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第3章

 暗い通用口から次々に出てくる人々の暗い色彩の中で、赤いアノラックの山崎はとにかく目立った。180センチの長身は動くだけで目を引く。

「今日はうちに泊まれ」の第一声。僕はそれに従う事にした。

 山崎の部屋は荒川を越えてすぐの町にある。明かりを点けると、床に散乱した様々な物の中に獣道のような空間があり、僕らはそこを歩いた。ヒーターの点火するブーンという音を聞きながら辺りを見回す。雑誌、紙、紙、紙。灰皿、カップさえ床に置いてあり、その横には少し広い空間があった。山崎はそこをさして「そこ座って」と言い、アノラックを床に脱ぎ捨てた。

「おまえの辞書に収納の文字はないのか?」

「食った事ない」

 途中で買った缶ビールを開ける。僕らは部屋の隅と隅に、向き合って座り壁に寄り掛かった。山崎はごくごくとビールを飲んで、「さて、」と口火を切った。

「空木秀二について何が知りたい?それとも空木梢子の方かな」

「両方」

「欲張りめ」山崎はひよこ頭を掻いた。





 空木秀二が亡くなった事故は約半年前、梅雨の頃で、その日も雨が降っていた。山道の急カーブ、濡れた路面、暮れ方の視界の悪さ。事故を引き起こす条件は十分に揃っていた。にも関わらず、T美大では空木自殺説が囁かれた。

 それは空木の作品のイメージがそうさせたのかもしれない。

 だが、あの日空木が「なぜそこにいたのか」、誰も知らないのだ。

 空木の同期生であり親交のあった教授までもが「自殺かもしれない」ともらした事があった。誰かに会った様子もなく、山でスケッチや資料写真を撮ったりするような道具も一切なく───そもそもその日は雨だったではないか───、梢子に行き先も告げず、空木秀二は身一つで消えるように死んでしまった。





「空木梢子は父親の死をなかなか受け入れられなかったらしい。梢子にとって家族は父親だけ、って感じだった。空木は離婚してるんだ。高畠サンがしばらく空木の家に通ってた。空木には兄がいるんだけど、秀二とは反りが合わなかったみたいだな。梢子の面倒を見るのも嫌ときたもんだ。もっとも、梢子も嫌がったらしいけどね」

 山崎は小さく笑った。

「どうして」

「さあ、そこまでは」

「店長には何て?」

「学校でこういう噂があって、高畠サンも否定しないってだけ。一応事実だろ」

 僕らはふふ、と力無く笑った。山崎が以前から空の身近にいたのは意外だった。空はそれを知らないらしい。「空ちゃんには黙ってて」と山崎は言った。

 電話のベル。「はい山崎」とラーメン屋のように受ける。「ああ。今?おまえの知らない奴来てるけどいい?うん。じゃ」

「誰か来るの?」

「高校ん時の友達。あいつ来る前に、これ見せとく」

 そう言って山崎は机の抽斗から葉書を一枚出した。端の汚れた、古い絵葉書だ。

「埼玉県上尾市、山崎隆一郎様」

「親父の名前読んでどうする」

「空木秀二・空木梢子絵画展…あれ、父親宛の葉書を何でおまえが」

「裏」

 言われるままに葉書を裏返した。目に飛び込んだ絵に、僕は息を呑んだ。

 水平線の上に、遠く近く、幾つもガラス板が宙に浮いている。ガラス板の上には木の生えたものと人が佇むものがある。空は火事のように赤く燃えている。海を縁取る入り江は静まり返っているのか、黒い影で描かれていた。そして、

「どうだ?」山崎が訊いた。

「怖いな…。風も動けないだろう」

 空を、海の上を、透き通る人々が空間をびっしりと埋め尽くすように立つ。顔などの特徴を持たないが、その歪んだ姿が苦しそうだった。僕は再び葉書を返して見た。


   空木秀二『木霊』


 コンコンと軽いノックの音にびくりとした。山崎が出迎える。

 入ってきた男は女の子みたいな顔をしていた。目深にかぶった帽子の下でも真っ黒な丸い目が強烈に印象的だ。いきなり「山崎、片づけって知ってる?」と言ったので僕は笑った。彼は逢坂と名乗った。

