84.おろろろろ
───カチャッ……───
アイゼン家、ベン・ルイスが勝手に大騒ぎして帰り、ルーカスの指示で玄関に塩が撒かれた日の夜。
シャワーを浴びたノアは、軍服から室内着に着替え終え、もはや当たり前の様にノックをする事も無く、ジルベールの客室の扉をそっと開けた。
「ジゼル、」
───スースー……ぐー……スースー……───
ジルベールの客室は、執事達が、暖炉の火を交代で面倒見ているおかげで、夜中も温かく心地良い。
緩やかに火の粉が上がる暖炉の音に混じって、天蓋の付いたベッドから、気持ち良さそうな、人の寝息が聞こえる。
───スースー…むにゃ、ジゼル…スー……───
ノアは、やや顔をしかめて天蓋をそっと開けた。そこには、横向きに丸まってスヤスヤと眠る、愛らしい彼女の姿があった。
「ジゼル…ここ数日で、少しふっくらした気がするが──」
確かめる様に、眠る彼女の頬にそっと手を添えた。彼女はかなり食いっぷりが良いからな。料理長が、料理のしがいがあると、少し張り切り過ぎているのかもしれない。
「まあ…広報部の指示か分からないが、もともと君は、少し痩せ過ぎていた。少し太った位が丁度良いと、俺は思うが。」
───スースー……ぐー……スースー……───
そして彼女は、何かを抱きしめて眠っている様だ。シーツがもこっと膨らんでおり、先程から、ジゼルの他にもう一つ、寝息が聞こえる。ノアは、ジゼルの包まっているシーツを、そっとめくった。
「チッ……こいつ───」
そこには、ジゼルに抱きしめられ、幸せそうに眠るリアムの姿があった。子ども特有の、垂れそうなほどに、脂肪分でまるまるとした頬を、ジゼルの胸元にギュッと押し付けている。
兄上が、リアムが毎晩ジゼルと一緒に寝ていると、困った様に笑っていたが……
ノアは大人げなく、眉間に深いしわを寄せた。
─────────
「ん…………」
何か、物音がした様な気がして、目が覚めた。
私……兵舎…じゃなくて……私室………
でもなくて…そうだ、アイゼン家でお世話に……
あれ……リアム…お部屋に戻っちゃったのかな…
いつも一緒に寝てくれるから、温かいし…可愛いのになぁ……
そういえば…天蓋が無い……ここは────
私は、だんだん意識がはっきりしてきて、飛び起きた。客室と同じ、ふかふかのベッドだけど、天蓋が無い。
暖炉が燃える、清掃の行き届いた暖かな部屋。窓には分厚いカーテンが掛かっている。
アイゼン家の……他の部屋……?
あまり生活感の無い部屋だが、ベッドから起きた正面の壁は、床から天上まで、一面本棚になっており、資料室顔負けな程、無数の本が並べられていて、私は一瞬見入ってしまった。
─────カチャ─────
物音がした方を見ると、少佐がテーブルの前に、こちらに背を向けて立っていた。
「………少佐………」
小声で呼ぶと、少佐は驚いた様に振り返った。
「ジゼル、起きていたのか。」
そして、ゆっくりこちらに歩いて来る。
「寝ている人間が起きたら、気配で分かるのだが……君の気配には、慣れてしまったのかもしれないな。」
軍服じゃない少佐……初めて見るかもしれない。いつも、真っ黒な軍服だから、白いシャツ姿が新鮮に見える。少佐は、下ろしている前髪を右手で掻き上げながら、ベッドに上がり、膝立ちで私の目の前に来た。少佐の重みで、ベッドがゆっくり沈む。
「……あの……ここは………」
「アイゼン家の、俺の部屋だ。と言っても、普段ほとんど帰らないからな。軍の私室に入りきれない本を、置いておくのに使っている位だ。」
だから、あんなに本があるのか。漫画は無さそうだな………
「どうした?キョロキョロして……」
「あ、いえ……でも、どうして私をここに……?
「それは────」
「むぐっ───!」
少佐は、顔をしかめると、いきなり左手で、私の口を塞いだ。数日前の、嫌な記憶が蘇る。
「ゔゔ──っ!」
今回は自由な両手で、少佐の手を退けようとしたが、大きな手のひらは、びくともしない。
「ん"ゔ……」
「ジゼル、静かに!今声を出したら───」
──ドタバタドタバタ……ジゼルー!どこー⁈──
──ドタドタ…ジゼルー!どこに行っちゃったのー!……もしかして…ノアの部屋?…ガチャ…鍵が掛かってる……──
──ガチャガチャ!ガチャガチャ!ドンドンッ!ノアッ⁈いるんでしょう⁈ジゼルを返してっ!──
──ドンドン!ドンドン!ジゼルー!返事して!一緒に客室で寝ようよー!ドンドコドコドコ──
「リアムの奴……ドアを壊す気か……」
「……むぐもご───」
──ドンドコドコドコ、ドンドコドコドコ……おいこらリアムーーーッ!あっ、父上!──
──お前はいったい今何時だと思っているんだぁっ!そこで何してる!──
──違いますっ!父上!ノアがジゼルを持ってっちゃったんだっ!……はぁ?……ジゼルを閉じ込めてるのっ!……ノアの奴、まさか……とにかく、お前は子ども部屋に戻れっ!──
──やだやだ!うぅわあ"あ"あ"あ''あ"……うるさいぞリアムッ!そんなにわがままを言うのなら、ソフィアに叱ってもらうからなっ!…えっ!母上に⁈いやだあぁぁぁごめんなさい"い"い"ぃぃぃ──
リアムの叫び声が段々と遠退き、廊下は再び静まり返った。
「行った様だな。」
「ぷはっ……」
リアムが去った事を確認して、少佐は、私の口を塞いでいた手を離した。
「少佐、どうして───」
「ほら、あれだ。」
少佐はそう言いながら、テーブルの上に視線を向けた。
「さすがにリアムがいては、ゆっくり飲めないだろう?」
テーブルの上には、大小様々な酒瓶が、ぎっしりと並んでいた。端の方には、ポテトチップスやハムもあるみたいだ。綺麗なグラスも置かれている。
「うわぁぁぁ!」
私はベッドから跳ね起きて、テーブルに駆け寄った。
「分かりやすいなぁ、君は。」
「少佐っ!これは───」
私は、並んでいる酒瓶を手に取った。カラフルで、綺麗なラベル。どれも街で、今人気の物だ。
「ビールと、ワインと、ウイスキーもあるっ!この白いのは、何だろう?」
知らないお酒もあるけど、見ているだけでもわくわくする!あぁ、早く、飲みたいっ……!
