双六の賽子
旅人のコートの内側の幻野に、切符を落として、彷徨う夜の十二時半
旅人は筏を漕ぐ頃だろう。
夕焼けの帳。薄闇は、全てを悟って、疎水路の曲がり角で、渦を描いて紅葉を抱いている。
門前寺は其処ですよ、と肺炎の男が咳をして、紫色の痰を吐き出して妖怪みたいに壮絶な顔をした。
三日月の針、縫物をしている左指にちくりと夜を残し
寂しい季節になったと、朝霧の中、再び目を落とした本の中では、
退屈そうにしていた文字同士が絡み合っている。
幻野は枯れた葉ばかりで、落とした鋏を隠したまま、
月を海に沈めて、静かに電車が目の前をよぎってゆく。
出鱈目なピアノが、誰もゐない音楽室から聞こえてくる
あの夕焼けが、真っ赤な襦袢に鮮やかに代わる頃
殺し屋がやってくる。真っ黒な海に鯖のような拳銃
夢の砂時計が、座敷牢の双六のあがりに置いてあって
月が昇るころ、太陽を台所の抽斗にしまう
にわか雨が降ってきて、仏間の阿弥陀様に、呪いを
詩というものは一筋の寂しいものでできている
心太や寒天みたいなものである
旅に出た人が読むものである
草原の上の風や、洗濯物をひるがえすそよ風でできている
詩というものは寂しいものである
玄関に置かれた鼻緒が切れた下駄が西日に照らされているような
だからこそ、人は惹かれるのだろう
やっぱり今日も一人ぽっちの
硝子の戸棚の前歯で出汁を取った御御御付の
原野で煙草を吸う詩人、火事にも気づかず
爪の先を齧る昆虫、手放せないまま
二十歳の成人式迎えし、水色
朱の研究、白衣だけ取り残されし研究員
詩人は雲隠れにし、夜半の月かな
嬰児の頭を小突いたら、鐘の音が鳴るなり法隆寺
注射器と、内視鏡の転がった古い屋敷
狂医師が、不治の病を治そうと、反魂の薬を自分の娘に注射する
娘は二目と見られぬ醜い姿となりぬ
屋敷は人が寄り付かず、ひっそりと
やがて、屋敷は、人を取って喰う山姥が棲むと噂され
とある雲水が、屋敷に立ち寄ると
乱れ髪の怖ろしい婆が、現れて
涙ながらに、父の医師が亡くなった事を告げた
その涙の美しい事
汗だくだ
陽だまりが燃えている。
穏やかな炎だ。
月も燃えている。
静かな炎にて。
夏の陽炎が
めらりゆらりと
立ち昇り
幻の水たまりを作りだす
虫眼鏡で、水たまりを覗くと
火の粉が、炎の経文を描いている
南無―――旅の雲水が、
シャンと錫を鳴らし
横を通り過ぎる
切ない季節、夏の宵祭り。
荒れ狂う魂と、たぎった血潮を抱きしめて、
灯篭流し。
想いは深く、なお深淵へ。
灯篭も、川の奥深くへ流れていく。
灯篭の灯り、あれらは人の命だ。
亡くなった人を想って。
若かりし姉や兄。
あの雨の日の、旅路がなければ
夢は置いてけぼりの、小さな子
膝を抱えて、座っている黄色い帽子の、涙
南無阿弥陀仏の妙法を、夢の帳へ。
竹藪で隠れた古い屋敷に、
娘は棲んでいた。
自分の血で、真っ赤な着物を編んでいた。
娘は夢みたいに、空を飛びたがった。
だから、僕は鷺の羽で翼を織っていた。
娘はある日、小指に赤い紐を結んで、
青年と共に神社のお社に行ったまま戻らなかった。
娘は置き土産に、自分に似せた泥人形を置いていった。
だから、寂しくないよ、たとえ、命はなくても、
僕は、鳥兜の毒で、早く死ぬ
その時に、泥人形と燃やしてほしいという遺言を残して、
仏籍に入った
密かな春の病。
にわか雨が降ってきて、靴は泥んこだ。
暁を砕いて泡沫を亡ぼしたら
君の家で、祝杯を。
きっと、父上も母上も、夜明けを待っている。
古い物に取り憑かれているんだ。
不治の病だよ。
君に恋をしているみたいに、
懐の懐中時計は手放せないんだ。
部屋中時計だらけだけど、
過去へいつか行ってみたいと思ってね。
合わせ鏡と、一億個の時計があれば、
あの日の夕焼けへ、飛べるからって
夕べの幻
朽ちてゆく体抱きしめて
リップにラメ入りルージュ、夏の火照り
金魚をどぶ川に逃がしたら
宵祭りの浴衣がよく似合うね
夜空は紫色の朝顔を溶かしたみたい
プレパラートにゾウリムシが這っている
蝸牛はぶつぶつと雨の経文を唱え
街角では、童の幽霊が、櫻を片手に舞っている
膝が嗤っている
夢のあとさき
聞こえたよ、君の泣き声
この魔法瓶の奥から
壜を傾けたら
大きな人間の眼球が
零れてきたから
夕べは懐中時計が逆さに廻って
合わせ鏡の内側で体育座り
地蔵菩薩の念仏を聞いたら
雨が降ってきて
紫陽花が部屋中に咲き乱れる
街角で、又逢おう
世界創生の話を
また聞きたかったら
すべてが夢まぼろし
あの宿で
抱いてもらった狐の旦那も
捕まえようとした
精霊蝗虫の後ろ脚を
千切って仕舞った事も
夏の面影
明日もずっと
右隣りに燃えさかる
鬼が座っていて
空では
スワロフスキーみたいに
月が輝いている
夢なんだよ
あの通り道で
壊れかけた陶器の警官人形が
立ちんぼで
寺では、蝉が滝のように鳴いていた
娘はお堂で綺麗な鬼と抱き合っていた
色欲の戒を破る人間には
と僧侶は必死に功徳を講じるも
此処は夏の世
夏の祭りは何も止められない
夜には花火が打ちあがって
浜辺にはさざ波が打ち寄せて
線香花火はもうお終い
鬼は、抱いた後の娘を殺して
裸のまま、逃げた
つまびらかに
伸ばした足の踵を齧る小鬼に負けて
双六で、あがりまで旅をした
賽子は真っ赤な壱を指し示し
見知らぬ男との旅をした
十六夜は、枕で睦言
私は泣いていた
月は西へ消えて行って
太陽を水面台の下から取り出して
縁日には、金魚をお手水に離したら
一人きりじゃないよと
夕焼けと約束
青空、どこまでも澄み渡る
水たまりの中に閉じ込める
コップの中に
真昼の月を閉じ込めて
一気飲み
お皿の上の雨水に
凌霄花を浸して
雨降る室内
竹藪に狐の童
青空を盗みに来たと
ビー玉持ち来たり
旅人が
灯篭をひた隠し
そのコートの中の幻野に
幻視の始まった
眼玉の中で
狐のお囃子、笛太鼓