「どうした」

「急に顔見たくなった」

 散らかった床をてきぱきと片づけながら彼はそう答えた。山崎は「そうか」と言って僕の手から葉書を取り戻すと元の位置に座り、片づける彼を見ているだけだ。

「野宮が見て来た絵は?」と訊かれ、僕はパンフを山崎に渡す。

「逢坂、終わったらこれ見てくれ」

「うん」

 逢坂は勝手にお茶をいれて煎餅の袋を開けると、僕にどうぞと勧めた。山崎から葉書とパンフを受け取り「僕に構わず、勝手にやっててください」と言った。

 奇妙な二人だ、とぼんやりと思った。

 山崎が煙草に火を点けた。

「野宮はおもしろい事を言うな。風も動けない、か」

「思ったままを言っただけだよ」

「『水からの飛翔』は?」灰皿に灰を落とす。視線もそこにある。

「あの水はどこなんだろうって」

「水?」

 思い出した。「前に観た映画で、そんな場面があったんだ。湖に女の水死体が浮かんでいる。裸じゃないけど。それがとてもきれいだった」

「湖か。相模湖」

「本栖湖」ふいに逢坂が口を挟む。

「琵琶湖」

「十和田湖」

「屈斜路湖」

「りんどう湖」

「ファミリー牧場」

「茶化すなよ」

「早く止めろよ」

 二人のやりとりに思わず笑ってしまう。逢坂が絵葉書に目を落としながら「世界の隙間だな」と言った。

「世界に生じた亀裂とでも言うのかな。一瞬の隙。世界は僕らを通じて構成されてありながら、僕らは皮膚で外界と呼ばれるものを感じ、内側に自分という一個の世界を自覚している。こんなふうに」

 と、葉書の絵の面を僕らに向ける。

「だから自分と世界は融合しつつ、摩擦さえ起こす事がある」

「自分」僕が呟く。

「さっき僕らを通じてと言ったけど、僕がいなくても世界は在り続ける。ほんの三十分前には、野宮君だっけ、君の世界に僕は存在していなかったしね。そこで世界は個人の自覚という場所から始まって閉じる輪のような概念だと言える。日蝕のダイヤモンドリングの形だね。個人の単位で測った世界だけど」

「それでいいんだろう、亀裂は個人の内部世界に入るものだ」と山崎。

「そうだね、皮膚の外にあると知覚したとしてもそれは結局観念に過ぎない」

「空木秀二は…」

 二人は口を閉ざして僕を見る。

「水面はあらゆるものの狭間だ、と」

 しんと静まった。僕らはそれぞれ煎餅に手を伸ばした。ばりばり。ばりんばりん。沈黙を乾いた音で埋める。ばりばりばりばりばりばり。皆ヤケクソのように噛み続ける。ばりばり、ばりばり、ごくん。再び音が消えると、視線は逢坂に集中した。彼は困ったような笑みを浮かべて、パンフの『水からの飛翔』を手のひらで撫でた。

「個人の観念によって支えられているために、世界は閉じている。けれど他者と出逢い交わる事で、その形はとても不安定に揺れ続けてもいるよね。そこにふいに生まれる隙間に何かが入り込む。隙間に在る、それだけで、それは強烈な存在感を持つだろうね。刺をさすように、自分の」

 自分、という言葉を彼は噛みしめるように発音した。

「内部に入り込んだとさえ感じられる、それは痛みを伴う異物感かもしれないし、欠けていた部分の充足感かもしれない。いずれにせよ、あらゆるもの、と世界全体を示しながら、狭間という名を認める事で、世界は個人の観念の膜に覆われる事がわかる」

