85.吐瀉物ごと愛して
アイゼン家、ノアの部屋。
酒瓶の転がった殺風景な室内、暖炉の火が暖かくはぜる音に混じり、ベッドの上から、幸せそうなノアの低い声が響いている。
「ジゼル、」
「……ノア様………」
ノアは幸せそうに相好を崩し、ジルベールの髪の毛を撫でた。
「様、は要らないが……今日はしょうがないな。」
「……うん……」
ノアはベッドの上に横になり、隣に寝かせたジルベールをぎゅうっと抱きしめながら、左側の首すじに顔を埋めた。
彼女の銀色の髪の毛からは、香油の香りがする。
「ジゼル、あの時の痕は……殆ど消えたのだな。」
ジルベールの身体を見ながら、ノアは呟いた。そして、ジルベールの左肩に、そっと歯を立てた。
「……ん……」
「ジゼル、」
「ジゼル、あのアルバートの事は……共に忘れよう。」
「……ノア様……」
「ジゼル……」─いちゃ…─
「あいつは、ただ俺達に武器を持って来るだけの、卸屋だ。いや、もはや人じゃない。その辺の石屑と同じだ。屑だ。あいつは。屑人間だ。忘れてしまった方が良い。その為なら…俺は……酒の力を借りる事も、いとわない。」
「……うん……」
「泥酔していても、可愛いものだな…君は……」
─いちゃいちゃ…─
「……ん……」
「ジゼル、必ず君と結婚する。」
「……うん……」
「ふふ…」─いちゃいちゃいちゃ─
「……んう……ん……」
「ああ、そうだ。傷痕が薄くなる塗り薬を、家の医者にもらっておいた。塗ってあげよう。」
ノアは、サイドテーブルに置いていた、塗り薬の瓶を手に取り、蓋を開けた。
指先ですくい取ると、薬草やハーブの爽やかな香りが室内に漂う。
「今日飲んだ酒に、これに似た香りの物もあったな……割りと美味しかった。」
そう言いながら、ジゼルの身体中にある古傷に、そっと塗ってやった。彼女は大人しくしている。目蓋が閉じかけて、眠そうだ。
やや固めの塗り薬は、彼女の肌に乗せると体温でスッと溶け、傷痕の上に広がっていく。
「背中にも塗ろう。」
ノアはジルベールをそっとうつ伏せにした。
「鞭打ちの痕だな。」
そこには、肩から腰にかけて、数本の酷い古傷があった。まだ、幼い頃に出来た物だろう。彼女の成長と共に治ったと思われるそれは、肩から落ちる稲光の様な模様を、背中に描いていた。
リソー国の軍人であれば、傷の程度に差はあれど、この傷痕を背中に背負う者は珍しくない。だが、彼女は、これを気にしている様だった。
──軍人じゃない女の人は………皆………綺麗でしょう……?──
彼女が、やや寝ぼけながら呟く様に言った言葉を思い出し、背中の古傷に、そっと薬を塗り広げた。
軍人では無い女……
女でも、男でも、軍人で無い者は、この傷痕を持つ事は無いだろう。だが、そもそも一般市民の身体と比較しても……軍人なら傷痕は多くて当然なのだから。
「ジゼル、君は背中の古傷を、気にしている様だが……一度肉が裂け、修復した傷痕は、簡単には消えないだろう。塗り薬では、消える事は無い。」
「ふふ」
腰の辺りに薬を塗ると、くすぐったかったのか、彼女は笑いながら身を捩った。
「前にも告げたが……身体の傷痕を、恥じる事は無い。背中の古傷もそうだ。これは、まだ幼かった君の、生き抜こうとした努力の結果なのだから。子どもの君に会ったなら、俺は君を、誉めてやりたいと思うよ。」
「……………」
「だが…この塗り薬で君の気が晴れるのなら、ずっと医者にもらって来てあげよう。多少は、薄くなるかもしれない。」
「……うん……」
塗り終えたノアは、薬瓶の蓋を閉め、サイドテーブルに置いた。そして、ジルベールを仰向けに戻すと、髪を撫でながら顔を覗き込んだ。
「そうだ、ジゼル。家の、この部屋は、君の好みに模様替えしておこう!俺はどうせ、ここを書庫にしか使わないし。家に君が来た時は、好きに使って構わない。我ながら名案だな。」
「……ノア様……」
「ジゼル……あぁ、可愛いな………」
「……んう…む……ぷは………」
