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第7章

「雪なのに、そんなに寒くないね」

「風がないから」

「そうか」

 逢坂と別れた後で、僕と空は地下鉄の駅まで歩いた。店のあるビルとは逆方向だが、飲んでいた居酒屋は隣駅との中間地点にあった。途中で買ったビニール傘ひとつで、高層ビルの脇を抜けて行く。

「結構積もってる」

「本当だ」

 高層ビルの足元の公園は、通りと対照的に白く、外灯に照らされて青く滲んで見えた。木々の枝の影が細い。

「『水からの飛翔』みたいだね」

 僕が言った。顔を見合わせる。空は嬉しそうに笑うと、傘から飛び出して公園の中へと駆け出した。僕はゆっくりと後を追った。彼女はふいに振り返って叫んだ。

「こんな感じー?」

 僕は少し離れた位置で立ち止まり、生きた『水からの飛翔』を鑑賞した。背後の噴水は水を止めたばかりなのだろう、濡れて黒く光っている。それがあの水面を思わせた。空は目を閉じて、背筋を伸ばしてすっと立つ。髪は短く赤いが、画廊で出会った時の感動が戻ってきた。

「うん、きれいだよ」

 空は目を開けて何か言おうとしたが、言葉が見つからないようだった。

「でもちょっと違うな」

「何?」

「脱がなきゃ」

「えっち」

 僕は傘を空に渡して、噴水の黒い石の上に登った。少し歩いて奥まで行き、彼女に横顔を向ける。絵の中に佇む人を思い出しながら言う。

「『木霊』」

 空も噴水の上に登る。僕から離れて対角線上まで歩いた。ちょうど傘が木のように見える。「こう?」

「こう?」

「なあに」

「なあに」

「こだまだから?」

「こだまだから」

「おーい」楽しげな空。

「おーい」

「野宮君」

「空」

「違うよ」

「合ってるよ」

「こだまでしょう」

「こだまでしょう」

「……」

「……」僕は両手をポケットに入れた。「こだまは呼び合って近づくんでしょう」

「…うん」

「おーい」

「おーい」

「空」

「野宮君」

「空」

「野宮君」

「ブースカ」

「ブ、」言いかけて戸惑う。「ずるい、反則」

 あははと笑って、ふと思った。

「ねえ」

「ねえ」

「あの絵の中の人や木なんかのスピリットが、こうして呼び合って近づくなら、それを伝えるのは空間に満ちる何者かなのかな。隙間もなく身を捩る苦しみに耐えて伝えるのかな。魂を引き寄せて結ぶために。そしてそれがきみに見えるような思いの姿なら」

