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第2章

 二つめの駅で、空は「お疲れさまでした」と言った。僕も「お疲れ。また明日」と返し、閉まる扉の向こうの彼女が階段に消えるのを確認してから、鞄を開けた。

 見なくていい、と言ったきり無言のままだった。僕は展覧会のパンフを開いた。

 1ページ目。標本箱に並ぶデスマスク。

 2ページ目。鳥の巣に眠る子供。

 3ページ目。キューブに封じられた都市。

 暗い色彩の絵が続く。

 9ページ目の青白い絵が目をひいた。

 水面に浮かぶ裸婦を上から見た絵だった。

 空を映した水面に、翼を広げたような長い髪の裸婦と枯葉が浮かんでいる。目を閉じて青白い肌をした裸婦が、死体のようだと思った。

 何気なくその絵の下の文字を読む。


  空木秀二 『水からの飛翔』 199×年


 空木?

 僕は最後のページを開いた。出展者一覧はなかった。





 翌日、バイトが始まる四時まで待てずに、僕は昼休みに店に顔を出した。空の昼休みに合わせたのだが、遅番の丸山さんが出てきたところで空は僕と一足違いに休憩に出たという。店長が「野宮、飯まだか」と訊いた。はいと答えると「早いけど俺も1番出るわ。一緒に行こう」と誘われた。

 八階のそば屋へ行く。店長のおごりで天ぷらそばになる。久しぶりのリッチな昼食。空は地下の休憩室に行ったようだ、と店長が言う。空の話題が出たところで僕は「空木秀二ってご存知ですか」と尋ねた。

「野宮も気がついたか?まあ、山崎も空木秀二の後輩だからな」

「後輩?T美大の?」

「そう。山崎の専攻は日本画だけどな。あいつが描いたら日本画もエキセントリックだろうな」

と言ってひとしきり笑う。天ぷらそばが二つ運ばれてきた。店長は割り箸をパチンと割って先をこすり合わせる。

「空ちゃんは販売希望で面接に来たらしいんだけど、専務が、」専務、のところで顔をしかめて、ずるずるっとそばをかき込んだ。「空木の娘だって知って抱え込もうと考えたんだろ。空木秀二っていやそこそこ知れた画家だし、空ちゃんも高校生の時に父親と二人展やって、当時は話題になったんだ。知らないだろう」

「知りませんでした」

「うちにはまだ入ってきてないけどさ、新宿店や渋谷店じゃ、絵も扱ってんだ。新鋭画家の小品ってさ。主に版画だけど、空ちゃんが描けば話題にもなる、社員の絵なら独占できる」

「……」

「セコイよなあ」僕が言わなくても店長が言った。

「だいたい、父親が自殺したかもしれないってのに、親父がどうこう言って描かせるの可哀想じゃねえか」

「自殺」

「あ、」と店長は口が滑ったという顔をしたが「まあ、山崎情報だしいいか。空木秀二の死は騒がれなかったけど、少なくとも画壇には衝撃だったからな。車ごと転落死したんだ。事故って事で片づいてるけど不審なところが多くて、空木の周囲じゃ自殺説の方が有力なんだ」

「……」

「本社は空ちゃんの出勤は週四日までに抑えて描く時間を作るように、って言うんだけどさ。社員って事で入ってんのに店に出れない、扱いが違う、なんてのは良くないよなあ。俺は断固反対だ。…野宮、そばのびるぞ」

「あ、はい」

 それで、と僕は思った。双月堂の社員の雇用基準は高卒以上だ。空が高校中退だと言った時にひっかかった何かはこれだったのだ。

 七味の香りが鼻をつく。後で山崎にも確かめよう、と思った。





「名前聞いてすぐわかったよ。俺、空木の二人展行ったから」

 空はレジを締めている。レジが一日のレシートを送るガシャ、ガシャ、と大きな音を立てている時、僕と山崎は店の外側からシャッター代わりのネットを張っていた。

「俺と年のかわんない子がこんな絵描くのかって、燃えたから覚えてた」

「それで、か。山崎、店長にフカシ入れただろう」

「さすが」

 山崎はニヤリと笑った。

「店長はもともと反専務派だけど、今回妙に確信してるからおかしいと思ったんだ」

「俺も描くから言うけど、無理矢理描けったって辛いよ。それで描けなきゃクビ切るんだろ。専務辺りの人間は俺らみたいなペーペーとは直接会わないからね。だったら、あの江戸っ子を味方につけといた方がいい」

