39.海の洗礼?!
「出港して1時間、微速だから6ノットで計算すると、陸から11kmは離れた計算ですね。そろそろ速度を上げてもよいのではないでしょうか?」
標高10mのチッタ・アペルタから見える、水平線の距離は約12kmですから既に豆粒のようにしか見えないでしょう。
ちらりと僕はイリスさんとユイの顔を見ますが、心なしか青ざめているんですよね……、恐らくは船酔いという海の洗礼の影響が出てきているんだと思います。
クイーンアレキサンドリアは、全長が150mを超えますので、多少の波では船首・船尾が上下する縦揺れは起こりにくいのですが、沖合に進んだことで潮流などによる横揺れが体感できるようになってきています。
生粋の船乗りである青家出身者などは、青い顔をしたイリスさん達を見て、心なしか優越感を覚えているようなんですよね。恐らく、機関区のリアン達も、船酔いの影響が出てくるでしょう。
「艦長、今の状態でも皆さんの顔色が悪いのです。幸い今は波が穏やかなようなので、船が上下に揺れる事は少ないようですが、速度をあげれば揺れが酷くなって、殆どの乗員は使いものにならなくなりますぞ」
……あぁ、副長がベテランなのは確かですが、こういった大型船(今のアイオライト基準ですが)の経験はないので、縦揺れが起きないに等しいことを知らないのですね。
しかたありません、多少反感をかってでも速度を上げる事にしましょう。
「この程度の速度で、船酔いになるようでは困りますね。荒療治した方がよいでしょう。艦長命令です、両舷原速前進」
僕の指示に副長は舌打ちしましたし、イリスさんもユイも、『本気?』という顔でこちらを見ます。
「……どうなっても知りませんよ。両舷原速前進」
「両舷原速前進!」
副長の指示に、航海長が復唱し、伝声管を通じて機関長にも伝わったようです。船足が早まると同時に、多少揺れが酷くなってきましたね。
副長がちらりとこちらを見ますが、僕は無視を決め込んで、次の指示を出します。
「航海長、フィン・スタビライザーを展開」
「はっ? いえ、復唱フィン・スタビライザー展開」
「なっ、揺れが小さくなっていく……」
フィン・スタビライザーは、船底近くに備えられた小さな翼のような形状をしています。これを制御することで、船の揺れを軽減できるのですが、速度が遅い時はほとんど役に立たないので、艦内に収容されているのです。船速をあげて、スタビライザーを使用することで、150m以上の船はほとんど揺れないという状況が作られるのです。
「まだ船酔いが続いている人は、しばらく横になって目を閉じているか、フライトデッキ上に出ることを許可します。あぁ、あまり舷側によらないように。落水しては困りますから」
衛生長でもあるイリスさんが、艦内放送を使って僕の指示を伝えます。フライトデッキ上を見ると数名の方が風を受けていますね。僕は副長を見て話しました。
「この『クイーンアレキサンドリア』は、青家だけで動かすことはできません。青家の方々だけに負担を掛けないように、考えられる物事に対しては最低限度の対策を講じてある心算です。
勿論、青家の海での知識が役に立たなくなった訳ではありませんが、今までの常識ではこの艦は計れないことを、皆さんもご承知くださいね」
動力船である以上、風任せの航海ではなくなります。従来の海戦での定石も、全く通用しないものになります。新しいものができれば、それまでに通用していたものが通じなくなるものが多くなります。古い常識に囚われていては、大海も大空も進めないのですよ。
気づくと、イリスさんが少し自慢げな表情で、驚いた表情で僕を見ている副長のオスカーさんを、見ています。
オスカーさんは、僕とイリスさん、そして肩を並べてほほ笑むユイを見て、帽子を深く被り直しました。一瞬、その口元に笑みが浮かんだように見えましたが、気のせいでしょうか?
「この歳になって、若者から教えられるとは、なかなか感慨深いものですな。良い経験をさせて貰いましたよ」
そう言うオスカーさんは、不敵な笑みを浮かべています。イリスさんのお父さんにあたるオスカーさんは、元は青家の長男だったと聞いています。現青家の家長はワイアットのお父さんですが、オスカーさんはその兄にあたる人ですからね。海上の知識は、アレキサンドリアでも随一に近いでしょう。彼が青家を継がなかったのは、リリーさんと結婚した為に、その資格を失っただけなのですから。
実際、海の上では青家の知識がなければ立ちいきませんが、だからと言って言いなりになる気はありませんからね?