「……」

「これが空木秀二の優しさだよ」

 空は答えずにまっすぐ僕を見た。沈黙の間を雪が舞っている。

「こだまが返ってこないぞー!」僕は片手を高く挙げて振った。

「こだまー!返ってこい!」

「これが、」空はぎゅっと目を閉じた。

「これが空木秀二だよ!」

 お父さん、という声と涙がこぼれた。

 僕は滑る足元に気をつけながら彼女に歩み寄った。

「いつも後ろを歩いているみたいだった。だけど時間の上を歩いて、追いついてしまいそう。お父さんの時間はもう止まってしまった」

 触れたくなって抱きしめた。傘が落ちて転がった。時間が止まるのは死のせいばかりではないと思った。

「…きゃあって言わないの?」僕が尋ねた。

「内心、言ってる」

「嫌?」

「嫌じゃないけど、少し困る」

「どうして」

「彼女の気配がする」

 空は僕の胸を手の代わりにして額に当てた。「野宮君に惹かれるのは辛い」

 水の上を、

 美久が漂っていく。

 時間を止めて。





 翌日、山崎の一件を聞いた店長は本社に異議申し立てをした。自分に無断で解雇を決められたのだから当然だった。もちろん、それが何になる訳でもない。

「山崎がいないと棚の一番上の物が取れねえ」

 店長らしい寂しさの表現だ。『スタッフ募集』の貼り紙を作る空も辛そうだった。

「山崎にはかなわないな」

 土曜日で山崎のいない穴を埋めるために僕も一日店に入った。空と二人、早番で上がった帰り道の地下鉄の中だ。ドアにもたれて揺れながら、僕らは爪先を見て話した。

「空のためにクビかけるんだもんな」

「山崎君は本当に絵が好きで、描く事を大事にしてる。私のためだけじゃなかった」

「うん。わかる」僕は咳き込みながら答えた。

「大丈夫?」

「雪の中で木霊ごっこしてたせいかな」

 声が枯れてきた。朝起きてから喉の調子が悪い。

「あの本多さんて人、周りに本社の圧力っていうのか、そういうのが見えてた。山崎君もそれを感じたんだと思う。あの人の周りのいやらしさも、山崎君の激しさも、怖かった」

「僕は何もできなかった。空にも山崎にも」

「野宮君は冷静だった」横目で僕を見上げた。「わかってた。どうしようか、ばーっと頭の中で計算してた。でも山崎君のスピードに追いつけなかった」

 空はふふ、と笑った。「前に言ってた通りだったね」

「え?ああ」そんな話をしたっけ。ほんのひと月くらい前の事なのに、ひどく懐かしかった。

 電車が空の降りる駅に滑り込む。シューと音を吐き出してドアが開く。「お疲れさまでした」と言って空はホームに降りた。階段へ向かって歩く姿を見ながら、追いかけたいのを堪えた。ホームに響く「閉まるドアにご注意ください」。彼女は立ち止まって振り返った。

 ドアが閉まった。窓の向こうに、佇む彼女を見えなくなるまで見ていた。





 僕の部屋の扉に寄り掛かって座り込む人影に驚いた。

「よう、先にやってるよ」

 河野は笑って空いた片手を挙げた。僕は彼の前にしゃがんで「マイぐい呑み持参か」と手元を覗き込んだ。

「だって寒かった」と言う河野を見ながら、僕は彼のこういうおおらかで大胆なところが好きだな、と思った。「ほら、これ」と彼は酒瓶を見せる。

「おお、久保田」

「だから早く中に入れろ」

 部屋に入って、河野はフライトジャケットも脱がずに火を点けたストーブの前に陣取った。「熱燗にしてくれ」

「今日はどうしたんだ」燗をつける用意をしながら尋ねた。

「ん、ああ」グリーンのリュックから煙草と本を取り出す。「まだ土産がある」

 ようやくジャケットを脱いだ河野はこちらに向き直った。

「及川から預かり物だ」

 徳利代わりのマグカップに酒を注ぐ手が止まった。彼はくしゃくしゃと頭を掻いた。僕は「そうか」と答えて、何事もなかったように湯を張った鍋にカップを入れ、それをストーブの上に置いた。





 河野が差し出したのは雑誌だった。洒落たデザインの表紙の『8月号』で、古本だとわかる。去年の七月。約半年前だ。僕は急いで表紙をめくった。

 目次の下の方、『空木秀二』の文字が目に飛び込んできた。

 時期から見て、急いで差し込んだものなのだろう、たった一ページの記事だった。彼の代表作として大きく『木霊』の写真が、下の方にもう一枚の絵の写真が小さく載っていた。


───独自の世界観と透明感のある画風で我々を魅了してきた空木秀二が6月×日、交通事故で急逝───空木は194×年、東京都に生まれ、T美術大学を卒業後は出版社に勤め───35歳の時に『空と歩く』で─── 8×年の『木霊』で脚光を浴び───


 緊張しているのか、内容が頭に入らない。活字を目で追う僕に深く残ったのは次の部分だけだった。


───その名に運命づけられたように「そら」と「空ろ(うつろ)」を描き続けた


 隅には『空と歩く』とキャプションがついた写真。横長の絵だ。淡い青の空、右の方に横向きの人、性別のない影のような姿だ。写真が小さくてよくわからない。それが右を向いて歩いている。『空を歩く』の誤植かと思ったが、本文も『空と』になっている。疲れて本をぱたんと閉じた。

