89.つまみ食い
アイゼン家の客室、ベッドの上でシーツに包まりながら、ジルベールは本を読んでいた。
もう、外はすっかり月が昇っている。やや分厚い活字の本を半分程読み進めた所で、少し眠気もやってきて、ジルベールは本から手を離し、仰向けで背伸びをした。天蓋の向こうのサイドテーブルには、夕食後に料理長がくれたポテトチップスが乗っている。
「ふわぁ………さすがに眠くなってきたなぁ……」
今日は久しぶりにガルシア家に帰った。メイジーとオーウェンの、婚姻の手続きのためだ。
そして、完成した書類をアイゼン家が早馬───フレデリックという、ベーコンちゃんのお家を壊したクソ馬───を出してガルシア家からミラー子爵家に送ってくれ、私達がアイゼン家に戻り、夕食を食べている頃に、その早馬も帰って来て、無事に書類は役所に受理されたと報告を受けた。今日、アイゼン家の夕食の席には少佐は居らず、軍務が忙しいのだと、アイゼン中将が笑いながらルーカス兄さんと話していた。
そして、アイゼン家の人皆が、メイジーの結婚を祝福してくれた。
ジルベールは、両手を伸ばしてベッドの上で仰向けになり、豪奢なレースの天蓋をぼんやりと見上げた。アイゼン家の厳かな雰囲気に反して、この客室だけは、何だか煌びやかだ。
メイジーは………メイジー・ミラーになった。
これで、メイジーは王命の及ぶ範囲外の人間だ。
王命を文面通りに受け取れば、の話だが────
軍に戻ったら、アデル部長と話をしたい。きっと、広報部から、「軍人令嬢ジルベールの、妹の結婚」として、イベントを企画してくれるだろう。多少なりとも公にした方が、こちらとしても都合が良い。市民に認識される事が、何より重要なのだ。
──────ガチャ…──────
「ジゼル、」
ぼんやり天蓋を見上げていると、客室のドアが開き、低い声が響いた。アイゼン少佐だ。
ベッドの上で身体を起こすと、天蓋の向こうにゆっくりと大きな影が映った。
──────パリッ──────
影は、私のポテトチップスを一つ、つまみ食いした後、そっと天蓋を開けた。
「すまない、起こしたか?」
少佐は、黒い軍服姿のままだ。紺色の髪は軽く後ろに撫で付けられている。左腕を、私の太腿の横に付き、こちらを見下ろしながら尋ねてきた。
「いえ、少佐に頂いた本を読んでいましたので。まだ起きていました。」
読んでいた本は、先日少佐から贈られた、大量のプレゼントの中の一つだ。過去の大きな戦を中心とした歴史書で、今まで、この手のジャンルは堅苦しくて敬遠していたけど、意外と読み易くて一気に読み進めてしまった。
私の答えを聞いた少佐は、ベッドの上に置かれた本をちらりと見た後、私の隣に座った。
「そうか。この手の本にも、興味を持ってくれたのなら良かった。いつか、得た知識が身を守ってくれる事も、あるかもしれない。」
少佐の言葉は、頭の上からそっと降って来た。
「少佐───」
「そういえば、今日は兄上達とガルシア家に帰ったのだろう?ゆっくり出来たか?」
「はい、久しぶりに妹にも会えましたし、無事に、妹とオーウェンの婚姻も済みました。こんなに何事も無く、円滑に終える事が出来て……少佐のご厚意のおかげです。私は……どう感謝すれば良いのか……」
「気にする事は無い。多少なりとも、ガルシア家の力になれたなら、良かった。それにしても…羨ましい限りだよ。俺も、早く済ませたい……いや、全て自分が招いた事なのだが……」
少佐は、何故か頭を抱えた。
「少佐、どうかしました?」
「いや、何でも無い。気にしないで欲しい。」
「はい………」
少佐は、何か考える様に俯いた後、私に向き直った。
「ジゼル、」
「はい、少佐。」
「その………ふ……ふ………」
少佐は、私を見下ろしながら、困った様な──私には、そう見える──顔をして、言い淀んだ。
「ふ?」
「ふ………触れても構わないだろうか。」
私に向かってはっきりとそう告げる、急な言葉にびっくりして、多分、目を見開いた。
「割と……限界だと思う。」
少佐は、何かを訴える様にこちらを見ている。
────じゃあ、こちらからの要求としてはね。今後、ノアが君に何をしても、不問に付してくれるかな────
どうして……今更許可を取ろうとするのだろう……
じっと、少佐の顔を見返すと、少佐は私の右手を取り、手のひらに顔を埋めた。私の手のひらに隠れきれない少佐の頬が、少し赤くなっているのは、どうしてだろう。