「まだまだ驚いてもらいますよ? クイーンはまだ半分の力も出していませんからね。現在の速度は、12ノット(時速約22km)です。クイーンの全力を生かすも殺すも、みなさん次第です」
さぁ、ようやく面白くなってきましたね♪
*****
クロエからの増速指示がでる少し前の事である。リアンの前に立っていた、アーシャの顔色が明らかに悪い。
「おい、アーシャ。お前酔っているだろう」
「なっ、お酒なんて飲んでませんよ!」
一瞬声を荒げたアーシャだったが、そのままうずくまってしまう。
「ちっ、船酔いかよ。ほとんど揺れてないぜ」
周囲を見渡すと、先ほどまで賑やかに点検や調整作業をしていた1班の面々のうち、女性を中心とした2,3名のメンバーの顔色が悪いことに気が付く。
「おい、まだ元気なやつは、2班の班長に連絡して、機関室に来てもらってくれ。あと、まだ平気な女子はいるか?」
「はいは~い、私は全然平気ですよ」
肩まで伸ばした亜麻色の髪を、三つ編みにしたお下げを揺らして、タービンの陰からひょこっと姿を現したリヨネットを見て、リアンは苦笑いを浮かべた。
「全く、お前はいつでも変わらず元気だな。悪いが、アーシャ達を頼めるか」
「……!、わ、私な……ら、大丈……夫。で、す」
けなげにも途切れ途切れに、大丈夫だというアーシャは、明らかに顔色が悪い。リヨネットは人差し指を唇に当てて、少し考えていたが、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。
「了解しましたぁ。アーシャ以外は直ぐに待機室に連れていきますね。自分の嫁の世話は自分でお願いしま~す」
「あつ、おいっ、嫁って……」
言った直後に、逃げるようにタービンの間にある連絡用通路を駆け抜け、視界から消えてしまったリヨネット。リアンはため息をついて、手すりに捕まることで何とか身を支えているアーシャに肩を貸した。
「まったく、リヨネットのやつ。おいアーシャ、大丈夫なのか」
ゆっくり首を振るアーシャも、どうやら限界が近いようだ。仕方なくリアンは、アーシャに肩を貸して歩き出した。とはいえ、身長が180cmを超えたリアンが、クロエ程小柄ではないとはいえ、160cm前後のアーシャに肩を貸すとかなりバランスが悪い。
「ちっ、仕方ねえな。文句は後で元気になったらいくらでも聞いてやる」
そう言ったリアンは、アーシャの前面に身体を潜り込ませ、ひょいっといった感じであっという間に背負いあげてし合った。
青かった顔を僅かに赤くしたアーシャーが、リアンの背中で騒ぐ。
「リアン様! ちょ……っと、子供じゃないんですか……ら」
「あ~、五月蠅い五月蠅い。文句は後でいくらでも聞くっていったろ」
そう言って歩き出したリアンの背で、小さな声で「はい……」とつぶやくアーシャであった。機関区の艦首側には、交代要員の仮眠室や打合わせ用の会議スペースなどがあり、簡易ベッドなども備え付けてあったので、リアンはアーシャを背負って小走りで走り出した。
リアンの背に当たる軟らかい感触と、アーシャの身体を持ち上げるために、手をやったふとももの感触に、若干のテレを感じたリアンは無口で先を急いだ。
リアンもアーシャも忘れてもいたし、うかつでもあったのだ。機関の調整で、ここ2,3日寝食を忘れる位没頭していたリアンは、父であるエリック同様に、身づくろいに気が回らなくなる悪癖があることを……
そして、背負ったが為に、リアンにはアーシャの顔色も表情も見えていなかったのは、不幸であったのだろうか。小走りになったリアンの背に揺られた振動と、2,3日洗われていない髪などから発する若い男性特有の体臭に、赤らんでいたアーシャの顔色が、あっという間に青色を超え、紫色に変わっていく……
「おええ~ぇ」
「ぎゃぁぁ~」
会議スペース直前で、リアンの悲鳴が聞こえたのは、当然のことといえたのである……
後にクイーンアレキサンドリアに伝わった、『機関室に現れたでろでろモンスター』事件の真相であった。




