90.消し炭
ジョセフ・アイゼンは、リソー国軍の軍事基地、自身の執務室で机に向かっていた。紫煙草を片手に軍務をこなしながら、落ち着いた表情を見せている。
ここ数日で、一番心が晴れやかだ。
馬鹿な三男が、友人の娘に乱暴を働き、一時は家が取り潰されるかと思った程だが、今朝、2人は仲良くこの軍事基地へ戻って行った。そして、街で行われる祭典に行くらしい。
全く……何の騒ぎだったのだ。過ぎ去ってみれば、ばかばかしい限りだが、この騒ぎで一度、あまりのショックで寝込み、ルーカスがノアに、家への誓いまで使わせる始末だ。今後二度と、こんな馬鹿げた事に、格式高いアイゼン家の誓いが使われない事を、願って止まない。
「やれやれ……しかし、一安心ではあるな……」
───バンッ───
「か……閣下っ!閣下あぁぁっ!」─ドタバタ─
「うわぁっ⁈何だね君っ!ノックもせずに……!」
しかし、一息付いた瞬間、部下がノックも無く執務室に飛び込んで来た。
「前線で、佐官連中が処理出来ない程の事が、あったのかね…?」
飛び込んで来た部下の返答は、意外なものだった。
「はぁっ……はぁっ……前線ではなく、軍事基地の……玄関ロビーで……起こっています……直ちに現場にお越し下さいっ…閣下……!」
「はぁ⁈玄関?」
「でないと……全員消し炭にっ……!」
「はあぁ⁈」
そう叫び、部下は床に泣き崩れた。
──────────
「御託はいいんだよ。本人を出せっ!私はねぇ、偉い奴を出せなんて言わないよ?さっさと本人を出しなっ!そいつを消して、終わりにしてやる。」
「で……ですから……こちらの不手際でっ……!担当者が新人だったのですっ!引き継ぎが上手くいっておらず……大変申し訳ごさいま───」
「うるせぇなぁっ!だからさっさとその担当者を出せよっ!誰か分からないなら、お前ら全員端から消すぞっ!」
「ひっ………うわあぁぁぁ!」
「ちょっとちょっとぉっ!何事かねぇっ!」
「か……閣下っ!」
「アイゼン中将っ!助けて下さいっ!」
部下に連れられ、軍の玄関ロビーに駆けつけると……いや、玄関に駆け付ける前から、軍内は異様な空気に包まれていた。殆ど兵は、玄関から離れ、下級兵は建物の奥に避難している。恐らく、今日居合わせた佐官、将校連中で対応しているのだろう。
前線か?玄関は……
玄関では、1人の人間が、リソー軍の兵を片手で締め上げていた。兵は喉元を、空中で締め上げられ、足をジタバタさせながらもがいている。足元には、既に数人が消し炭となり倒れている。玄関に乗り込んで来た、生き残った兵達は、その人間を取り囲む様に立っているが、どうしたら良いか分からず、正直消し炭になる順番待ちに過ぎないだろう。
その人間とは、実力差がありすぎるのだ。
私も含めて──────
「フレイヤ殿……何の騒ぎですかな、これは。」
「…………ジョセフか。」
こちらを見留めると、彼女は兵を締め上げる左手に力を入れた。兵の首から、ごりっという鈍い音がして兵は動かなくなり、彼女はそれを、床に放り捨てた。私の目を睨みながら。
「久しぶりだなぁ、ジョセフ。そう言えば、ジゼルが世話になったみたいだね、あんたのノアに。」
「おい君、私をここに連れて来たのは失策ではないのかね⁈余計怒っちゃったよ⁈」─ひそ─
「そういえば、ご子息がやらかしてましたね…ですが、本日閣下しかいらっしゃらなかったのですよ!一応ご友人なんでしょ⁈何とかお願いします!この場を収めて下さいっ!」─ひそ─
「リー中尉はどうした?ガルシア家への対応は、彼が適任だろう?」─ひそ─
「リー中尉の中隊は、野営訓練中でしょう⁈急に押し掛けられたんで、中尉とは連絡が付かなかったのですよ!」─ひそ─
「何をひそひそ話してるんだ。」
「ああ、いやいや!こっちの話だよ、フレイヤ殿。」
軍の玄関ロビーに乗り込んでいたのは、私の友人、ジキルの妻。ガルシア男爵夫人であった。
傭兵フレイヤ─────