「触れたい。少しだけで良いから────」
「えっと………その………」
視線を天蓋の方に彷徨わせると、少佐は手のひらから、ちらっと視線を向けて来た。黒い軍服姿の少佐の前髪は、後に撫で付けられているため、瞳がはっきりと見える。
「酷い事はしない。絶対に。」
「う…………はい……」
────ポスッ────
返事をするとすぐさま、ベッドに倒された。
この前とは違って、そっと。
「ジゼル、」
すぐ目の前の距離にある、私を見下ろす少佐の顔は、凄く嬉しそうに見えた。少佐の紺色の両目が近付いて来て、お互いの額がくっ付いた。既にガーゼが取れて、いつの間にか元の肌色に戻った私のおでこに、少佐はそっと頬擦りをする様に額を寄せている。
「えっ………触れるってそういう────」
そして、少佐の大きな右手で、左頬を包まれた。
「あ………」
ぎゅっと目を瞑ると、少佐は私の首すじに顔を埋めて口を寄せた。右の首すじに、人の口内の温度がする。
「少佐……や……ちょっと待って下さ───」
私の言葉を遮って、背中に腕を回されて強く抱きしめられた。いつの間にか、着ていたはずのカーディガンが、視界の端、ベッドの上に映っている。強く抱きしめられて、軍服のごつごつとした金具の感触を、紺色の薄手のナイトドレスの上から、ひんやりと感じた。
リソー国軍の軍服。
嫌いだったはずだけどな……
自分の軍服も。もちろん、上官の軍服も。
大嫌いなのに……
黒い佐官の軍服の、詰襟の留め具が外されるのを、ぼーっと見ていた。
「ジゼル、服脱ごうか───」
目の前の視界は、黒から肌色に変わっている。
「………くしゅんっ!」
くしゃみをして、自分が下着姿になっている事に思考が及んだ。
「寒いか?」
及んだが、及ぶに留まった。
暖を取る様に、そっと肌色を抱き寄せると、人の温度に包まれた。
たぶん、頬や、身体に、口を寄せられている。そして少佐が、私の身体に口を寄せながら何か言っている気がしたけど、頭がぼーっとして、良く理解出来なかった。
心臓が、血液を送り出す音が、とても大きく聞こえる。
人間や、獣と対峙する時以外にも、この音は聞こえるんだな……知らなかった、最近まで……
視界の端に映る紺色のカーディガンの上に、紺色のナイトドレス、紺色のキャミソールが積まれている。少し小高くなった紺色の山の横には、黒い山が出来ている。
お腹の上に、紺色の髪の毛が見える。胸の下辺りに、歯を立てられた痛みが走った。
「……ル……ジゼル。」
「……え?……」
「聞いていたか?」
お腹の上から、上目遣いに少佐がこちらを見ながら何か聞いている。
「………はい。」
私はいつもの癖で、返事をした。軍の会議でも考え事をして、話を聞いていなかった時、とりあえず肯定するのだ。そうすれば、とりあえずは何とかその場を切り抜けられる。そして、あとからリー中尉に怒られながら、会議の中身を教えて貰う事になる。
私の返事を聞いて、少佐は照れた様に微笑んだ。とりあえずは、肯定して正解だった様だ。
「ジゼル、俺は───」
「ちょっとノアッ!何やってるのっ⁈」
少佐が何か言いかけた時、ベッドの下から、何かが勢い良く飛び出して来た。
「きゃあっ!!」
我に返って驚いて叫ぶと、ベッドの下から出て来たものは、仁王立ちでこちらを睨んできた。
「リアム……お前……!勝手に部屋にいたのかっ!いつからいたんだっ!それはマナー違反だろう⁈」
ベッドの下から飛び出したのは、まさかのリアムだった。いつから隠れていたんだろう。少佐は、隠れていたリアムに怒鳴ったが、何となく、こちら側が、分が悪い気がした。リアムは子どもとは思えない形相で、少佐を睨み続けている。
「おじいさまーっ!!ノアがジゼルの部屋に居るーっ!!」
そして大声で扉に向かって叫び出した。
「いや、別に良いだろう⁈それは!」
「ノア、僕知ってるんだからね!ジゼルは、まだノアのお嫁さんじゃないんでしょ!それなのにジゼルの部屋に来ないでよっ!」
「勝手に忍び込んでいたのはお前だろう⁈」
お嫁さん…そういえば、そういう設定だったな。
「おじいさまーっ!ノアが、ジゼルに無理矢理酷い事しようとしてるーっ!!」
「リアムお前っ……嘘を付くなっ!!どこで覚えたんだそんな事っ!!」