「ジゼル、俺の肩に手を回して。そう、しっかり掴まっていなさい。大丈夫だから。」
「……ノア様……?……」
「あはは、可愛いな。首を傾げて……大丈夫、最初は少し痛むかもしれないが…怖くない。じっとして……そう、良い子だ────」
────ガチャガチャ……バンッ────
「ちょっとちょっとちょっとおおぉぉっ!ノア、何やってるの⁈何で君達裸なのかなぁっ!!」
部屋に飛び込んで来たルーカスを見留めると、ノアは殺気立った目で、ルーカスを睨んだ。
「チッ………兄上……鍵は掛かっていたはずでは?」
「ノア、何て目で俺を睨むんだ。マスターキー位持ってるよ。さっさと彼女から離れなさいっ!」
ノアは組み敷いていたジルベールから体を離し、上体を起こした。そして、足元のシーツを引き上げ、自分の腰元に掛けると、隣で横たわるジルベールにも、そっと肩まで掛けてやった。
「ふわぁ………すや………」
何だか体が自由になったジルベールは、横向きにくるんと丸まってあくびをすると、幸せそうに目を閉じた。
「くそっ……あとちょっとだったのに……」
ノアは右手で額を覆った。
「何があとちょっとなんだよっ!ノア、さっきも聞いたけど、どうして君達は裸なのかなあっ!!」
「2人で酒を飲んでいたのですが……少々飲ませ過ぎた様で、彼女が盛大に吐きまして。いえ、飲ませ過ぎた私の落ち度なのですが……美味しそうに飲む彼女が可愛くて……」
「それで?」
「私も彼女の服も、吐瀉物まみれに。なので、床を綺麗にした後、服は洗濯に出したのです。」
「なるほどね。」
「別に彼女の吐瀉物であるなら、可愛い物なのですが。吐瀉物も、彼女の一部ですから。ですが、さすがに汚れた服を来たままでは───」
「あぁ、そうですかっ!吐瀉物ごと愛せるなんて、大層ご立派ですねっ!それで、新しい服を着もせずに、お互い素っ裸で、いちゃいちゃしていらっしゃったのですねぇっ!!!」
「虹が出ましたよ。放物線を描いた、彼女の吐瀉物からは……」
「はぁ⁈ノア、頭いかれてるのか⁈可愛い弟とはいえ、理解しかねるよっ!早く元の部屋に帰して来なさいっ!婚約もまだなのに、これじゃあ、叔父様に言い訳出来ない───」
──────むくっ──────
ルーカスが頭を抱えた時、一度寝たと思ったジルベールが、むくっと起き上がり、ベッドの上で上体を起こした。
「ちょっと!ノアッ!早くシーツをかけなさいっ!」
ルーカスは、右手で目を覆った。
「ジゼル、どうした?水が飲みたいのか?」
ノアが呼びかけると、ジルベールはゆっくりノアを見つめた。
「……ノア様……ノ……ノ……おろろろ───」びちゃびちゃ
「うわぁっ!ノアッ!早く彼女をっ!」
「ジゼル、本当に飲み過ぎだ。」
「のあさま……おろろ」びちゃ
「ジゼル…酒が抜けた後も、そう呼んでもらえたら…俺は───」
「ちょっとノア!まだ口から出てるよっ!あーあ……ベッドが……」
ルーカスは、若者達の愚行に膝から崩れ落ちた。
「ふあぁ………」べちゃ
「あー、あー、もう……ゲロの上に寝ちゃって……」
「全部吐いて、すっきりした様ですね。」
「ようですね、じゃないよっ!ノア、すぐに客室に戻って、彼女を洗い流してあげなさいっ!この部屋は今から清掃に入らせるから、今日はノアも客室で寝るんだ。くれぐれも、これ以上、彼女に手出ししないようにっ!」
「……………」
「返事はっ⁈」
「………はい。」
あまりにも小さなノアの返事に苛立ちながら、ルーカスは2人を送り出した。夜中だというのに、今から執事達に部屋の清掃を頼まなければならない。
「はぁ……全く……あのノアがねぇ───」
ルーカスは、そう呟きながら、本棚の上の方を見上げた。弟が入軍した後も、部屋はこまめに掃除がなされ、本棚には塵一つ無い。
その本棚の上の方に飾ってある、ピカピカのブリキの馬車に向かって、ルーカスは大きなため息を付いた。
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