 そこまで言って逢坂はまた手にした煎餅を口の前で止めて、小さく息を吸い込んだ。

「その存在は世界の隙間という壮大な流れを漂い始めるんだ」

 ああ、だから、と僕は思った。だから僕はこの絵に美久を重ねてしまうのだ。

 部屋の扉に階段の手摺に夜の静けさに、時計の音に外灯の光にレールの響きに、美久は漂い続けている。

「ほら、」と山崎が彼にビールを差し出す。彼がパンフと葉書を前に置いて缶を受け取った。山崎は葉書を拾い上げるとごろりと横になった。

「世界の隙間、か。隙間にはこんなふうにたくさんの人が集まって動けないくらいになる事もあるのかな」

「そうかもしれないね」

 逢坂の答えに、山崎は葉書を投げ出すと寝返りを打って背を向けた。僕は葉書を手にする。空が言っていた「人の気持ちが見えまくっていたら空間に隙間がない」とは、こんな感じだろうか。美久の幻影に人がぶつかると思ったと言う空に、世界がこんなふうに見えていたら、どうなるだろう。

「人の思いはこんなふうに空間を埋め尽くしているのかもしれないね。何も知らずに駆けて行く僕らの周囲をめぐって」

「うん。多分」と僕は答えた。彼は天井を見上げた。





 翌朝、目を覚ますと山崎はいなかった。

「おはよう」と台所から声。逢坂が朝食を作っていた。炊きたてのごはんにワカメの味噌汁、鮭の切り身に卵焼き、茹でブロッコリー、味海苔。どこの旅館かと思った。

「山崎は」

「さあ。チョロQだから、あいつは」

 いただきます、と手を合わせる。湯気ののぼる食卓は懐かしい感じがするのに、目の前にいるのは会ったばかりのよく知らない人間なのが不思議だった。

「山崎の顔見たくなったって、何かあったんですか」

「え?」逢坂は、ふっと笑った。「まあ、おもしろい顔だしね」卵焼きを口に入れる。

「何か話があったんじゃないかと思って」

「話なら、もう昨夜したよ」

 いつのまに話したんだろう。横になった山崎がそのまま寝入って、僕らも毛布を総動員してくるまった筈なのに。

「山崎の世界の隙間にも漂う人がいる。きっと君にも。外側から見ると、時々それはとても魅力的なんだよ。絵の上に誰かを重ねるようにね」

 そう言って彼は微笑んだ。痛い言葉だった。





 逢坂が山崎の部屋の鍵を郵便受けに入れた。約束があるから、と帰る彼と一緒に、午前中に部屋を出た。忙しいんだな、と思った時、彼はそれに答えるように「やっと暇ができて」と言ったので少し驚いた。言葉はタイミング次第だ。

 自分の部屋に戻ったのは昼の少し前だった。留守番電話のランプが点滅している。ボタンを押すと二件と告げてテープが回った。

 一件目。妹。「お父さんとお母さんが、旅行のお土産があるから明日にでも来なさいと言ってます。自分でかけろー」笑い声。母の声が後ろに入る。「たまには電話しろ、だそうです。自分で言えー。ではでは」午後9時23分。

 二件目。ツー、ツー、という通話中の音。午後11時36分。

 真夜中近くだ。

 誰だろう、と思う間もなく僕はもうせつなさに心臓をつかまれて拳で額をこすった。

 夜中の電話、美久、電話線を伝わる息づかい、気配、繰り返しの、

 繰り返されるフレーズ。


 ≪どうして、≫


 そんな事、僕にだってわからない。


 血が急いで体中をめぐる。些細なきっかけでおかしくなってしまう。

「バカ野郎」

 誰に向かって言っているんだ?手のひらに美久の感触が蘇った。





 電車を乗り継いで約一時間半。温泉饅頭と鮎の甘露煮とそば。両親の旅行土産はどうでもよかった。部屋に一人でいるのが耐え難かった。

「兄ちゃん、兄ちゃん」

 妹の美幸がまとわりつく。六つも離れていると喧嘩もしない。

「夕飯はお寿司がいいって言って」

「やだ」

「宿題見て」

「兄ちゃんは試験なんだぞ」

「どうせだめなんだからいいじゃん」

「母さん、夕飯すき焼きにして」

「どっちもだめ。今日は生姜焼きなんだから」

「むう」

 休みで家に居る父の晩酌につき合う。父が鮎の甘露煮について蘊蓄をたれる。合間に母が旅館の料理や温泉の話を挟む。

 僕は今朝の逢坂との朝食を思い返した。似たような光景なのに空気がまったく違う。

 世界の隙間を漂う人。山崎にも。僕にも。…自分、に、も。

「あ、」

「何だ、柾」

 父は僕の声に箸を止めた。

 そうだ、空木秀二の世界の隙間にも漂う人がいた筈だ…。

 僕は急に、見た事もない空木秀二を近く感じた。あの怖ろしい『木霊』でさえこの手につかめそうな親しみ。胸のつかえは消えなくてもやわらかく溶けて沈んでいくような感じがする。何なのだろう、これは。

