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第6章

「何してたの」と尋ねると、空は「天井見てた」と答えた。部屋はフロアライトだけを灯して薄明るく、ベッドには彼女がすっぽり抜け出た跡が残っていた。僕は天井を見上げた。

「眠れない時、お父さんは天井に何が見えたか考えてた」

 彼女の言う事が何となくわかる。

 部屋が暖まった。僕らはもう決められた位置に座り、同じ膝を抱えた姿勢で左回りの螺旋と向き合った。

「誰もいない一人の部屋なら、自分の思いが見えるのかな。もしかしたらこんなふうに」僕は絵を指さす。「時を、記憶を遡って」

「わからないけど、思い出す事はあったと思う。私もそうだったから」

「そうだね。一人の時は、過去か未来か、どちらかばかりを思う気がする」

「過去を思う時は寂しい時なのかな」

「寂しい未来が見える時もある」

 断言する僕を空が振り返った。「今は見えないんだね」

「今?」少し考える。「うん、今の僕の姿を僕が見ようと思ったら、鏡が要る」

「鏡」

「誰かが必要って事だよ」

 空は考え込む。「うん、わかる」

「さっき彼女と久しぶりに話した。彼女は本当に冴えた鏡で、僕は彼女と出会って自分でも気づかなかった様々な持ち物を見つけてしまったんだ。寂しさとか畏れているものとか、まあ、そんなもの」

 空は黙って、一人分の空間を見ている。

「そんなものを見せつけられて辛い反面、そんな事ができるのは彼女だけだったから、僕にとって彼女はとても鮮やかな存在だった。だけど僕らの手持ちの札は同じだったから、勝負がつかなかったんだね」

「勝負」

「たとえだけど」苦笑。「寂しさを交わす他に求める術がなかった」

「それでも」空がぽつりと言った。「一緒にいたかったでしょう」

「時間に置いてきぼりにされるかと思った」

 僕はふうっと息を吐いた。「僕らの周りでどんどん時間が過ぎていって、僕らに見える景色は混乱してしまった。手を放したら現実がそこから僕らを引っぱり出した。それが空に初めて会うひと月前」

 現実。

「彼女が現実の在処を訊ねたのは僕ではなかった。僕は鏡を失って、それまで見えていたものが見えなくなった。わかるのはそれまで見ていた過去で、きみが僕をかなしく見えると言ったのはそれなんだと思う。今がわからなくなってしまった僕」

「誰もいないの?」

「うん。今知りたいと思う事はわからないままだった。きみに会うまでは。だから、さっき彼女に、僕は空が大事だって言ったんだよ」

 最初、空はよくわからないという顔をしていたが、少しずつ呑み込んだのか「え?えっ?」と慌てだした。それがあんまりおかしくて、僕は床に転がって笑った。

「ああもう、今までの僕の抱擁は何だったんだ」

「だって山崎君も抱きつくし」

「山崎か。あいつも空を大事にしてるけど」

「違うの?」

「試してみる?」

「いい、遠慮する」

「残念」と言ってごろりと空に背を向けた。先刻とは違う種類の涙が出そうになった。

 僕はまた一駅ぶんを歩いて帰った。僕と、空と。山崎と。美久と。





 丸山さんと一緒に午後の休憩。休憩室は空いて少し静かだ。丸山さんは自販機で買った菓子を僕に勧めながらウーロン茶を飲んだ。

「空ちゃん、少し変わったわね」

「そうですか?」

「固さが取れたっていうのかな」と言いながらきれいな指で小さな魚型のスナックをつまむ。僕もいただきますと手を伸ばした。

「さっき、山崎君が抱きついた時」

 それはもう毎日恒例の、山崎流の挨拶になっていた。

「空ちゃんが『きゃあっ』って言ったでしょう。これまで平気そうだったのに、普通逆よね、慣れて平気になるものじゃない?」

 丸山さんはくすくすと思い出し笑いをした。

「何て言うのかなぁ、一線を引いて自分を抑えているところがあって、人に対して感情的な反応がない子だなぁと思って。ちょっとツンとしてるのかと思って最初苦手だったの、実は」

「そうなんですか?」

 誰にでも同じに接する丸山さんがそんなふうに言うのが意外だった。丸山さんはふふふと笑った。

「でも話してみたらこれが天然で」二人でアハハと笑う。

「人とどう接していいかわからないのね、あの子。だから山崎君も過剰に構うんじゃないかしら。彼は彼で何でもはっきりさせるタイプだから、相手の反応がないと怖いんじゃないかな」

