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第4章

「おう、終わったか。ご苦労ご苦労」

 店長はごつい手で僕の肩を叩いて、胸ポケットのバッヂに気づいた。

「あれ?休みは今日までじゃなかったか?」

「ちょっとなりゆきで」

「何だそりゃあ」

「山崎、と、空木さんは?」

「山崎君はさっき上がったわよ。空ちゃんは下」

 上がった、とは今日の勤務を終えて帰ったという意味だ。

「野宮、閉店までいるか?」店長が笑う。

「いえ、もう帰ります」

 明日からまたよろしくと辞した。バッヂを返すためにまた通用口を使わねばならない。従業員用エレベーターのボタンを押して、どうせなら下、休憩室に寄ってみようかと思った。打ち上げをやると言っていた河野にどこかで出くわすかもしれないし、と思いながらそれが取ってつけた理由のように感じた。

 一人になりたい。

 一人になりたくない。





 休憩室はいつか山崎が「似非倫敦」と言った通り、煙草の煙で白くかすんでいた。髪を染めているのは山崎や空ばかりではないが、それでも彼女を探すのには役に立つ。僕はすぐに彼女を見つけると、横に立って「隣、いいですか」と尋ねた。休憩室の掟なのだ。

 空は「はい」と答えるが顔を見ない。僕は荷物を置き、自販機でコーラを買って戻った。彼女は紅茶の入った紙コップを前に、頬杖をついてぼんやりしている。僕も頬杖をついてその横顔をじっと見た。いつ気づくかな、と思うと愉快になって、僕はこっそりと腕時計のストップウォッチをスタートさせた。

 注視される空は気まずそうにちらりと横目でこちらを見てすぐに視線を戻し、「あれっ」と振り向いた。僕は『G』のボタンを押した。

「1分16秒」

「何?」

「きみが僕に気づくまで」

「何それー」

 アハハと笑う僕に、空はやっと状況を理解して、それまで頬杖をついていた手をどうしようと戸惑った。

「野宮君はいつも心臓に悪い」

「ごめん」

「ううん」

 確かに僕にもどうしようもない。ただ「ごめん」と言いたかっただけだ。

 何となく黙り込む。短い時間を持て余す。

「あの後、山崎の所に行った」

 空は紅茶を飲みながら目で続きを促した。

「えーと、」山崎に口止めされている話に触れないように注意しながら、「飲んでたらあいつの友達が来て、これがまた山崎に輪をかけて変わった人でさ。『水からの飛翔』の感想というか、そんな話をしたんだ」

「うん」

「それで、その人の話を聞いて思ったんだけど、僕があの絵に、」

 言葉に詰まった。刺をさすような強烈な存在感、という逢坂の声。それは口に出すのも重いほどのものだった。空は黙って次の言葉を待っている。

「誰か、を、重ねたように、空木秀二にもそういう誰かが、いたんだなって。当たり前かもしれないけど、後から気づいた。そうしたら、何かね、こう、」

 さして絵画に詳しい訳でもない僕が、彼女の父親の絵を評するような事を言う、その恥ずかしさもあって言い淀む。

「親しみを感じる、なんて言ったら空木秀二に失礼かもしれないけど、ああわかるよって、言いたくなるような。そして、もし彼が生きていたら」

 空はコップをきゅっと握りしめて目をみはった。

「こんな時どうしたらいいですか、って、訊いて、みたい」

 これ以上はもう何て言っていいかわからなかった。僕は空の癖が移ったのか、右手を額に当てて俯いた。泣きそうな自分が恥ずかしかったのだ。あの無言の電話や先刻の河野が僕を動かそうとしている。それは僕の力ではない。情けない気持ちと不安が明確になった瞬間だった。

「野宮君には、父が解るの?」

「……」

 右手を下ろす。空と目が合った。彼女は自分と同じ仕種の意味を理解したのだろう、俯いて黙り込み、膝の上で腕時計を見て「もう行かなきゃ」と立ち上がった。

「空木さん」

「…そら」

 最初に言った時とは違う曖昧な笑みだ。

「空」

「そう」

「今日、早番?」

「うん」

「待ってていいかな」

「私も、待ってて、って言おうと思った」

 そう言って空は手にした紙コップを屑かごに入れた。

「じゃあ、上がる時間に通用口で」

 空の背を見送りながら、待っていて、それでどうなるのだろうと考えた。彼女と居ると自分が見えてくる、そんな気がするだけだ。いや、最初から彼女は美久の幻影も、自分が見ているのは僕だと言っていたんだ。僕に見えない僕を見ている空。