「策士」僕も笑い返す。「おまえは本社の偉いさんより怖いよ」

「確かに大袈裟に話したけどね。自殺説もあるのは本当だよ」

 レジの音が止んだ。

 沈黙。僕らは「またいずれ」と目配せした。

「見て、山崎君がブースカくれたの」

 空はポケットから怪獣ブースカのキーホルダーを取り出して見せた。「あら、かわいい」と丸山さんが指先にブースカを載せる。

「そう、これで俺様は一歩リードしたのだ」

「リードって?」と、空。

「5万光年くらい先で全然見えない」と僕。

「何とでも言え。後であの時のブースカが人生の明暗を分けたと思っても遅いのだ」

「山崎君って、変」

「それがだんだん魅力的に見えるものだよ、ハニー」

「そうかしら?」丸山さん、さりげないツッコミ。

「大丈夫、山崎のスピードには誰もついていけないからね」

「ああ、通用口の文字が涙でかすんで見えるぜ」

「とっとと帰れ、彩の国へ」僕は蹴りを入れる。

「空ちゃん、また明日ねー」

「私、明日休み」

 ああ、と山崎が搬入口の駐車場に倒れた。「さあ、バカはほっといて帰ろう」と聞こえよがしに言って空の背を押す。「お疲れさまー」と丸山さんがバスの時刻を気にして駆け出した。

「俺様の空ちゃんに触るなー」

「今の一歩が人生の明暗を分けるのだよ、山崎」

「二人揃うと漫才みたい」

 空は楽しそうに笑った。初めて見た。





 地下鉄のホームのアナウンスが終わって、僕はそこまでの道々に考えた事を言おうと決めた。

「空木さん、明日休みだよね」

「うん」

「暇?」

「うん」

「『水からの飛翔』の実物が見たいんだ。明日までだから」

「……」

「正確に言うと、銀座に行きたい」

「見たの?」

「うん。空木秀二の絵がいちばん良かった」

「……」

「『水からの飛翔』が見たいのもあるけど、銀座に一人で行きたくない」

「ありがとう。本心だね」

 空は僕の虚ろを見ている。そこでは何一つ隠せない。

「うん」

「いいよ」

 地下鉄の起こす風が僕らの髪を揺らした。





 夕方に空と待ち合わせた。今日から試験が終わるまで、僕はバイトを休む。学校から図書館へ寄った。少し気を引き締めなければ。それでも時折、突然に息苦しさがやってくる。閲覧室の静けさはいつも一人きりの恐怖を内包している。

 出発までの時の長さに足を取られるようだった。10分という時間ぶん、早く立ち上がる僕の弱さ。だが、勉強に打ち込むほど何も考えずにいれば、それは強いのか。

 銀座一丁目で地下鉄を下車する。ホームのベンチに腰掛けて、空は目を閉じていた。

「空木さん」と声をかけると、真っ黒な目を開いた。

「こっち」

 立ち上がると彼女は簡単に言って歩き出す。裾を踏みそうな長い黒のコートに髪とマフラーの赤が鮮やかだ。闇の中で見つけた何かの目印のように、僕はそれを頼りに後ろを歩いた。





 画廊は少し明かりを落としていた。入口から見渡すが目当ての物がない。『順路→』の札でここはL字型をしているのだと気づいた。無人の受付で記帳する。東京都文京区、野宮柾。空は一度訪れているからか、まっすぐ奥へと歩を進める。僕は和紙のページをゆっくりとめくった。月曜の日付まで遡る。その前日。河野の名はなかった。更に一ページ戻る。


  及川美久


 見慣れた細い文字があった。

 こんな事をして何になるのだろう。僕はひどくやるせない気持ちで順路を辿った。

 どの絵にも、印刷で見るよりも深い陰影があった。明かりのせいだけではないのだろう。大きなキャンバスの上には見落としていた細密に描かれた部分や筆の躍動感があった。僕は一点ずつ、ゆっくりと見た。『順路→』の札の角の向こうに待ち受けるものの予感。角を曲がると正面に『水からの飛翔』、そしてその前に空の後ろ姿があった。僕は焦りを抑えて壁の絵を目で撫でて、ようやく空木秀二の絵までたどり着いた。

 静寂が広がる。

 水面をたゆたう裸の女の顔は少し幼く見える。水の流れか水面は小さく波立ち、そこから静けさが部屋を満たしていった。鏡のように空を映し、波の影が濃い。その深さはどれほどだろうと思った。僕が溜息をもらすと空が小声で訊いた。

「どう?」

「うん」

 そう答えてから、なんて間抜けなんだろうと思った。

「これは、どこなんだろう」僕は尋ねた。

「うん?」

「どこから、どこへ、飛び立つんだろう」

「……」

 僕は絵から目を離さなかったが、空がいつものように手のひらを額に当てて俯いたのがわかった。

「父が聞いたら喜んだと思う」

 そう言って僕に顔を向けた。僕も振り向く。空の黒い目は濡れたように光って、泣き出してしまうのではないかと思った。慌てて目を絵に向けた。空も絵を見て言う。

「水面は狭間なんだって父が言ってた。何の、って訊いたら、あらゆるもののって言った。本当にそうなら、それはどこでもないんだと思う。どこかの深みに沈んでしまいそうな危うさから、どこへでも飛び立てる期待感。だからこの絵に惹かれる人は、この絵に誰かを重ねてる。自分の中に棲む誰か」