「怖い、んですか」

「うん」

 丸山さんは菓子をぽりぽりと噛んで、「見ていておもしろい二人ね」と言った。「野宮君から見てどう?私が思うに、」紙コップを手に、上目遣いで僕を覗き込む。

「野宮君は黙って全体を把握して後ろから支えるタイプ」

「そんな」僕は菓子に伸ばした手を止めた。「自分の事だけで精一杯です、僕は」

「そうなの?」

「空も山崎も、僕には強烈な個性に見えますよ。周囲を巻き込む静かな迫力がある。話していると圧倒される」

 丸山さんは黙って僕を見ていたが、テーブルの上に腕を組んで言った。

「そうね。野宮君が好きになるのわかるわ」

「え、」思わず赤面する。

「二人を、よ」

「あ」

「ふうん」

 丸山さんはくすくす笑って「なるほど」と言った。

「私もそう。惹かれるわね」

 やっぱり丸山さんは大人だ。僕にはかなわないほど、たくさんの事を見ている。

 学生たちが街に溢れ出す時間、店は混み始める。休憩から戻って、僕は店の外側の雑貨の棚の整理を始めた。商品の向きを直しながら在庫を確認する。「君、ちょっと」と話しかけられて振り向いた。

 三十歳くらいのスーツ姿の男だ。抱えた紙袋に『双月堂』のロゴ。本社の人間だとすぐにわかったが、それが水戸光圀の印篭だとでも思っているのか、名乗りもせずに「空木さん、いる?」と尋ねた。

「失礼ですが、お名前は」

「企画部の本多です」

「どうぞ、奥にいますから」

 彼は何も言わずに店の奥に進んだ。丸山さんと挨拶を交わす。

「店長は休みですけど」

「今日は空木さんに用で」

「ご覧の通り混む時間ですから、手短にお願いしますね」

 丸山さんは相手の無遠慮さにちくりと刺した。僕は、店長の休みを狙って来たんだな、と思った。

「言われなくてもわかってる」むっとしながら、本多は空に向き直った。

「描けましたか」

「その話はお断りしました」空は遠慮がちに答えた。

「これは依頼なんだよ。悪い話じゃないだろう。もう君の売り出し方も考えてある。絵ができなきゃ、こちらの仕事が進まないんだよ」

「売り出すって」山崎が口を挟む。

「何だ、君には関係ないだろう」本多は山崎を睨みつけた。「空木さん、君の才能を埋もれさす事はないでしょう。せっかく父親から譲り受けたんだからさ。お父さんのためにも」