 僕はテーブルに突っ伏して寝たふりをした。誰にも、顔を見られたくなかった。





 空はいつもの黒いコートに赤いマフラーで、それでも通用口の扉を開けると寒そうに顔をしかめた。

「お待たせ」

「どうする?」

「うち」

「え?」

 彼女はもう何か決めた様子で、行こう、と歩き出した。

「うちって、空木さんの」

「空」

「ああ、うん」どうも慣れない。

「空木秀二の」言葉を切った。「最後の絵を見てほしい」

「最後の?『水からの飛翔』は」

「未発表の絵」

 もう一枚、描かれていたという事か。ぼんやり思ううちにそれがどういう事なのか、だんだんと理解していった。空木秀二の、世間に知られていない絵。本当の遺作だ。

 それを、見る。緊張する僕に、空は早口に言った。

「野宮君なら解る」

「僕に?」

 薄暗い地下道に僕らの声が反響する。「教えて、お父さんの事」と迫る空に、僕はたじろいだ。

「だって僕は最近まで空木秀二という画家の存在も知らなかった」

「お願い」

「空、落ち着いて」

 肩をつかまえる。空はびっくりして身をすくめた。

「僕は何にも知らないんだ、多分、きみの知りたい事は」

 空はひどく悲しそうな顔をした。僕はどうしてこうなんだ、と思った。

 河野。

 美久。

「僕も知りたい」

 空は俯いて、額に手を当てた。





 空木秀二の死を最初に知らされたのは、空───梢子ではなく、兄の空木弘一だった。警察は「自宅は留守で」と理由を述べたが、梢子が電話に出るのを嫌っていたのだ。

 秀二、梢子を苦手とする弘一は、秀二の友人であるT美大の高畠氏を伴って秀二の自宅を訪ねた。高畠が秀二の事故を告げた時、梢子は信じなかった。

「事故って、何の話?お父さん」

 高畠は梢子の見る、自分の背後を振り返ったがもちろんそこには秀二はいなかった。弘一は指をさして叫んだ。





 そこまで話した時、彼女の部屋の扉が重い音を立てて閉じた。

 暗闇。ぞっとした。

「ちょっとどいて、」掠れた声に僕は一歩下がった。背中が壁にぶつかる。空の手のひらが胸に触れた。「野宮君、そこ、スイッチの前」慌てて横に歩く。パチン、と明かりが点いた。細長い廊下の先に暗い部屋があった。そこから手前右に台所、トイレとバスルームと思われる扉が二つ、そして今僕らがいる玄関。「どうぞ」と促されて奥へ進んだ。

 少し広いワンルーム。弘一伯父が秀二宅を引き払い、空は画廊の守屋氏が見つけたこの部屋に移ったのだという。部屋は扉から右に広がっていた。クローゼットを備えた部屋にある家具といえば、ベッドとフロアライトだけ。驚くほど何もない部屋だった。

 まるで部屋全体が、空木秀二の遺作のための額のように。

 それは壁一面の赤だった。





 その時の彼女の異常な言動は父親の突然の死のショックによる一時的なものと医師は診断したが、情緒不安定な梢子に生活能力があるとは思えなかった。梢子の後見人には弘一がおさまったが、彼女が伯父を毛嫌いしているのを知っている高畠と守屋が実際に面倒を見たのだ。

 空木秀二の遺品である数々の作品。秀二が手放さなかったそれらを全て守屋が買い取った。そして、その金と自宅が梢子の受け継いだ遺産という事になり、それを弘一が管理する、という形をとった。

 ただ一枚、『水からの飛翔』のために。

 守屋は弘一から『水からの飛翔』を守り、梢子に残したいと考えたのだった。弘一が秀二の絵を手元に残すとは考えられず、案の定、弘一はあっさりと家を売った。梢子に残されたのは『水からの飛翔』とわずかな素描、そして、最後の一枚だった。





「これが、」

 まずその大きさに驚いた。ほぼ壁一面を覆う。窓から入れたのだろうか…と、くだらない事を考えてしまう。守屋氏がこの絵に見合う部屋を探したのだろうと想像できた。

 赤の濃淡を基調にしたアクリル画。

 全体に描かれた、見る者を呑み込もうとするような大きな螺旋。それは不可思議に歪んだ階段でもあった。階段は───呑み込まれるという印象からして───左回りに、中央に向かって遠く細くなってゆき、奥で消失している。その階段をやはり中央に向かって、昇っているのか降りているのかわからないが、数人の少女が歩いている。その姿からして同一人物が移動している様なのだろう。空にはオレンジの弓のような月がかかり、赤黒い影の鳥の群が月から逃れるようにはばたいている。螺旋の背後に見える暗い町並みは時計の内部の歯車のように、噛み合い、縺れ、回転しているようだった。

