異世界王妃の幸福
異世界転移し王妃となった女性が復讐する話
異世界からの来訪者がこの地を踏んだのは今から20年ほど前のことだ。
当時、この世界は混沌の中に在った。
神殿や魔法士による決死の浄化にも関わらず、瘴気は尽きぬ事無く湧き続け、人類の存続圏はじりじりと減退していたそうだ。
そのような苦難に満ちた時代において我が国は盟主として世界の命運を託されていた。
当時の王太子だった我が父が選んだ一手は、古の神事。
神殿遺跡群から発掘された封印呪物を紐解いた結果、遙かなる時代において瘴気対策として行われていた古代神事の存在を知ったのだ。
そして父は神事の再現を成功させた。
神々しい輝きに満ちた魔方陣から現れたのは浄化能力を有する存在。
それは異世界からの来訪者、神の遣いであった。
来訪者がこの世界のために浄化の祈りを捧げると、瘴気は立ち所に消え失せ、なんと枯れた泉に水が湧き、大地には草木が芽吹き、暗雲が晴れ、清浄な大気に満ちたと言う。
来訪者はその後2年にも及ぶ浄化の旅で世界中の瘴気を浄化するに至った。
その偉業と栄誉を称え、王太子は来訪者を娶り、即位した。
来訪者は盟主国の王妃となり、今でも世界中の尊敬を受けて暮らしている。
世界の命運を担った父、神の力により世界を救った母。
私は、その偉大なる二人の長子である。
父は救世王として世界のため、この国のために尽くしているが、同時に親としても心を砕いてくれた。私と弟を等しく愛してくれた父だ。武勇に優れ、思慮深い父のもと、我が国は比類無き盟主国として栄えている。
父はまた、王妃である母を愛し、尊重し、母の望みのために尽くす素晴らしい伴侶でもあった。
学びを欲する母のために世界中の有識者を呼び寄せたと言う。母は父の支えのもと、古代神事の研究家となった。王妃宮には世界中の研究者や資料が集い、今では類い希な学術研究施設だと聞く。
その母は3人目の子が流れて以来なにかと体調を崩しがちで、公務にはあまり出てこられない。私も弟も母に対して親子として触れ合ったことは殆ど無く、幼い頃は寂しく思ったものだ。
しかし母は世界中の瘴気を浄化したという偉業を持つ。その尊い御力こそが母の生命と身体に負担を及ぼしていたのだ。この事実が判明したのもまた、母主導の研究による成果だった。
母は王妃であるが、この希有な方に、これ以上のご無理を強いるべきではないことはこの世界の民として当然の理解であった。公務にはお出になられぬが、お好きな研究をしながら健やかに生きていて下さっているだけで嬉しく思う。
我が名はディレイソーン・ゾーオ・フォングハン。フォングハン王国の王太子である私は、本日、新たな王となる。
父から授けられたディレイソーン『新たなる者』の名に恥じぬ王となりたい。
母から授けられた名、ゾーオの意味は分からぬが、伝え聞くところによれば異世界の言葉とのことだ。
王宮が揺れている。まるで地響きのように。大気の唸りは割れんばかりの大歓声だ。皆が私を待っている。
私は愛する妻の手を取り、光指す露台へと足を進めた。
父と母。偉大なる救世主である彼らの跡を継ぐ者として、私はこの国を、そして世界を導く。
さあ、新たなる歴史の幕開けだ。
* * *
歓声がこんなところにまで聞こえている。
普段は自分の呼吸音すら消えるほど静まりかえっているのに。
それだけ民の歓呼が激しいのだろう。
なぜなら今日は新たな時代の幕開けなのだから。
わたしは石造りの地下室で、地上の騒ぎに反して静かに、密やかに、ようやく手にした幸福を味わっている。
23年。長かった戦いも今日で終わる。
これまでの苦労を思うと感慨深い。
今日、わたしは全てを破壊するのだ。
わたしを拉致し、縛り付けた、忌々しいこの国を。そこに集う者共を。
この長い年月で、わたしは2人も子を産まされた。
酩酊させられ無理矢理に結ばれた婚姻。伴侶となった恥知らずな男による薬を使った強姦。妊娠中毒症で死線を彷徨い、そのまま死ねたら良かったものを……結局は無事に臨月を迎えてしまって。そして王妃の務めだか何だか知らないが、人権無視も甚だしい衆人環視での出産だ。
その赤子に『憎悪』と名付けたことだけが、せめてもの抵抗と言えるだろうか。
わたしの腹を借り、わたしの血液から栄養を奪取し、わたしの心身を損ねて誕生した、あの男の子ども。
決して我が子とは認めまい。そう心に決め養育には関わらなかったが、実際にはそんな時間的・身体的な余裕が無かったとも言える。
どうにか産後の体調が回復したわたしを、あの男は再び陵辱した。
二度目の妊娠。気が狂いそうだった。しかし、わたしは必死に自我を保ち続けた。その原動力はこの世界への復讐心に他ならない。
再び生まれた悪魔には『呪怨』と名付けた。どうかその名の通り、わたしの呪いがこの世界を蝕みますように。そう願って。
