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空(そら)  作者: まきや
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5. コッ・コ



 いつも挨拶がそれから始まったので、僕はこの女の子を「コッコ」と呼ぶことにした。


 そしてこの出会いと発見は、僕の新しい楽しみになった。

 コッコは毎日ではないけれど、同じ時間に僕を訪ねに来る。いつも最初に会ったのと同じ場所に座って、僕を待っていた。


 コッコはいつも表情を変えないけれど、とても知りたがりだった。

 だからまず最初に、僕は自分の名前を教えてあげた。壁の向こうで、人間の彼女が僕の出す音を、どれだけ理解したかはわからない。けれどその音を受け取ったコッコの目は、これまでにないぐらい、興奮して輝いていた。


 最初は互いの名前を「発音」し、挨拶するだけで時間は終わっていた。けれどやがてお互いに、それぞれ持ち寄った音を交換しあうようになった。

 僕は仲間と交換する時に出す音で、コッコに聞こえそうな音を選んで、届けてあげた。

 楽しい/遊ぼう/つまらない/危険/集まれ。時には身体も使って、その意味を教えてあげた。いろいろな人間に試してみても無視されるのに、彼女だけはそのリズムを理解して、返してくれる。だから僕も自分を伝えるの夢中になった。


 僕もコッコからは素晴らしいものを受け取った。それは人の奏でる「(うた)」だった。


 僕らも詩を持っているけれど、遠くにいるたくさんの仲間たちに聞かせる為に歌う。

 コッコは詩を、僕に聞かせる為に歌ってくれる。額を水槽の壁につけて口を動かし始めると、とても心地よい波が、身体を通じて頭に伝わってくる。

 冷たい水の中にいるのに、温かさと柔らかいものに包まれて、とても懐かしい気分にさせられた。だから僕はお腹を見せて、精いっぱい気持ちよさを伝えて返す。


 コッコと逢えるのは本当に少しの時間だけ。必ず最後に大人が来て、彼女を連れて行ってしまう。

 別れの時の、コッコの暗い表情を見るたびに、僕はいつも辛い気持ちになった。


 僕はどうしても、少女に笑顔を送りたかった。

 それでずっと考えていたあるものを練習して、コッコに見せることにした。




 その日も少女はやって来た。


 お決まりの挨拶、そして今日はコッコの詩を最初に聞かせてもらった。

 それまで不安だった気持ちを、彼女の詩が洗い流してくれた。僕はちゃんとできるって。


 歌い終わったコッコが、額をそっと水槽から離した。小さく深呼吸をして、僕を見つめる。

 僕は今までにない言葉の音波を、壁に向かって送った。コッコが初めてのリズムに戸惑いながら、ガラスを細やかにノックした。


 たくさんの息を吸い込んだ僕は、プールの底近くに潜り、身体を固定した。水流が落ち着くのを待ってから口をすぼめて、空気の塊を瞬時に押し出した。

 最初は球体の空気の塊だった。もういちど軽く吹いてやると、それが潰れた小山のようになり、中央にぽっかりと穴があいた。残されたリング状の空気は、外へ外へと回りだし、やがて水中を漂う輪ができあがった。


 泡の指輪(バブル・リング)


 内側から外側へ。循環する空気の輪は、綺麗で安定した形を保ち続けた。そして水面近くまで広がりながら昇り、やがて消えた。


 コッコは広げた手でガラスをつかみ、その一瞬に目を見開いていた。


 まだ終わらなかった。続けてひとつリングを作った。間をあけず、さらにもうひとつ。すると先にできた輪に吸い寄せられて、次のリングが中をくぐり抜けていった。

 調子にのった僕は、たくさんの輪を作って、それを鼻で回したり、輪に触って分割して遊んでみた。すごい。何でもできる気がした。

 最後に残ったリングを口の中に入れて、演技を終えた。


 やった、成功だ! 僕は朗らかな気分で感情が高まって、クルクルと周り始めた。

 水面近くまできて、やっと観客を忘れていた事に気づいた。急停止して、今度はゆっくりと降りてガラスに近づいていく。


 コッコは無表情のまま固まっていた。ぺたんとお尻をついて、たまにする瞬き以外の反応がない。


 むかし失敗した時の、あの嫌な思い出が頭をよぎった。これで駄目なら、僕の引き出しには何も入っていない。

 その時、僕の喉に何かがせり上がってきた。それはいきなり来て止められなかった。


 ポコン。


 僕の口から出てきたのは、さっき飲み込んだ輪が分割して出来た、三つの赤ちゃんリングだった。


 それを見たコッコが、いきなり笑いだした。

 さっきまでの雰囲気とぜんぜん違う、本当に心からの笑顔だった。


 この子がこんな明るい顔を作れるなんて。

 聞こえないはずのコッコの笑い声がガラスを通り抜けて、水の中まで聞こえる気がした。


 どうしてか、この女の子が気になって、こうして一緒にいるようになった。

 説明はできないけれど、やっぱり僕は、この子の笑顔を知っている気がするんだ。


 コッコはすぐにいつもの彼女に戻った。そして今日もさよならの時間がやってきた。

 大人の影が見える前に、コッコはあわててガラスのすぐ近くに来た。そして小さな口を開いて息を吹きかけると、曇ったガラスを指でなぞった。

 ちょっと考える仕草をして、あわててそれを掌で消し、新しく何かを書き直した。それが終わったと同時に、コッコは抱き上げられ行ってしまった。


 さっきまで少女がいた場所の正面に降りる。僕には人の書いた物は分からないけれど、記憶はいい。

 だから彼女が残したそれを、ずっと大切に、覚えている事にした。



 う・と・が・り・あ


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