────ドドドドド……バンッ────
「ノアーーーッ!!お前何を……っ!お…お前達は何だその格好はっ!!」
リアムに呼ばれて客室に飛び込んで来たアイゼン中将は、ベッドの上の私達を見て、目を見開いた。
確かに。私は一体何してたんだ……
「チッ……」
少佐は、私の身体にシーツを掛けると、凄い速さで軍服を着直した。
「ジゼルッ!明朝には軍に戻るぞっ!」
そして、そう言うと、客室の奥へ走って行き、窓から外へ飛び降りた。
「ノアーーッ!!」
アイゼン中将が窓に駆け寄ったが、既に少佐は逃げ切った様だ。
「ジゼル……大丈夫?」
シーツに包まった私の横にリアムが来て、心配そうにそう言いながら、ぴたっとくっついて来た。
「ガルシア軍曹、」
そして、ゆっくりとベッドの前にアイゼン中将が来て、私は何故だか悪い事をした気持ちになり、恐る恐る顔を上げた。
「合意の上だった……と言う事で、違い無いかな……?」
数秒考えて、ゆっくり頷くと、アイゼン中将は安心した様に、ため息を付いた。
「それなら、何も言わないが……今夜はリアムと一緒に寝てくれるかね?」
「はい。」
「やったー!でも、帰っちゃうの?ジゼル……」
リアムがうるうるしながら、可愛いお顔で私を見ている。
「リアム、我儘を言っては駄目だ。ガルシア軍曹、明日はノアも一緒に、リビングで朝食を食べて戻りなさい。」
「はい、閣下。」
「……軍の外で、敬称は要らないよ。私もそうしよう。寝坊しない様に、もう寝なさい。」
「お休みなさい、おじい様!」
「お休み、リアム、ジル。」
そう言うと、アイゼン中将はそっと客室の扉を閉めて、去って行った。
「ジゼルー!早く寝ようよー!」
私は服を着て、少佐が降りた窓の外を見た。ここはアイゼン侯爵家の二階だ。
「ここから、あんなに簡単に……私も、降りれない事は無いけど……ロープも無しに降りれるかな……」
「ジゼルーー!」─ぐいっ─
痺れを切らしたリアムに、窓から引き剥がされ、私はリアムとベッドに寝転んだ。
「寝る前にお話してっ!」
「リアム……くすっ…何のお話がいいの?」
「えっとね!じゃあ───」
リアムにお話をしながら、いつの間にか、私は眠ってしまった。
────────────
翌朝、アイゼン侯爵家の玄関にて──
「やっと帰ったか………疲れたよ。」
「何だかんだ、丸く収まって安心しましたね、父上。私も、若者2人には振り回されましたよ。」
仲良くフレデリックに乗って、軍へ戻って行くノアとジルベールを見送りながら、ジョセフとルーカスは疲れた様に微笑んだ。
「ですが……軍に戻ったら戻ったで、心配では無いですか?父上。」
「それはそうだが…もう、どうしようも無い。一応同意の上だと、確認はしたからな。」
「確認?」
「ああ。昨晩も客室でな……下手したら、ベンの言う様な、変な噂になりかねんぞ。お前が、軍内の有力貴族家に対して、先手を打ったのは正解だったな。」
「万が一があっても、醜聞は避けられますからね。」
ジョセフは、ため息と共に、右手で顔を覆った。
「そういえば…リアムは、彼女が帰って泣いていなかったか?」
「いえ。私も意外でしたが…全くです。朝食後、以前の様に、ジェイミーと2人で訓練場に行きましたよ。ジルが家に居た時は、一日中客室に入り浸っていたというのに。」
「そうか……」
「父上も、今日はノア達の軍事基地に行くのでしょう?一緒に行けば宜しかったのでは?」
「もちろん、馬車で行こうと申し出たが、ノアが露骨に嫌がったのでな。聞かなくても分かるだろう?」
「分かっていて、聞いたのですよ。ノアは、今日ジルと一緒に…ほら、今、街で祭典をやっているでしょう?肉の祭典でしたか。それに行くのだと、浮かれていましたから。」
ジョセフは深くため息を付いた。
「彼女の隊は、野営訓練中だろう?つい最近までは、信じられなかったが…あのノアが、訓練中の、仮にも自分の管轄下の兵に、訓練の離脱を許すとは。」
「あはは!広報部の軍務だと、言い訳する様ですよ。」
フレデリックに乗った2人が見えなくなるまで、ジョセフとルーカスは玄関に並び、見送っていた。
更新が遅くなり、申し訳ありません。
直近で、更新頻度が遅くなりますが、順次更新していきます。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。