三度目の妊娠は、わたしの努力の甲斐があり流産することが出来た。
どうやらそれが契機となったようだ。
わたしの腹はこれ以上の妊娠に耐えられないと判断された。ようやくわたしの願いが神に届いたのだろうか。いや、神など居ないか。居たらこのような世界は既に滅んでいるだろうから。
わたしは長く床につき、患いながら、ゆっくりとこの世界について学びを深めていった。
日本から不思議な力で突然ここに移動した、あの現象。
それは古代では神事だったと言うが、どうやら遙か昔に『呪われた儀式』として封印されていた技術らしい。
当然だ、と思う。
無理矢理こんな場所に拉致されて、瘴気とか言う意味の分からないものと対峙させられる。不安で、怖くて、理不尽で、意味が分からない。なんで?どうして?わたしは無関係なのに! いくら泣いても、どうしようも無い。辛くて堪らない。
けれど───自殺は出来なかった。
だっておかしいでしょう? わたしが死んでも死に損だもの。この世界にはノーダメージ。もしかしたら再び儀式を行うかもしれない。別の誰かが同じ目に遭うかもしれない。そうして繰り返すのかと思ったら、自殺する気なんて無くなった。どうにかして儀式を絶やす必要があると思ったから。
恐らく過去にもわたしと同様に呼び出された人が居て、その人もこの世界を憎んだのでは無いだろうか。
そして二度とこのような愚行を犯さぬように儀式を封印させた。
いや、逆かも知れない。
過去の人がこの世界を呪って『何か』した。
それを受けて、この儀式は呪いを招くとして封印された……そう考えるほうが辻褄が合う。
でも、わたしには特段の能力が無いのだ。
浄化はわたしが居るだけで済む。そこに居るだけで瘴気が消えていくし、そこに居るだけで土地が豊かになり、そこに居るだけで大気が安定する。
わたしは浄化の旅の間、それらしく振る舞いながらも心中では呪いを吐き続けていた。けれど浄化は成されるし土地は癒やされる。つまり内心でどう思っていようと関係なく、単に『わたし』という現物が生きてその場に在ることだけが重要なのだと気付いた。
わたしはこの事実を当然のように隠蔽し、神の遣いが心を込めて祈ることで浄化は成されるのだと説明した。自分も神の遣いとして言動を統一し、イメージの固定化に努めた。その甲斐あって、浄化とわたしを完全に結びつけることに成功した。
わたしの特異性は、わたしの感情や希望には一切左右されない。
そんな何も出来ないわたしが唯一手を出せることは、この立場を使った公的な活動だった。
わたしは神殿遺跡群の調査に乗り出した。
この世界の瘴気を祓ったわたしは、公的には王よりも立場が上だ。産んだ端から孕み、最終的に三度目は流れ、そして静養し、ようやく他国の賓客の前に出られるようになったのはわたしが拉致されてから8年目のことだった。その席でわたしは神殿遺跡群への熱意を示した。あっという間にわたしのための調査団が結成され、わたしは名誉顧問に就任した。
わたしが王妃として拘束されている現在地は盟主国だ。しかし平和になった今、他国は徐々にこの国の利権を奪おうと狙いをつけている。日本で高等教育として世界史も学んでいたわたしにとって、瘴気という世界危機……即ち外敵が消えたらどうなるかは簡単に察することが出来たし、どさくさで『神の遣い』であるわたしを確保したこの国が他国の目にどう映っているかも理解出来ていた。この国は妬まれている。
わたしは各国の欲望をそそのかし、時に手を組みながら、世界各地の旧神殿や遺跡への捜査を精力的に続けた。自分に割り当てられた予算を湯水のように注ぎ込んで調査団の最大スポンサーとしての実質的な立場を得ると、阿る貴族や豪商からの資金を元に各国との繋がりを作った。
そして今。
王妃宮の地下研究所には古代神事の全てが集められている。
世界各地に散らばっていた古代の情報や遺物を可能な限り集め切ったと思う。
これを破壊し尽くせば後の世に正しい知識が伝わることはあるまい……再びこの世界を瘴気が蝕んだとて、異世界からの助けは無いのだ。それを思うと胸が躍る。
地下研究所は王宮敷地に広がっている。思えばよくぞここまで拡げたものだ。信頼できる手駒とコツコツと作り続けた、わたしの城。その端から端まで満遍なく繋いだ導火線は、今まさにわたしの手の中に在る。
記念式典のために解放された王宮には国中の民が詰めかけているだろう。
世界各国から訪れた賓客。わたしの名義で呼び寄せた考古学者や神事の研究者も揃っている。
今この瞬間、わたしの頭上に、この世界の未来を歩む存在が集っているのだ。
わたしは誕生日ケーキのろうそくに火を灯す気分で、導火線の端に着火した。
「そして悪は滅びましたとさ。めでたしめでたし。」
ああ、やっと死ねる。
この世界を道連れに出来る幸福に、わたしは最初で最後の、本心からの笑みを浮かべた。