48.四日目の期待は霞のように消え
「……強い」
これで本当に百戦百勝となる。
まあ、実力差を考えればこんなものだ。
今日もあたりまえのようにビスト・ジャクフルを下したアイスは、「まあこんなものだろう」と感慨もなく思っていた。
アイスは伊達で国を挙げて祭り上げられているわけではない。
実力が見込まれてこそ、大々的に売り出されたのだ。容姿関係は次点の売りだ――両方揃ってこそ、でもあるが。
そこら辺の事情を勘違いしている者も多い。
特に、剣に限らず、腕に自信がある者だ。
ビストも最初はそうだったようだが、いい加減認識は変わっているだろう。
「まだやるか?」
跳ね飛ばした木剣を拾うビストに問うと、彼は息も切れ切れに苦笑して首を振った。
「いえ……もう限界ですので」
アイスは、受け流したり足を掛けて転ばせたり剣を落とさせたりしているので、ビストの身体に打ち込みはしていない。
なので怪我はないが、それでも体力の消耗は激しい。
この三日で、手合わせを百本行った。
ビストはすべて勝ちに行った上で、こなした。
全身全霊を持って行う手合わせは、一本一本で使う体力と精神力がかなり大きい。
三日で百戦。
その折れない心と根気と執念だけは、いっぱしの騎士以上のものがある。
「食事くらい誘われれば行くが」
初日のことである。
最初の一本をあっさり奪ったアイスは、ビストの時間と体力が許す限り、手合わせに付き合った。
体力の限界に近づき、ビストが降参すると、言った。
――食事くらい行く、と。
それに対してのビストの返事は、こうだった。
「約束は約束です。……ただ、もし迷惑じゃなければ、何日か通わせてください。そして貴女に勝って、約束を果たしてほしい。いけませんか?」
「そうか。私に用事がない時ならば構わないが」
アイスは気軽に、それを受け入れた。
ほぼほぼ監視状態にあるアイスと接触するとなると、ビストに向けられる周囲の目がだいぶ厳しくなる。
が、それはビストの問題だ。
彼はきっとそれがわかっていて申し込んでいるはずなので、あえて言うことはない。
それが三日前のことである。
――この時イリオは「気づけアイス様! 早く彼の気持ちに気づけ!」と強く念じていた。
当然、まったく通じていなかった。
こうして、二日、三日と、ビストがアイスの元に通ってきた。
やることは、手合わせと、その合間に二、三、剣や体さばきに関して言葉を交わす程度。
甘酸っぱい言葉のやり取り――いわゆる男女のそれは、一切ない。
アイスはただの訓練程度にしか思っていないようで、ビストを男と認識していない。言わば合同演習の延長と捉えているようだ。
訓練の時は、アイスは男性を異性として意識することはないのだ。
ビストも、秘めた想いを言葉にしようとはしない。
――時々妙に熱い視線をアイスに向けているのにイリオは気づいたが、アイスはまったく気づいていない。
そう、あたりまえのように気づいていない。
そして、三日目の今日である。
「日が短くなってきたな」
晩秋を過ぎようという昨今は、空が赤く染まるのが早い。
この数日は、昼過ぎからビストとの手合わせをしている。
過ごす時間が長くなっているのか、単に夜が来るのが早くなっているだけなのか。
このまま続けていたら、ビストの体力切れより先に、時間の都合で手合わせが終わりになりそうだ。
「――今日も、ありがとうございました。失礼します」
世間話、というほどでもない言葉に返事はなく。
涼しげなアイスとは正反対に、汗でドロドロのビストは一礼して踵を返した。
不愛想だが、潔い。
話も何もかも、とにかく約束を果たしてから。
完敗してなお堂々と去っていく背中には、そんな気持ちが表れているようだ。
「夕食の準備ができていますが」
なんとかこの出会いをどうにかできないかと考えているイリオは、今日こそ捕まえられやしないかと声を掛けてみる。
今日も無理だろうな、とは、思いつつ。
色々と調べた結果、このビストは、アイスの好みと要望に結構添っている。
若干女好きの気があるようだが、浮気の事実はなかった。
まあ、若い男なら、むしろ女に興味がない方がおかしいとは思うので、問題ないだろう。アイスだって恋人がいた男はイヤとは言っていない。
同僚になる騎士たちからの評判も、悪くなかった。
今の厳しい顔をしているビストからはあまり想像できないが、冗談で偉ぶって人を笑わせるような明るい性格だったとか。
