Chrono Gazer
海辺の丘――
暴風と雷雨に晒され、夜の闇にぽつりと浮かび上がる小さな建物があった。外壁と同様に少し薄汚れた『HOTEL』の文字に灯を宿し、今日も宿泊者を待ち続けている。
丘の向こうは海。建物の周囲にも他の建築物等は一切なく、遥か遠くにフリーウェイのライトが小さく連なっているだけである。その為、この辺りでは唯一のシーサイドホテルでありながら、突然降り出した雨の影響もあって今日は特に宿泊客が少なかった。
それでもホテルが営業を続けているのは、一階のロビーに備えつけられたカクテルラウンジを目当てに訪れる者がいるからである。
稲妻が閃くのと同時に出入り口の扉から入ってきたのは一人の若者だった。
髪、コート、ネクタイ、ズボン、靴など、そのほぼ全てをブラックに統一させているために目立つ色白な素肌。ベルトの左腰部分にはペン状の金物を数本収納したホルスターを引っ提げており、右腕には肘から手首までを覆う合金製のオーナメントを身に付けていた。
そんな男の名前は万条彼方という。
「ひどい雨だなぁ……」
ぶつぶつと言いながら扉を閉めた彼方は、肩や脚に付着した雫を払ってカクテルラウンジへ足を進める。
途中、左手に懐中時計を握ったままだったことを思い出し、彼方はそれをコートのポケットにねじ込んだ。
「すまないけど隣、座ってもいいかい?」
彼方はカウンター席に一人で座っている、カクテルラウンジ唯一の客であった妙齢の女に声をかけた。
「ええ、どうぞ」
そう言って振り向く女は、既に頬を朱く上気させていた。
身にまとっているのは深い群青のドレスであり、耳には真珠のイヤリングがある。瑞々しい唇に薄く引いた真紅のルージュは、彼女の美しくも妖しい艶を存分に引き出していた。
「それじゃ失礼するよ」
女のグラスを眺めてから、彼方は右隣の席に腰を下ろす。
「『ブルームーン』か。俺も同じ物を頂こうかな」
彼方が青紫色のカクテルを注文すると、それまで黙っていた女が口を開いた。
「ナンパか何かかしら? だったら『ブルームーン』は止めた方がいいわよ」
「ナンパ、ねえ。まあそういうことにしておこうか。女の人に話しかける理由なら、それが一番自然かな」
「ふーん……変な人ね。でもいいわ、気に入った。適当にあしらっちゃうつもりだったけど、話くらいは聞いてあげる」
女が頬杖をついて右を向いた時、バーテンが彼方の前に注文したカクテルをそっと置いた。
『ブルームーン』でございます、というバーテンに軽く会釈し、彼方はそれを一口味わう。
「……不思議な酸味だ」
と、一言の後、彼方は女がじっと自分を見つめていたことに気が付いた。
彼方は咳払いの後に涼しげな声で、こう切り出す。
「そうだ。ここにはよく来るの?」
「ええ、少し前までは毎日のように通ってたわ。でも、ここ最近はちょっと忙しくて」
女がカクテルグラスに左手を伸ばした時、彼方はその薬指に鈍い光沢を放つ指輪を確認した。
すると、そんな彼方の視線に気が付いたのか、女はグラスを置いて左手をにゅっと右隣へ突き出した。
「なあに? これが気になる?」
愁いを帯びた流し目に不思議と似合う微笑を浮かべて、女は自身の左薬指を見つめる。
「信じられないかもしれないけど……これでも私、既婚者で今は母親なのよ。今夜は独りでお酒に浸りたいなって思って。夫と生まれたばかりの息子を家に残して来ちゃった」
女はすっと手を引っ込め、俯きがちに目を閉じると、
「アナタ、この丘から海を眺めたことはあるかしら?」
「いや、ないけど……どうして?」
女は一つ息をついた後、ゆっくりと瞼を開けた。
「一度、アナタも見てみるといいわ。晴れた日の夜に、月と星が照らす海を。その不思議な魔力に囚われたら最後だと、きっと分かるから。もう他のどんな景色も色褪せて見えて……目を閉じていても、瞼の裏には銀河の海が浮かんでくるようになるの」
「成る程ね、貴女もその一人なのかな?」
ほんのりとアルコールの香る息を吐いて、女は頷く。
「ええ、そうよ。そんな理由でここまで来て、バカな女だって思ったでしょ?」
まるで深淵をかたどったような黒い瞳を向けられ、彼方は言葉を返すことが出来なかった。
女はふと視線を逸らし、一気にグラスを空けると、
「言い訳じゃないけど。本当は一杯だけ飲んだら、すぐに帰るつもりだったの。そして『あの人』と『あの子』にちゃんと謝ろうって決めていたのに、こんな雷雨になっちゃうなんて。ホテルの人たちも、雷雨が治まるまでは危険だから外には出ちゃダメだって言うのよ」
突如、女の目の端から溢れた一滴の雫が、彼女の頬を伝って膝元に落ちる。
「って、やだ……ごめんなさい。みっともない姿見せちゃったわ。さっきあんなに偉そうなこと言ったけど、これじゃ私が話を聞いてもらってる方ね」
女は片手で涙を拭うと、ふいに笑顔を作った。