 僕が本を見ている間に河野が鍋をストーブから下ろして、僕のデミタスカップと彼のぐい呑みに酒を注いでいた。

「何だった」

「わからない、今は考えられない」

 頭痛がしてきた。壁に寄り掛かる。

「話があって来たんだろう」

「うん。一発殴ってやろうかと思ってたけど、顔見たらどうでもよくなった」

「酒持って喧嘩に来たのか」

「喧嘩の後に酒を酌み交わすっての、一度やってみたかったんだ、俺」

 僕らは「ははは」と力なく笑った。河野の迫力ある笑いをもうずっと聞いていない。

「殴られるような事したかな僕」

「してない。俺の気持ちの問題」

「よかった、どうでもよくなってくれて」

 彼はさっきから煙草をくわえては手にし、火を点けずにいた。

「言えよ」

「ああ」と答えて彼はライターで火を点けて、煙を吐き出した。

「野宮と及川ってさ」

「うん」僕はカップで酒を呑む。何か変だな、と思う。

「端で見ていてつきあってるって感じしなかった。何て言うかさ、一緒にいたくている二人」

 僕は目と指で、一本貰っていいか、と尋ねた。河野が煙草と火を寄越す。煙が喉に痛かったが、黙っているのにはちょうどよかった。

「本能的に」彼はふっと笑う。「一緒にいる。ただもう相手が必要っていう欲求だけ」

 僕は頷きながら灰を落とす。

「いいのか」

「何が」

「離れて」

 煙草を吸い終わるまでの沈黙を、河野がどう読むかが気になった。目の前に『左回りのリトル』の幻が現れ、僕は螺旋を駆けて時を遡った。美久。

 僕は煙草をもみ消しながら話し始めた。

「美久と僕は一緒にいてぴったり合わさる形をしていたけど、それはループだった。僕らには『今』っていう時しかなくて、何も生まれず何も残らず、未来だけじゃなく過去さえないような、そういう『瞬間』にしかなれなかった。それがどんな事かわかるか、河野」

「……」

「だから、僕らは時間に従う事を選んだんだよ」

「そういう話し方、そっくりだな、おまえたち」

「殴りたくなった?」

「いいや」河野は二本目の煙草に火を点けた。

「及川と話していると野宮を思い出す。感じ方話し方が似てるのもあるけど。及川はおまえといると怖いって言ってた。同じ事を感じていたからだと思う。だけどおまえの言う『瞬間』になれるような存在は、とても貴重で、手放したくなかったろう、とも思うよ」

 僕は酒を注いだ。酔いが回るのが早い。ふらついてきた。

「だから俺は彼女を抱けなかった」

「…それで、殴りたかったのか」

「まあな」

「大丈夫、彼女は、河野となら、右回りの、時間を、たどっていけるって、思ってる」

「右回りって何だ?」

「酔った。すげえ目が回る」

 咳き込みながら床に転がった。咳なのか吐き気なのかわからない。

「おい、大丈夫か」

「揺するなバカ」

「あ、やべえ」

 暗転。





 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


 おーい。

 おーい。

 こだま。

 こだま。


 電話のベル。

 はい、野宮です。


「空?」


 どこかの深みに沈んでしまいそうな危うさから。

 どこへでも飛び立てる期待感。


「空」


 その存在は世界の隙間という壮大な流れを漂い始めるんだ。


「水」


 ひやり。





 冷たい感触で目が覚めた。いつのまにか布団の中だ。額に何か貼られて、それが冷たい。

「何これ?」

「お子様用冷却シート」

 何でこんな物があるんだろう。

「熱があったんなら、早く言え、バカ。今朝、39度以上あったぞ」

 今朝?起きあがろうとする。

「…すごい」

「何が」

「動けない」

「気のせいだ」

 昨夜、話の途中で熱と酒と久々の煙草で倒れ、その後河野は丸一日、僕についていたのだ。彼は僕を着替えさせたり、薬や氷、この冷却シートを調達したり食事を採るので何度か外に出たらしいが、僕はまったく覚えていなかった。

「天使の夢を見ていたのに、正体が河野だなんて」

「そんだけ言えれば大丈夫だ」

 電話があった、と彼はメモを読み上げた。

「午後3時30分。双月堂の丸山さん。伝言は『お大事に』」

 無断で休んでしまった。

「ついさっき。ウツギさん」

「え?」

 あの電話嫌いの空が、と飛び起きて、そのまま前のめりに倒れた。「ほら、気のせいだったろう」と河野。

「野宮君の具合はいかがですか、って可愛い声だったぞ」

「それで」

「おまえが何かウワゴト言ってたから、今にも死にそうです、って答えた。そしたらすぐ来るって」

「なんてこった」

「可愛いじゃないか、心配しちゃって」

「バカ、空は、」僕は河野を睨んでやった。「何でも言葉通りに受け取っちゃうんだ」

「空?」

「空の木って書いて空木」

 扉の向こうに足音が聞こえてきた。走っている。

「天使のおでましだ」

「え?」

「まずい、早く死にそうなふりをしろ」

 死にそうなふりって、どんなだ?僕は慌てて寝たふりをした。

 チャイムが鳴って、河野が扉を開けた。枕元に空が座る気配。視線を感じる。空が河野に「あの、」と尋ねる声。

「遅かった…」

 何て事を言うんだ。そう思いながらもその芝居がかった声がおかしくて、僕は何とか笑いを堪えていたが、空が沈黙の末に涙声で「そんな」と言ったのでとうとう吹き出してしまった。同時に河野が笑い出した。

「ほ、ほんとに、ほんとに」あっはっはと笑い転げる河野。「本気にしてる!」

 空は呆然としたまま涙目で僕を見ていた。僕は笑いすぎて咳が止まらなくなってしまった。


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