私は、彼女より強い人間を、未だ見た事が無い。
その強さを表現するなら、例えば天災の様なものだ。人智の及ばない所に、それはある。
「その格好を見ると、仕事帰りですかな?フレイヤ殿。」
右肩に麻袋を担ぎ、背にはベルトに通した太い剣。両手の甲には白い巻布をし、足には革のブーツ。そして、燃え盛る赤毛に、深く黒い瞳。
有名な、「傭兵フレイヤ」の定番スタイルだ。本日、彼女の赤毛は、怒りで燃え盛っている様だが……
「ああ。仕事終わりに、斡旋所に寄ってね。その帰りだよ。」
「それはそれは……どうして軍に?ガルシア軍曹に会いに来られた訳でも無さそうだ。ご存知でしょうが、彼女の中隊は、野営訓練中でして…」
「ジゼルに会いに来た訳じゃない。訓練中に会うのは、ジキルに止められているからね。私は文句を言いに来たんだよ。これを見な。」
そう言うと、彼女は一枚の紙をこちらに差し出した。しかし……文句一つでこの惨状とは……
私が彼女と話しているうちに、手練の回収兵が、消し炭になった同胞を、彼女の足元からそろりそろりと回収し、順番に医務室に送っている。
彼女に差し出された紙は、傭兵の斡旋所に貼られた物だった。
各斡旋所には、依頼主が、傭兵達に向けて出した依頼書が、壁一面に貼られている。傭兵達は、その中から、内容や報酬を見て、受けたい依頼を選び、契約を結ぶのだ。
フレイヤの様に、名の通った傭兵となると、依頼主が、傭兵個人に対して依頼書を出す事が多い。私も斡旋所に行った事があるが、彼女程になると、斡旋所の壁一枚が、彼女個人宛の依頼書で埋め尽くされている場合も少なくなかった。
一度、彼女が傭兵稼業を引退する前も、そして復帰してからも…彼女の実力と人気は衰えないのだ。
「この依頼書…どういうつもりなんだ?」
怒りの元になっている依頼書は、リソー国軍が彼女個人に宛てたものだった。
内容は、リソー国軍新兵の指南役。各国の軍の内情をよく知り、腕の立つ傭兵宛に、この手の依頼が舞い込む事は、珍しくない。
期間は、まず1年。その後お互いの話し合いを持って延長を検討する。契約金は、相場の倍。彼女クラスの傭兵なら、安い位だろう。
だが……金額が、怒りの理由では無い。
「どういうつもりなんだと聞いている。」
「……大変、申し訳無い。フレイヤ殿……」
「申し訳無い…?これで何度目だっ!どうして私が憎たらしいリソー国軍に手を貸さないといけない⁈私宛ての依頼書は絶対に出すなと伝えていたはずだっ!」
そう叫びながら、彼女は依頼書を床に叩き付けた。
「胸糞悪いっ!さっさとこれを書いた奴を出しなっ!!」
「確かに…リソー国軍から、貴女への依頼書は出さない約束だった。」
それは…愛するテオドールとジゼルを、軍に取られた母親に対する──いや、理不尽な王命に喘ぐガルシア家に対する、リソー国軍からの、せめてもの誠意だったはずだ。
「リソー国軍が一方的に悪い。君、どういった経緯でこうなったのかね。確かに、フレイヤ殿には依頼書を出さない約束だったはずだ。」
「出されても、受けないけどね。こんなのが貼ってあると、夢見が悪い。」
「……依頼を出した担当者が、新人だったのです、閣下。引き継ぎが上手くいっておらず──尚且つ、ガルシア家の王命や、ガルシア軍曹とフレイヤ殿の関係も、よく知らない者だそうで。傭兵フレイヤに指南役になってもらえれば、兵が不足している現状を打開出来るのでは、という、まあ……強い傭兵を雇いたい、という基本的な考えから、依頼書を出した様ですね。」
「そうか……理由はどうあれ、リソー国軍に非がある事には変わり無いな。」
「おい、話は付いたか?ジョセフ。」
「………フレイヤ殿、どうすれば、穏便にお帰りいただけるだろうか?」
「だから、担当者を出せと言っているだろう?そいつを殺ったら、すぐに帰るよ。」
「君、その担当者は?」─ひそ─
「机の下で、震えているそうです。まさか、差し出すおつもりで?」─ひそ─