「ううん、いいよ。俺も聞く方が得意だったりするから」
「うふふ、ありがとう。アナタのおかげで、少し心が軽くなったわ」
「それは良かった。貴女がここに来た理由も聞けたし、俺としても満足だ」
そう告げて、彼方はコートのポケットから白銀の懐中時計を取り出す。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろお暇しないと」
ゆっくりと立ち上がる彼方に、女はそのコートの袖を軽くきゅっと掴んで、
「もう行っちゃうの? まだ幾らも話してないじゃない」
「ごめん。俺も貴女ともっと話していたかったけど、もうじき〝時間〟なんだ」
「時間って、一体何の時間?」
彼方は再び懐中時計をコートにしまう。そんな動作を眺めていた女は、ふと驚いたように袖から手を離した。
「あら、その時計って……」
瞬きを繰り返す女の前で、彼方はカウンターに紙幣を一枚置くと、静かに出口へと歩き出す。
「あ、待って」
追いかけようと女も席を立ち上がったが、酔いによる眩暈に襲われ、すぐに座り直してしまった。
彼方は数歩で足を止め、そっと女を振り返る。
「正直なところ、今すぐにでも貴女をここから連れ出したい。でも、それは許されないことだから。だから、ごめんね。今日は貴女と話ができて本当に良かった」
その表情があまりにも悲痛そうで、女は追うのを諦める。
雷鳴の音に混じりながらも、彼方の声は確かに女の耳へと届いていた。
それなら、と女は小さな声で、
「ねえ、最後に一つだけ訊かせて頂戴」
「ん、何を?」
カウンター席から彼方の目を見つめたまま、女は艶めくルージュの唇から震える声を紡いだ。
「アナタは初めから、私に用があって話しかけてきたみたいだけど……ねえ。アナタは一体、何者なの?」
彼方は数秒ほど固まった後、口元に薄い笑みを引く。
「今は『Chrono Gazer』としか名乗れない。でも、貴女はきっと気づく。俺が何者なのか、ね……それじゃあ」
あっ、と女が声を漏らした時には、既に彼方はくるりと彼女に背を向けて歩き出していた。
轟く雷の音が、開けられた扉から一段と大きく聞こえる。
どこか虚ろな女の瞳に写る彼方は、雷雨の夜へと消えていった。
従業員が慌てて彼方を追いかけたものの、ホテルの外は相変わらず激しい雨が降っているばかりで、真っ黒なコートを着た青年の姿はどこにもなかった。
首を傾げて戻ってきた従業員に、女は声をかける。
「ごめんなさい。まだ雨も止まないみたいだから、酔いが醒めるまで少し休みたいの。空いてる部屋はあるかしら?」
少々お待ちください、と従業員が言葉を残してフロントへ去ってゆくと、女は今一度、扉を顧みて、
「見間違いじゃないわよね。でも、どうして『あの人』の懐中時計を……?」
佇んでいる女の元に、従業員が三階の部屋なら空きがあるという報告を持ってきたのは、それから一分ほど経った後だった。
「ありがとう、お会計は後でお願いね」
こうしてカクテルラウンジから、最後の客であった女もいなくなった。
◇◇◇
――海辺の丘
万条彼方は右腕のオーナメントから左手を離しながら、ゆっくりと目を開けた。
涼しい夜風の吹く中、そのまま天を仰ぐ。
晴れた雲一つない夜空に、真円の如き月が映える。丘の周辺に光源がない故か、黒い空に散りばめられた星々の輝きすらも、その一つ一つが違った光り方をしているのが分かった。
β星『北の爪』は蒼白いことも。
そして夜空の光景は水平線の下から、ゆらめく波紋へ静かに広がっては溶けてゆく。潮風が微かに聞こえる波の音と共に、彼方を通り抜けて行った。
「この景色に魅入られる気持ち、ちょっと分かったよ」
苦笑交じりにポケットから懐中時計を取り出して、彼方は背後を振り返る。
そこにはかつてシーサイドホテルだった建物があるが、二階の窓付近の外装は黒く変色しており、人の気配はまったく感じられない。
更にはホテルの扉の前で、じっと彼方を凝視しているショートヘアの女性がいる。横長のレンズでワインレッドフレームのメガネをかけており、服装は淡いベージュのカットソーの上から黒のスーツを着ていた。
彼方は女性と目が合うなり、ぴくっと肩を震わせた。
「イオ、そこにいたなら黙ってないで声かけてよ。びっくりしたじゃん」
対するイオと呼ばれた女性の方は、大して驚いた様子も見せず、落ち着いた声で切り返す。
「すみません。とても声をかけられる雰囲気ではなかったので。では改めて、おかえりなさい。彼方様」
「うん、ただいま」
イオは微笑みを浮かべて、彼方の前までやって来ると、
「『タイムギア』に故障もなかったみたいで良かったです」
「そうだね、こいつ頑丈だから」
彼方は自身の右腕を覆うオーナメント『タイムギア』を見つめた。それは前腕部を保護するガントレットであった。