「ケッ」と山崎。

「何だ君はさっきから」

「耳鳴りでもしますか」

「丸山さん、こいつ向こうにやってください」

「彼もスタッフです。『こいつ』はないでしょう」丸山さんはぴしゃりと言った。「山崎君も黙ってて。仕事の話し中です」

 空は目を見開いて本多を見ている。何が見えるのか、怯えているようだ。

「とにかく、一か月以内に五点は仕上げてもらいたい。もうひと月近く待ってるんだからね、こっちは。何、こんな小さい額におさまるのでいいんだ。気軽にさらさらっと」

「いい加減にしろ」

 山崎がキレた。

「てめえは本当に画家に会った事があるのか?どうせパシリだろうが」

「山崎」

 まずい。客もいる。山崎は、後ろから肩をつかむ僕の手を振り払った。丸山さんが「山崎君」と呼ぶが止められない。

「気軽に描いてる奴なんていねーんだよ。みんな必死なんだよ。あんたの言うようなたったこんだけの物でも」

 山崎は傍らのポストカードをわしづかみにして本多の顔面に突きつけた。

「さらさらと描いたように見えても、そこ行くまでの道が長いんだよ。あんたが欲しいような絵は、そっちの専門家に頼めよ。それが仕事だ、真剣勝負なんだよ」

「生意気な、青二才が」

 言葉と裏腹に本多の声は震えている。

「ああそうだよ青二才だよ」

 山崎は本多の襟首をつかんで棚に叩きつけた。客たちから「きゃあっ」と声があがる。棚から絵の具がばらばらとこぼれ落ちた。

「空、言ってやれよ!俺たちは飾るための絵を描いてるんじゃないんだって!」

 本多は突き飛ばされて床に転がった。青ざめて震えていた空の膝がくずれた。店の外には騒ぎを聞きつけた客や従業員が集まっていた。





 逢坂が山崎を訪ねて来たのは閉店間際だった。

 コートが濡れている。「雨降ってる?」と尋ねると彼は短く「雪」と答えた。

「山崎は」

 答えるのが辛かった。「さっき、帰った」





 騒ぎの渦中で本多はきょろきょろと辺りを見回して立ち上がった。着崩れて埃にまみれたスーツ姿が惨めだった。それでも彼は埃を払いながら虚勢を張った。

「その金髪を覚えておこう」

「山崎隆之だ。名前も覚えていけ」

「ここは店長といいバイトといい、ろくでもない奴が揃ってる」

 そう吐き捨てるように言って本多は帰った。

 空が貧血らしい、守衛の仮眠室を借りよう、と丸山さんが下へ連れ出した。弘一伯父の話をした時のように苦しげで、見ていて痛々しかった。僕と山崎が散らかった絵の具やカードを片づけた。何度か呼びかけたが、彼は答えなかった。

 それから一時間半後、本社から電話があった。空ももう店に戻っていた。

「山崎君」

 丸山さんはその先を言いあぐねて、置いた受話器を爪でひっかいた。

「やっぱり、暴力は、ね」

「申し訳ありません」

「ここの営業からのクレームは本社にもいったそうよ」ここ、とはこの店が入っている駅ビルの事だ。「お客様もいたし…」

「わかってます」

「店長のいない時にこんな事になって、私にも責任があります」

「いいえ、僕の独断でした」

「辞めてもらいます」

「はい」

 丸山さんが深い溜息をついた。言いたくない言葉だったろう。

「本当にお世話になりました。店長にはまた改めて挨拶に伺います」

 深々と頭を下げる山崎に空は「私のせいだ」と呟いた。

「空ちゃんのせいじゃないよ」と山崎は微笑んだ。「あいつほんとにむかついたもん。空ちゃん、嫌な事は嫌だってはっきり言っていいんだよ。空ちゃんの周りにいる人は、そんな事で離れたりしない。なあ野宮」

 すがすがしい笑顔だ。僕は頷いた。

 そうして、山崎は帰っていった。





 雪はネオンに照らされて、青や赤、ピンクに輝きながら落ちてきた。通用口で逢坂が待っていた。傘もささず、肩と帽子に雪を載せて、僕らを見つけるとひらひらと手を振った。山崎が解雇された顛末は話してあったので、どうしたのだろうと思った。

「山崎の所へ行かないの?」

「今日はやめとこうと思って。飲みに行きませんか」

 僕と空は顔を見合わせ、頷いた。

 大正時代のミルクホールをイメージした居酒屋に入る。一通りの注文を済ませ、おしぼりで手を拭き終えたのが合図のように話し始めた。

「山崎の実家が病院なのは知ってますか」

 初耳だった。

「山崎とは高校に入学して、同じクラスになって知り合ったんだ。僕は医者を志していたから、進路の事とかで話す機会が多くてね。絵が好きっていう、趣味の一致もあったし。山崎は兄弟がいなくて、彼が家を継ぐというのは当たり前という感じで彼も医者を目指していたんだ」

 逢坂はお通しをつまんだ。僕らは黙って聞いていた。

「そもそも父親が絵の好きな人でね、病院の待合い室や家の客室に飾られた絵、父親の蔵書、大量の画集だけど、そういう物を見て育った山崎はいつか自分も画家になりたいと思うようになっていたんだ。だけど父親にとっては絵は鑑賞する物で、息子には医者になってもらいたかったんだね。実際、絵だけで食べていける画家なんてそうそう居ないから、趣味で描くのは認めても美大に進むなんてとんでもない話だった訳だ」

 飲み物や肴が運ばれてきた。逢坂は遠くを見るような目をして、箸を握った手で頬杖をついている。僕が小皿に料理を取り分けた。

「そんな時、父親のもとに一枚の葉書が届いたんだ」逢坂は空を見て微笑む。

「空木秀二、空木梢子絵画展の案内」

 空は驚いて箸を止めた。

「父親が何気なく居間のテーブルに放り出しておいたそれを見つけて、山崎はどうしても実物が見たくなった。空木秀二の『木霊』、そこに描かれた孤独に惹きつけられてしまったんだ」