「面倒だから、そうしようかとも思ったが……流石に同情するからなぁ……」─ひそ─
「ジョセフ、代わりにあんたのノアでも構わないよ?」
部下と対応を悩んでいると、彼女は顔を引きつらせながら、代替案を提案してきた。
「閣下……どうしましょう……?」─ちら─
「うーん…………」
やはり……先日ガルシア家に謝罪に赴いた時、フレイヤ殿が不在だったのが、まずかったか。ジキルから、まだ聞いていないのだろう…
いや、しかし、聞いていたとして、許してもらえたかは分からんな。
─ざわ……ざわ……─
「ちょ……ちょっと閣下!あれっ!」
「あ?なんだ、こんな時に……」
フレイヤ殿への対応に、さすがに頭を抱えた時、周囲がざわ付き出した。
「私が、美味しいお肉を選びますから!任せて下さいっ!」
「……あはは、それは楽しみだな!」
見ると、廊下の奥からこちらに向かって、何やら場違いな恋人達が歩いて来る。
「晴れて良かったな。」─いちゃ─
「はい。」─いちゃ─
男は、恋人の女の肩をぎゅうっと抱き寄せ、あろう事か、頭のてっぺんにキスをした。そして、この世には自分達だけだと言わんばかりに、見つめ合っている。
馬鹿か?あいつらは──
「なっ……何だあいつらはっ!ここは軍だぞ……⁈それに、今この場に来られたら、フレイヤ殿に……おい!誰かその場違いな男女を今すぐ摘み出せっ!」
「しかし閣下、あれは───」
「ジゼルッ!!」
「……義母上っ!」
しかし、傭兵フレイヤは、恋人の馬鹿女に向かって、娘の名を呼んだ。
「閣下……まさかとは思いますが、あれはご子息とガルシア軍曹では?」
「なっ………」
そうだった。軍で、あんないかれた行動をするのは、ノアだけだった………こんな人目に付く所で何て事を───
「義母上、どうしてこちらに…⁈仕事の帰りですか?」
「ジゼル、貴女こそどうしてそんな格好……広報部の仕事なの?」
ガルシア軍曹がフレイヤ殿に駆け寄ると、フレイヤ殿は表情を和らげ、娘をそっと抱きしめた。
「いえ……広報部の仕事というか……まあ…そんな所で……」
「フレイヤ殿ですか……?ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。ノア・アイゼンです。」
「あんた……ジゼルッ!何でこいつと一緒に居るのよっ!」
「おいノアッ!今出てくるなっ!話がややこしくなるだろうっ⁈」
のこのこと、ノアがフレイヤ殿の前に出て来た為、ノアを押し退けようとしたのだが、ノアは頑なに引かなかった。
「このクソガキ……私の娘を、勘違いで医務室送りにしたんだって?ふざけた事しやがって……殺すぞこのクソ雑魚がぁっ!!」
─キャーッ!バタ……─
フレイヤ殿が、娘を抱きしめたままノアに向かって叫ぶと、そのあまりの気迫に、周りの兵は倒れる者も出始めた。一方ノアは、少し目をしかめたが、平然と立っている。
「おいっ!ノアッ!フレイヤ殿に何か言わんかっ!とりあえず謝罪しなさいっ!」
「義母上…どうしてそんなに怒ってらっしゃるのですか?いつもの義母上じゃないですよ⁈」
娘の呼び掛けにも、怒りは収まりそうにない。綺麗に編み込まれたガルシア軍曹の銀色の毛先と、紺色のワンピースの裾が、フレイヤ殿の気迫で、ふわりと舞い上がっている。
「おいノアッ!早く何か言わないかっ!!」
「……怒りをお収め下さい、義母上。」
「なっ………何であんたに母上呼ばわりされなきゃいけないんだよっ!!」
「ノアーーッ!お前……それは違うだろっ!」
「ジョセフッ!お前の息子は頭がいかれてるのか⁈」
「そうかもしれん……」
益々怒り狂ったフレイヤ殿に、ノアは襟首を掴まれ、詰め寄られた。
更新が遅くなり、申し訳ありません。
直近で、更新頻度が遅くなりますが、順次更新していきます。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。