手の甲側、手首の辺りに透明なドーム状のパーツがあり、その中には三段になって数字が表示されている。剥き出しになった歯車の歯がドームの周りを一周しており、小さなダイヤルがそのすぐ横に存在していた。
無骨なデザインだが、これは時間転移装置。装着者をダイヤルで設定した時間に送るのだ。
彼方から目を逸らし、イオはその目を切なそうに伏せた。
「しかし計算上、今回の時間転移で彼方様の寿命は五分ほど縮まりました。これ以上『タイムギア』を使用し続けたら、彼方様は……」
時間転移の動力源は、装着者の命。一回の時間転移で、数分の刻を代償としなければならない。既に彼方の寿命は約三日、減っていた。
彼方は真剣な表情でイオの言葉を聞いていたが、すぐに口元を緩めて彼女の頭にぽんと右手を置いた。
「ありがとう、イオ。でも今回の時間転移は、俺の命を削っただけの価値はあったよ」
弾かれたように顔を上げるイオに合わせて、彼方はそっと右手を下ろす。
廃墟を見上げながら、彼方は続けた。
「二十年前のここで、母さんに会えたんだ。ちょっと酔ってたけど、ちゃんと会話も出来た」
「万条栞様ですか。それは懐かしかったでしょうね」
「イオには言っていなかったけど、実は母さんの顔を知らないんだ。俺を産んですぐに死んじゃったからね。このホテルで」
「えっ……?」
彼方は廃墟を指差した。
「あの二階の窓のところ、焦げてるだろう。ある客のタバコの不始末だったらしくて、その部屋から出火したらしい。火はすぐに消されたけど、三階の部屋で寝ていた母さんは逃げ遅れて、昇ってきた煙を吸って亡くなった。俺が跳んだ時間は、その火災が発生する直前だよ」
「そう、でしたか。では彼方様の目的は果たせたのですね」
「ああ。てっきり俺か父さんが嫌になって出ていったと思っていたけど、そうじゃなかったみたいだ。それが分かったから良かったよ」
左手を胸の高さまで上げて、彼方はその掌に乗っている懐中時計を今一度、見つめた。
「俺が誤ってポケットから出しちゃったら、ちゃんとこの時計にも気が付いてた。もしかしたら、俺の正体もバレちゃったかもしれないね」
彼方の持つ懐中時計は万条和馬――時間転移の研究者にして、失踪した彼方の父親――が肌身離さず身に付けていた物である。
いかなる時間に跳んでも、常にその時間の現在時刻を示す特殊な懐中時計であり、和馬がいなくなる直前に彼方へと託したのだ。
「……父さん、母さんの俺たちへの想いは本物だったよ」
泣き出してしまいそうになるのを堪えて、彼方が懐中時計を握りしめると、その両頬を優しく二つの手が包み込む。
それがイオの手だと気が付くまで、彼方は数秒の時を要した。
「泣きたい時は泣いて下さい、彼方様。私はまだ『心』というものがよく分かりません」
「イ、イオ……?」
「ですが、彼方様には素敵なご両親がいらっしゃって、それを想う彼方様もまた素敵だと……そう思う私がいます。これは『心』とは違うものかもしれませんが、人間が語る『愛』というものによって生まれた感情であるということは分かります。故に、それは決して間違った感情ではない筈です。彼方様、私の前では感情を押し殺したりなんてしなくてよいのですよ」
イオの真っ直ぐな瞳に射抜かれるようにして、彼方の心の壁が取り払われてゆく。
思わず彼方が目頭を熱くした瞬間、イオが我に返ったように両手を離した。
「し、失礼致しました。アンドロイドの分際で出過ぎた真似を。どうか、お許しください」
慌てて頭を下げるイオ。
彼方は零れかけた涙を拭って、
「ありがとう。君の言う通りだ、イオ。ここまで人間らしいアンドロイドも他にはいないだろうね」
人間らしい、という言葉を聞いた時のイオの嬉しそうな表情を見て、彼方も口元に笑みを引いた。
同時にイオとの出会いを思い出す。
そのアンドロイドはとある時間で、既にその時代では旧型として廃棄、解体処分される運命にあった。しかし、丁度その時代へ時間転移していた彼方と出会い、彼が本来存在している時間へ帰る際、一緒に付いて来てしまったのである。
無表情で開発者たちの言うことしか聞かないような彼女が、ここまで自然な自我を持って動くようになったのは、彼方からイオの名前を与えられてからだった。
「それじゃあ帰ろうか」
「はい、車はこっちです」
すたすたと歩き出すイオに付いていきながら、彼方はふと背後を振り返った。
月下にそびえ立つ廃墟と、星を写した海。
初めて飲んだ『ブルームーン』の味とともに、ここの丘の景色を記憶する。
「彼方様、如何なさいましたか?」
何でもないよ、と返事をして、彼方は今一度強く一歩を踏み出した。
誰も来ないこの丘に『Otherside』を視たのは時を見つめる青年だった。彼に認識されたこの時間は、あらゆる時の事変から干渉を受けることなく、静かに安らかに眠り続ける。