「孤独」と僕は噛んでいた唐揚げを飲み込んで言う。

「うん」逢坂はソルティードッグのグラスの縁の塩を舐めて続けた。

「空中に浮かぶガラス板という、はかなく割れてしまいそうな場所に、一人ずつ佇む人や木、つながりを絶たれてさまよう魂と精霊」

 スピリット。山崎の言葉が耳に蘇る。

「空間を埋め尽くすような『何者か』、これほどまでに世界は魂に満ちているのに」また塩を舐めて一口飲む。「つながりあうのは難しい」

「まるで山崎と父親のようだね」

「うん。寂しさや孤独は反響する、だけどこだまは呼応でもあって、そうして近づいてゆく魂の姿でもあるんだよ」

「近づいて」と空が呟いた。

 僕と美久もそうだった、と思う。僕の一言に返ってくるこだまに、僕も震えていた。呼び合う孤独。

「山崎が学校に『木霊』の葉書を持って来て、僕に見に行こうと誘ったんだ。僕もその絵にとても心惹かれたから、すぐにOKした。そして、空木梢子って誰だろうね、という話になったんだ。山崎はすぐに調べたよ。父親が購読してる雑誌に載っていて、それが空木秀二の娘で、僕らと同い年だとわかった。山崎はどう思ったろうね」

 空は首を横に振った。

「くやしがってたよ」

 わかる。家を継ぐという決められた将来、叶えられない夢を見る山崎には、同じように描いている空の環境がとても自由に見えた筈だ。

「そして、いよいよ空木親子の絵を見に行った。その時の僕の感想をそのまま言えば、すさまじかった」

「すさまじい?」

「うん。まあこれは、僕のプライベートな部分から生じる思いではあるけど」苦笑して、逢坂は人差指で鼻の頭をこすった。「とても鮮烈な、何もかも見透かされるような眼差しの反射だね」

「……」空が隣で息を呑んだのがわかった。

「僕は空木秀二の絵に空木秀二という人を見た。そして山崎は空木秀二の魂を見たんだ」

「どう、違うの?」と僕は尋ねた。

「僕が見たのは彼の周囲に対する思いや願い。山崎が見たのは彼の内面にある葛藤や孤独。後でそんな議論を三時間もしたんだよ」

 逢坂はまたグラスを傾けた。

「そして、そこには梢子さんの絵もあった。山崎は、」と彼はそこまで言って、何か思い出したようにくっくっと笑い出した。

「ああ、あの後がおもしろかったんだ」

「何が」

「あいつ、絵に謝ったんだよ」

 ごめんな、とぽつりと言ったという。

「それからの山崎がまたおもしろかった。次の日、学校休んじゃったんだ。どうしたのかと思った翌日、現れた山崎はいきなり金髪になってて、親父とやりあったって言うんだ。俺は医者にはならないぞって。見るからにグレて、毎日夜遅くまで帰らないで、両親は隆之が不良になった、っておろおろしたけど、実はあいつアルバイトと美術系予備校に通ってたんだよ。勉強も隠れて」

 逢坂と僕はアハハと笑った。空はただ驚き続けている。

「めちゃくちゃ勉強してたくせにテストでは手抜いて、ひたすら不良のふりをしてた」

「あはは、山崎らしい」

「それでこっそり受けたT美の合格通知を父親に叩きつけて、家を飛び出したんだ」

「あの確信犯め」

「だからあいつには、家からの仕送りはないんだよ」

「それじゃ、」クビになったら生活に困る。空も「どうしよう」と僕を見た。

「次のバイトなんてすぐ見つかる。君が困るような事は、あいつは絶対しないよ。君は空木梢子なんだから」

「私?」

「うん」

 逢坂の言葉には二重三重に意味があるように思えて、僕は尋ねた。

「山崎の顔が見たくなる時ってどんな時?」

 彼はグラスをテーブルに置いて考え込んだ。

「そうだね。こだまを返して欲しい時」

 彼が現れた時の、雪に濡れたコートを思い出した。彼にも何かがあるんだろう。僕は『木霊』のように周囲に満ちる何者かの気配に、じっと耳を澄ましてみた。


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