 美久。

 『水からの飛翔』に出会った瞬間から、彼女の細い体を僕は思い出していた。ゆらゆらと不安定な視線や頼りなげな影、水に流されるようなはかなさ。

「きみも誰かを重ねているの」

「私には、できない」

 空はすっと絵から離れた。僕はしばらく『水からの飛翔』とその前に立つ美久を思って動けずにいた。その後に見る絵は生彩に欠けて見え、入口の手前まで戻ると既に見た絵は壁から外されていた。通りに面した入口の半分にシャッターが下ろされていて、僕は慌てて腕時計を見た。

「野宮君、ちょっと待って」と背後から空が言った。振り返ると空は年配の男性と一緒で、奥から白手袋の若い男が額を外した『水からの飛翔』を手に現れた。男は手早く絵を包む。

「そちらは?」

「双月堂のバイトの野宮君です。野宮君、こちらはオーナーの守屋さん」

 軽い会釈を交わした。

「急ぐならすぐに運ばせるのに」

「せっかく来たから、自分で持っていきます」と言って空は伏し目がちに続けた。「そうしたいんです」

「そうか」

「ありがとうございました。たくさんの人に見てもらえて嬉しかった。この絵が私の所にあるのも守屋さんのおかげです」

「それは梢子ちゃんの手元にあるべきなんだよ。空木君の最後の作品だ。それに、君はモデルなんだから」

「えっ」と僕。そんな事、一言も言わなかったじゃないか。

 空は「え?」と僕を振り返り、少し間をおいて「あっ」と叫んで赤面した。僕もつられて赤くなる。僕は本人の横で、その裸の絵を凝視していたのだ。

「梢子ちゃんがモデルの裸婦像は他にもあるよ。見るかい?」

「守屋さん!」

「いえ、結構です!」

 僕らは同時に叫んだ。





「どういう事なんでしょうね」

 僕はキャンバス用の大きなナイロンバックを担いで歩きながら横目で空を見た。少し離れて歩く彼女はもうずっと額に手を当てたままだ。外灯の点る銀座は古い歌のような郷愁を失いつつある。東京、という名前で括られてしまうのは、夜が明るくなって街が人に繋がれ続けたからじゃないかとふと思う。

「だって誰もこれを私だと思って見ないもの」

 その通りだ、と思った。

「じゃあ、見なくていいって言ったのは」

「本社で父の事ばかり言われたから。本社は嫌い。空木秀二が高く評価されるのは嬉しいけど、それは私とは違う」

 赤信号で立ち止まる。

「そうだね。この絵のモデルがきみでも」僕は言葉を探った。「この絵の中にいるのはきみじゃないのと同じだ」

 空は無言で頷いた。信号が青に変わり、横断歩道を渡る。向こうから、コートをはおった背広姿の男が携帯電話で話しながらやって来た。男が僕と空の間を足早に通り過ぎるその時、彼女は「あ、」と振り返った。

 僕も男を振り返る。知り合いだろうか?と彼女を見ると、立ち止まったまま男の背を見送って、それから虚ろな目で周囲を見回した。

「空木さん」

「ぶつかるかと思った」

「大丈夫、絵に当たらないようにちゃんと避けたから」

 僕はバッグを抱え込む。空は弱々しく首を横に振った。

 青信号が点滅を始めても彼女は呆然としていた。僕は彼女の腕をつかんで歩道まで駆けた。タクシーのランプが次々流れ出す。小声で何か言うのが聞こえない。「どうしたの」と顔を近づけた。

「彼女にぶつかると思ったの」

 背中が凍り付いた。

 空はずっと僕の隣の美久を見ていたのだろうか。空木秀二の言葉を借りて語るその間も。すべてを見透かされるような恥ずかしさと畏れが背後から追ってくる。

 それから口がきけなかった。地下鉄の明るさの中で言える事など一つもなかった。僕の降りる駅で「重いから、家まで持って行こうか」と尋ねた。「大丈夫、自分で持って行ける」と空は答えた。ホームに降りて彼女を振り返ると、シートに座った彼女はもう目を閉じていた。





 改札を出ようとポケットの切符を探り、ふと思い立って数メートル引き返した。公衆電話の前に立ち、腕時計を確認する。山崎はまだ店にいる筈だ。僕は手帳を取り出して電話をかけた。

「お疲れさまです、野宮です」

「お疲れさまです。どうしましたか?」

 丸山さんはいつも変わらぬ穏やかな調子だ。空の言う丸山さんの安心感に僕は救われる。

「山崎いますか」

「お待ちください」

 おそらく側に客がいるのだろう。笑いを抑えながらの事務的な言葉だ。程なく山崎の「お疲れさまです」という声がした。

「終わったら会えないか?」

「どうした?」

「空木秀二の絵を見てきた」

「わかった」

 何と有り難い奴なんだろう。

「今、どこ」

「うちの近くの駅」

「そのまま電車に乗って出て来い」

「OK」

 二人同時に電話を切った。


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