「美幸、あとで宿題持って来い」

 僕は箸を置いて二階に上がった。

 僕の部屋は物が少ないという寂しげな印象に包まれていたが、僕が入る事で明るさと呼吸を取り戻したようだった。僕は穏やかな気持ちで机に向かう。階下から聞こえるテレビの音や時折の両親の会話、隣の部屋で長電話する美幸の声は、かすかだったが確かでもあり、そしてとてもちょうどよかった。その居心地の良さ。ここが、僕の世界、僕の世界が始まって閉じるダイヤモンドリングのダイヤの場所。





 賑やかさは雑念を遠ざけるのだな、と思いながら実家を後にしたのが翌日の夜だった。母に持たされた大きな紙袋には甘露煮とそばと米。重いからいいと言うのを強引に押しつけられた。部屋はすっかり冷えきっていた。ストーブをつけてコートをかけ、お湯を沸かす。留守電のランプに気づいたのはコーヒーをいれてからだった。

 一件目。無言。午後10時47分。

 二件目。無言。午後11時25分。

 美久、きみなのか?

 だが、ツー、ツー、という音を聞きながら、それは僕の期待だとわかっていた。


 ≪どうして、≫


 どうしてなんだろうね。僕もそう思うよ。美久。


 ≪どうして、さみしさが増すだけなのに一緒にいたいのかしら≫


 どこかに、再び亀裂が走る。抱きたい、とただ思った。





 試験の間、学校と部屋を往復するだけだった。できるだけ河野や美久と顔を合わせたくなかったし、美幸の冗談も僕にとっては「冗談じゃない」という状況だったのだ。一度、遠くに美久の姿を見つけた時、「電話をくれた?」と尋ねたいと思ったが、その答えがイエスでもノーでも結局僕は心をかき乱されるのだとわかっている冷静さに水を浴びせられて走って帰った。

 河野が「やっとつかまえた」と話しかけてきたのが最終日、帰る支度をしてコートをはおった時だった。

「打ち上げやらないか?」

「悪い、今日からまたバイトなんだ」咄嗟に嘘をついた。

「つきあい悪くなったな」

「誰のせいだよ」

「……」

 今のは傷つけた。

「ごめん」

「いや」

 河野はそこまで一緒に行こうと言った。僕は後ろめたさからついていった。

 長い沈黙の果てに、どうしたって避けられない話なのだと思った。いや、どんな話題もそこへ行き着くのだろうし、むしろ余計な言葉は煩わしいだろう。河野は、すべてにおいて正面から向かって来る奴だった。今の彼が斜めから言葉を投げてくるなら、それは僕のせいなのだ。僕から言おうと決めた。

「行って来た。銀座」

「うん」

「美…」その名前を口にするのが辛かった。「及川さんの名前があったけど、一緒だったの?」

「…うん」

「そうか。好きそうだもんな」

「何が」

「絵だよ」

「ああ」

 途切れがちの言葉が手に負えない。

「…空木秀二の絵が良かったな」

「どれだっけ」

「『水からの…」と言いかけて、「何て言ったっけな」としらばっくれた。

「河野、僕の留守に電話した?金曜と土曜」

「いいや」

「そう、ならいいんだ」

「……」

 河野も思っているんだろう、その電話は美久からなのだろうか、と。

 結局河野は駅ビルの裏手まで一緒に来てしまった。バイトと言った手前、僕は守衛室の窓口で入館手続きをせざるを得なかった。それじゃ、と通用口の扉に手をかけると、河野が声を張り上げた。

「なあ、本当に、今度ゆっくり飲もうよ。話がしたいんだ」

 両目がじんとしてしまった。何とか笑みを作って、頷いてみせた。


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