「ノア、お前も把握はしているだろう?フレイヤ殿個人宛に、リソー軍から依頼書は出さない約束だと。」
「……公にはしていませんが。確かに、内々ではそうだと聞いています。」
「これを出した担当者の手違いでな。リソー軍が悪い。フレイヤ殿が、怒るのは最もだ。」
ノアは、差し出された依頼書を手に取り、じっとそれを見た。そして、依頼書からフレイヤに視線を移すと、口を開いた。
「義母上。お怒りになるのは最もですが……この依頼、受けては頂けませんか?」
「なっ……………」
ノアの発言に、一同絶句し、フレイヤはノアを見返したまま固まった。そして、無言のままノアに近づくと、再びノアの襟首を掴み引き寄せた。
「クソガキ、あんたはねぇ……ジゼルが一緒に出掛けたいっていうから、無事で居られるんだ。なんであの子は、あんたを庇うのか分からないけど……とにかく。殺すぞ、クソ野郎。」
「ノアッ!お前理解していないのか⁈フレイヤ殿とうちの軍は───」
「それは、理解しています。ですが……ジゼルの為に、検討頂きたいのです。」
「……どういう意味だ。」
ノアは、大人しく襟首を掴まれたまま、言葉を続けた。
「我々の軍は……前線に投入出来る兵の数が、不足しています。兵の育成は、喫緊の課題なのです。」
「馬鹿な国が、良く陥る状況だ。今まで、幾度も見てきた。他の傭兵に、頼めば良いだろ?金さえ出せば、済む話だ。どうして娘の為になる?」
「貴女クラスの傭兵と、他では訳が違います……単純に、前線に投入出来る兵が不足すれば、専門外の兵も、前線投入せざるを得なくなる。」
「………チッ……本当に腐った国だな。」
ノアの主張をすぐに理解したフレイヤは、舌打ちし、顔をしかめた。
「ジゼルは、優秀な偵察兵です。彼女を安易に失う事は軍に取って、損失だ。ですが、必ずしも前線投入されない、とは言い切れない。むしろ、間接的に前線での軍務をこなしている分、このまま兵の数が不足すれば───」
「やめろノアっ!これ以上フレイヤ殿を脅す様な言い方をするなっ!」
ジョセフが怒鳴ると同時に、フレイヤはノアの襟首を離した。
「報酬は?」
「フレイヤ殿───」
フレイヤは静かに、ノアに問いただした。
「まさか、この依頼書の額しか、出せない訳じゃないだろ?」
「言い値で。」
ノアとフレイヤのやり取りに、周りの者は息を飲んだ。まさか、依頼を受けてもらえるとは──しかし、
「駄目ーーーっ!!」─ひしっ─
ジルベールがノアの後から飛び出し、フレイヤに抱き付いた。
「ジゼル、貴女───」
「義母上、どうしてそういう事になるのか、良く分かりませんが……危ない事は止めて下さいっ!義母上は、傭兵である前に、ガルシア家の男爵夫人、淑女なんですよ⁈」
ジルベールは必死に母親に抱き付き、訴えた。
「義母上に何かあれば…メイジーも悲しみます。まだ、幼いのに……軍の依頼を受けるなんて、絶対に止めて下さいっ!」
「そんなに心配してくれて……分かったわ、ジゼル。不安にさせて、ごめんなさいね。」
フレイヤはそっと、娘を抱き返した。
「私の可愛いジゼル。」─ぎゅっ─
「ははうえー。」─ぎゅっ─
「そんな………」
まさかの横槍に、居合わせた者は落胆した。フレイヤとの契約が、白紙に戻ってしまったのだ。だが、フレイヤは、ジルベールを抱きしめたまま、ノアに視線を送った。
「………娘と、軍内で鉢合わせない様、予定を組め。それが条件だ。報酬額は、後でガルシア家から知らせる。」─ひそ─
「承知しました。」─ひそ─
「……義母上、何か言いました?」
「何も言ってないわよ!ジゼル。」
「………?」
「さぁ!貴女の顔も見れた事だし、私は帰るわね。元気そうで、安心したわ、ジゼル。」
「私も会えて嬉しかったです。」
フレイヤは微笑むと、娘の頭を撫でた。
「フレイヤ殿……この度は本当に、心労をかけ、申し訳なかった。ジキルにも、宜しくお伝え願いたい。」
「ジョセフ。あんたの馬鹿息子に、自分の母親が誰かは、教えておけよ?」
「………それは知ってるはずだが……すまないね。」
「義母上、帰りはどうやって帰るのですか?」
「歩いて帰るわよ、ジゼル。良い運動にもなるしね。」
「えぇっ!ダメですよ!危ないですっ!最近は貴族を狙う、物騒な輩も多いって、リー中尉が言ってました!馬車で帰って下さい!メイジーも心配しますから。」
「ジゼル……優しい子ね。」
ジルベールは、ノアに振り返った。
「アイゼン少佐、義母が帰宅するそうなのですが…一人では危ないので…軍の馬車を使わせて頂いても宜しいでしょうか?」
「…………それは構わないが……しかし、危険では無いと───」
「さぁ!馬車はこちらです、フレイヤ殿。ご婦人が1人で帰るのは、心配ですからなぁ!ははは!」
ノアの言葉を遮り、ジョセフはフレイヤを促した。
「……ノア、ジルベールはな……幼少期に無理矢理母親と引き離されたせいで、多少母親に執着気味であると、前にジキルがぼやいていたのを、聞いた覚えがある。本来のフレイヤの強さが、見えていない、とでも言うのか……馬車位いくらでもあるんだ。好きにさせておきなさい。それが平和の為だ。」─ひそ─
「そうだったのですね。承知しました、父上。」─ひそ─
「ありがとうございます、閣下、少佐。さあ!義母上、馬車まで見送ります!」
「まあ、ありがとう、ジゼル!私の可愛い子。」
「えへ。」
「そういえば、ジゼル。一応聞いておくけど、あの変質者と寝室を共になんかしてないのよね?」
「………………」
「ジゼル?」
「義母上、段差がありますよ。足元気を付けて。」
「え?ジゼル?」
フレイヤを乗せた馬車を見送った後、ノアとジルベールも馬車に乗り込み2人で祭典へと向かった。
更新が遅くなり、申し訳ありません。
直近で、更新頻度が遅くなりますが、順次更新していきます。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。