アイスはぶっきらぼうでおしゃべりというタイプではないので、意外と相性も良いかもしれない。
まあ、今のビストからは、想像もつかないのだが。
「申し訳ない。勝てなかった」
手短にそれだけ言い、ビストは足を止めることなく行ってしまった。
なんとか会話の機会を作れれば、と考えているイリオだが、ビストが乗ってこないのではどうしようもない。
アイスを突っつくのは簡単だが、変に意識されると、この関係さえ壊れてしまう気がする。
だから、アイスには、自分で気づいてほしい。
そう思ってはいるのだが……
「腹が減ったな。少し早いが夕食にしよう」
ビストを見送るイリオの横に、アイスが立つ。
ただ手合わせに負けるだけでイリオの望みが、ひいてはアイスの望みが叶うかもしれないのに、汗一つ掻いていない余裕の顔である。
もう、気づこうという意志さえ感じられない。
出会いたいという意欲が感じられない。
突っつきたい。
「ビストってアイス様のこと好きだよ」って無遠慮に言ってやりたい。
無関係をよそおって余裕の顔した主に、言葉の暴力を振るってやりたい。「アイス様そういうところあるよね」となじってやりたい。
だが、これは本当に大事な、出会いの機会である。
この手の大事なことは、人の手を借りず、本人に気づいてもらいたい。
それに、偶然だが、王妃の庭で出会ったのもいい。
先の茶話会で出会いがあり、結婚相手が決まったとなれば、過程は予定外だが王妃のお膳立てのおかげとメンツも保てる。
気づけ。
気づけっ。
「今日の夕飯はなんだ? ――いたっ。なんだ急に」
さすがに我慢できなかったイリオは、アイスの腹に軽く拳を叩き込んでおいた。
期待できない。
アイスには期待できない。
イリオは、二人を近づけるために更なる手を講じるが、しかし。
四日目。
今日もビストがやってきた。
「では始めようか」
「よろしくお願いします」
ここのところ、あたりまえのような景色になっている、アイスとビストの手合わせ。
百回を超えた今日も、ビストに勝ちの芽は芽吹かない。
戦乙女だから結婚できなかったとするなら、今日もまた、強すぎるという不幸がアイスの願望を蝕んでいると言えるのだろう。
更に不幸なのは、本人がそれに気づいていないことだが。
家事をこなしながら二人の手合わせをチラ見しつつ、ビストを引き留める方法を考えているイリオだが、何も思いつかない。
そもそもビストに乗ってくる気配がないのだ。
アイスにとっては関係者でも、ビストにとってはただの使用人。
いわゆる「部外者」という立ち位置にあるイリオでは、どうしようもないのかもしれない。
今日も夕方まで続けられた手合わせは、やはり、アイスの全勝で終わった。
「もう少しだな」
手合わせを重ねるたびに、少しずつだが、ビストは強くなっている。
剣を受けているアイスには、一目瞭然だった。
「それは貴女が導いてくれているからです」
深く深呼吸し、荒れていた息を整えたビストは、珍しく返事をした。
「この数日でよくわかりました。
貴女は強いだけではなく、とても優しい。
私の剣を、動きを、すべて一段上に導くように立ち回っていた。傷つけることなく、流れに逆らわず、跳ね返すこともせず、更に流れるよう動いていた」
汗を光らせ語るビストは、堅く厳しい顔はしておらず、どこか晴れやかに笑っていた。
「力はともかく、技術、経験、そして才能に、大きな差を感じます。
それと人間性も……私の想像を超えた偉大な女性です」
「あれ?」と思った。
その言葉を受けているアイスも、それを見守っているイリオも。
この流れは、まさか、そう、あれだ。
――愛の告白があるのでは!?
瞬時に期待に満ちた女二人は、男の次なる言葉を待った。
「アイス様――」
そして、男は言った。
「――私などに時間を割いていただき、ありがとうございました。私はもうここには来ません」
瞬時に満ちた期待が、瞬時に消え失せた。
いきなりのそれに戸惑っていたアイスはともかく、ビストの本心を見抜いているイリオには信じられない言葉だった。
なぜ言わない。
なぜ、この流れで、告白しない。
どうせ来なくなるなら、告白した上で消えればいいのに。
「貴女に導かれる剣は、経験したことのないほど充実した訓練となりました。このことは忘れません」
呆然とする女二人を置いて、一人だけスッキリした顔のビストは、去っていくのだった。