「左回りのリトル」

「……」

「死ぬ直前まで描いていた、未完成の」

「未完成…」

 確かに、近づけば所々に下書きの線が透けて見えた。僕は空を振り返った。

「完成したところが見たかった」

 空は微笑んで、「私も」と言った。





 部屋までの道々に空はこれまでの事を語った。父の死後しばらくぼんやりと暮らしていた事。自分で暮らしていけるようにならなければいけないとようやく思えた事。絵の事しか知らない彼女が働ける場所として高畠氏が双月堂を勧めた事。高畠氏と守屋氏の世話になっている事。父と両氏の関係。そして、部屋に着く頃に事故当時の話までたどり着いたのだった。

「伯父は絵がわからない人。もしかしたら絵がわからないんじゃない、父がわからなかったのかもしれない。父の絵を見るたび、父を怖がってるみたいだった」

「怖がって?」

 僕らはベッドの縁に寄り掛かって並んで床に座り、『左回りのリトル』を見ながら話した。床暖房で体があたたまると、爪先がじんと痺れてきた。空はベッドの下の抽斗を開けて、絵葉書を出して僕に寄越した。山崎の持っていた物と同じ『木霊』だ。

「伯父は父のこういう絵を見ると、いつも『秀二はいかれてる』って、だれかれ構わず言ってた。父が子供の頃、こんなふうに見えるものの話をしてたって」

 空は膝を抱えて、セーターの袖口を引っ張った。

「だから私の事も嫌ってた。私も嫌いだったけど」小さく笑う。

「高畠さんが、お父さんが亡くなったよ、事故で、と言った時、何を言い出すのかと思った。私には父が見えた。きっと高畠さんの思いだったんだと後で気づいたけど、その時はあんまり父がはっきり見えるから信じられなかった」

「それだけ高畠さんがお父さんの事を思ってたんだね」

「……。だけど、伯父は、私を、指、さして」

 空は声を震わせた。息を詰まらせ、細切れの言葉を吐き出す。

「ほら見ろ」

 弘一が何を言ったかすぐにわかった。

「あの秀二の娘だ」

「よせ」

「やっぱりこいつも」

「もういい、やめろ」

「頭がおかしいんだよ」

「空」

「何度も病院を」

「もういいから」

 空を黙らせようと、僕は彼女の頭を胸に抱え込んだ。

「もういい」

「私だっておかしいんだと」

「黙れ」

 もう片方の腕も伸ばして抱きしめた。こうでもしなければやめないと思った。

 腕に伝わる彼女の震えや細い骨格が、僕の中の何かを呼び覚ます。人に触れるという事、腕の中に誰かがいるという感触の現実、つまりそれは自分ではないものが、

 ≪刺をさすように≫

 ≪内部に入り込んだとさえ≫

 ≪痛みを伴う異物感≫

 ≪あるいは充足感かもしれない≫

 これは、

 何だ?

 疑問と、空の感触への渇望が、ぐるぐるぐるぐる、閉じた目にまだ見えている赤い螺旋のように痛く痛く痛く、


 ≪さみしさが増すだけなのに≫


 僕にはまだわからない、きみはもう答えを見つけたのか。


 このまま、


 このまま、何だというんだ?

 空が身じろぎした。

「放して」

「いやだ」

 なぜ僕はこうしているのだろう。そうだ空が壊れだすように見えたから、けれどどういう事なんだろう、腕に力を込めて、すがりついているのは僕の方だった。何かがおかしい。どこかが曲がっている。

 ゆっくりと腕をほどき、僕らはひどくくたびれて離れた。間に一人分の空間があった。今まで当たり前のように見えていたのに、そこだけひやりと冷たい。そこには見えない水がある。

「病院に通ってた頃」ぽつりと空が話し始めた。落ち着いた声だった。「外に出るのが怖かった。見えなくても何かあるのだけわかって。空気が重い。何かのせいで。重くて重くて、歩けなくなって入院した。だけど何かは、怖いだけじゃないんだって教えてもらった」

「誰に?」

「センセイとか、お父さんとか、高畠さんとか」

「うん」

「でも、今、私もお父さんにどうしたらいいのか訊きたい」

 ちくりと刺さる。「何を?」

「死んだお父さんがはっきり見えて、この絵の意味がわかった」彼女は『木霊』の葉書を拾い上げて角を額に当てた。「だから、こんな時どうしたらいいのって」

 僕は背筋が固くなる。もしこれが、空木秀二が本当に見ていた眺めなら。

「僕には何も見えない」ドン、と僕は空との間の床を叩いた。「ここに彼女はいない」

「見えなくても」空もこちらを向いて叫ぶように言い、声を落とした。

「さっき高畠さんの事、それだけお父さんの事を思ってたんだね、って言った。そう言い切れるのは」

 刺だ。

 痛い。刺を、動かさないでくれ。

「野宮君も」

「言うな」

 僕は、最後の手段をとった。


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