「こんなに沢山…どうしたのですか⁈」
「これは、テディの助言で───」
「え?」
「いや、以前君は、飲みに行きたいと言っていただろう?さすがに軍の私室では、与えられないから、今日、街で買って来たんだ。客室で一緒に飲もうと思っていたが、リアムが居たからな……俺の部屋に連れて来た。あいつがいると、落ち着いて飲めないだろう?だがしかし、本当に君は、一切起きないのだな。軍務中、野営の時は一体どうやって睡眠を───まぁ、今、小言は止めておこう。」
「そうだったのですね。ありがとうございます、少佐。」─すり…─
私は酒瓶に頬擦りした。
「……そんなに喜んでもらえたのなら、良かった。」
「少佐も、お酒は好きですか?」
「特段好きでは無いが……君の兄に付き合って、昔は良く飲んでいたな。」
少佐は、テーブルの上に並んだ酒瓶を見ながら、懐かしそうな目をした。
お兄様も、今、一緒にいれたなら……きっと、楽しかっただろうな。
「少佐、お酒強いですか?」
「………分からないな。だが、そんなに酔った事は無い。」
「そうなのですね。私は、酔わなかった事は無いです。」─キリッ─
「そう、自信たっぷりに言われても……やはり心配だな、君は。結婚しても、一人で飲みに出歩かれたら不安だ──」
「え?何ですか?」
「いや、何でも無い。飲み過ぎ無い様、常に気を付けなさい。」
「常日頃、そのつもりではいます!」
「…………」
─────────
「……ジゼル、そろそろ、気は済んだか?」
「………うん……」
ジゼルは、テーブルに頬をぴたっと付けて、蕩けた様な目で、うっとりと、テーブルの上の、残りの酒瓶を見つめている。酔って暴れたり…等はなさそうだが、先程から、何を聞いても、「うん」としか言わなくなっていた。
「俺も、飲ませ過ぎたな。君が、あまりにも美味しそうに飲むから、止めきれなかった。」
「……うん……」
山ほどあった酒瓶は、2人で殆ど空にしてしまった。あと数本、手付かずの物が残っている所で、ジゼルはギブアップの様だ。酒を水の様に飲みながら、厚切りのハムを美味しそうに頬張る彼女も、可愛らしかった。
「ジゼル、君が飲める量は把握した。次は、こうなる前に、ストップをかけるからな。」
「………………」
「返事をしなさい。」
「……うん……」
彼女は、今にも椅子から崩れ落ちそうだ。
「ジゼル、」
彼女の横に来て支えると、無防備に、体重をこちらに預けてきた。
「君は……飲んだらいつもこうなのか?オーウェン達と、普段、どんな飲み方をしているんだ。」
「……………」
呆れたように、そう言うと、彼女は両腕を俺の肩に回して、こちらにもたれ掛かったまま、俺の顔をじっと見て来た。
「ジゼル、君は…飲み過ぎだ。大人なのだから、そろそろ節度を持った飲み方を───」
「ノア様。」
「!!」
ノア様───確かに彼女はそう言った。
そして、水色の両目でうっとりと、酒瓶を見る時と同じ目で、俺を見つめている。
酒の力だ。酔っていて、彼女は完全に記憶は無い。
そこに、彼女の意思は無いのだ。
いや、もはや、酒の意志だろう。
彼女にとって…俺は酒瓶に等しい。
だが……それでも……俺は、幸せだ───
「ジゼルッ!もう一度……もう一度、俺を見て、名前を呼んでくれないか⁈」
「……うん……」
「ジゼル、お願いだっ………!」
俺は、すがる様に彼女の両肩を揺すった。
「ジゼル、もう一度───」
「ノ……ノ……」
俺は期待に胸を焦がした。何故だか、心臓が苦しい。心臓付近に、古傷は無いはずなのに……
「ノぉ………お…おろろろろろ───」びちゃびちゃ
「う、うわぁっ!ジゼルッ!!」
名前の代わりに彼女の口から出た物は、大量の吐瀉物だった。
勢い良く出た吐瀉物は俺に向かって弧を描き、一瞬虹が出た気さえした。
お読み頂き、ありがとうございます。
不慣れな点が多く、時折改稿をしながらの投稿をさせて頂いています。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
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