43.美しき花壇は儚く崩れ、いざ出陣の時が来る
「なあイリオ、この服どうだ? ああ、こっちでもいいかな」
今までオシャレに気を遣ったことさえなかった氷の乙女が、そわそわしながら半裸でクローゼットに頭を突っ込んでいる。
その姿を見て、専属メイド・イリオは、核心に至った。
「もう特訓は必要ないみたいですね」
「えっ」
アイスが驚き振り返る。
「必要ない……? もう店には行かないのか?」
「もう男性と会うと聞いても楽しむ余裕があるみたいですし、必要ないかと」
ここ数日は、連日で夜のお店に遊びに行っていたので、アイスは当然今日も繰り出すのだろうと思っていたようだが。
しかし、男に囲まれてキャッキャするあの状況を完全に楽しめるようになったのなら、もう安心だ。
今のアイスなら、それなりに、男性をさばける器量が身に付いているだろう。
男だと身構えるとこなく、目を見て話し、自分の意見を伝え、そして相手の話も聞いて。
傍目に見ても、男に対する不要な警戒心も、だいぶほぐれたと思う。
そして何より、アイスの飢えた野獣の部分が、完全に大人しくなっているから。
二十四歳の女性として、人並みにはなったんじゃなかろうかと、イリオは判断した。
「いや、待て。待つんだイリオ」
着替えを見守っていたメイドに、下着姿のままの主が歩み寄る。
「急すぎるだろう。今日もルカくんとレイトくんが待っているんだぞ。私を」
ルカくんとレイトくんは、夜のお店で出会った、非常に可愛い男の子たちである。
面食いではないと自覚していたはずなのに、アイスの好みは、露骨にわかりやすかった。
「アイス様を待っているのではなく、待っているのは財布の中身だけですよ。あの子たちは、仕事でアイス様に尽くしているだけですから。お金を歓迎してお金に優しくしてるんですよ」
「おい待て。急に現実を突き付けるのは、夜の世界ではナシだろう」
夜の世界を語れるほど知らないくせに、通ぶったことを言い出した。
イリオは、若干いけない世界にハマりつつあるアイスに、冷静に言い諭す。これ以上ハマると絶対にまずいことになる。
「お金のために『お姉さん大好き』って言ってただけですよ」
「やめろ! 人の思い出の花壇に土足で踏み込むな!」
アイスは声を荒げた。
「夜の世界に現実を突きつけるのはナシだろう! それが許されるのはぼったくり料金を請求された時だけだろう! ……いやぼったくりを推奨しているわけではないぞ!? それくらいの衝撃がいる禁止事項という意味だぞ!?」
本当にしょうもないことを力説し始めた。
なんなら、いい思い出のまま残してあげたかったが。
それこそ思い出の花壇で美しく咲き誇る、甘い記憶の花のまま残しても良かったが。
こうなってしまった以上、伝えねばならないだろう。
真実を。
アイスが一番知りたくないだろう、真実を。
「大丈夫ですよ」
イリオは微笑んだ。
「あれも嘘ですから」
「嘘……? いや、意味がわからないんだが」
「だから、ルカくんもレイトくんも、本当は存在しないんです」
「……え? いや、え、……本当に意味がわからないんだが……」
昨日も一昨日もその前も、確かにアイスは、可愛い男の子を左右に座らせてイチャイチャした。
それはもう、人生で初めてってくらいの、夢のような至福の時を過ごしたはずだ。
だが、イリオはそれを嘘だったという。
意味が分からない。
彼らがいたのは間違いないし、イチャイチャしたのも間違いないのに。
酒が入っていたものの、アイスの記憶にも鮮明に残っているのに。
戸惑うアイスに、メイドは無情な真実を告げた。
「あの子たちは、実は女の子です」
「……は!?」
「男の子っぽい女の子を探して、男装させて、アイス様の相手をしてもらっただけです。
更に言うと、あの店は非合法です。何せ、アイス様にしか利用できない店でしたから、そもそも店でもない。
だってアイス様を騙すためだけに、用意された店だったから」
諸々の話が着々と進んでいる現段階において、まさかアイスが自力で恋人を作ったり結婚相手を得たりなんてしたら、国のメンツが丸つぶれになる。
あの店は、「次は実戦形式で特訓します」と銘を打ちつつ外に連れ出して、一般人の男性と慣れることが目的だった。
いわゆる、仕込みのない体で行われた、実は仕込みありの特訓だったのだ。
しかし、アイスに本気になられたら困る。
酔った勢いで過ちが起こったら困る。
男の方が本気になって本気で口説き出して、イリオの監視を潜り抜けて、勢いで駆け落ちなんてされてももっと困る。
なので、用意したのだ。
アイスだけが遊べる、絶対に安全な夜の店を。
スタッフは全員女性。
更に言うと国の息が掛かった人だけ集められた、情報漏洩の心配がない空間だ。
そして、もうアイスには必要ないと言われれば、即時撤収が可能な、書類上は存在しない即席の店であった。
これが国の力である。
店の一つくらいはすぐに用意できる、これが国の力である。
国の力を使ってまでやることがこれか、という疑念は尽きないが。
「びょ、病気の親のために、夜のお店で稼ぐ必要があると、ルカくんが……」
「アイス様からお小遣いを巻き上げるための嘘ですね。バカみたいにばら撒いてましたね。国から貰ったお給料や報奨金を」
なお、本当に彼女の臨時収入となっている。
「わ、私のような綺麗なお姉さんと知り合って結婚するために、あえてこの世界に飛び込んだというレイトくんは……」
「アイス様を喜ばせるだけのリップサービスですね。彼女、アイス様のファンだったので」
夜のアイス様にちょっと幻滅してましたよ彼女、とは、言わないでおく。知らない方がいい真実とは存在する。
「まさか……」
アイスのために貸し切りにしてある、と言われたおかげで、ほかに客がいないことを疑いもしなかった。
彼らと過ごした甘い時間が、紅茶に落とした角砂糖のように、さらさらと溶けて消えていく。
脳裏を過ぎるは、あの夜の記憶だ。
――「僕のぴっちり分けた前髪を、お姉さんの唇で乱して欲しいな……」と耳元で囁いたルカくん。
――「お姉さんの匂いが身体に移っちゃった……責任取ってくれる……よね?」と、からかい半分で笑ったレイトくん。
思い出の花壇は、もう完全にぐちゃぐちゃである。
アイスの心を惑わせた可愛い男の子たちは、実はいなかった。
あの夜の出来事は、存在しないにも等しい儚いものだった。
――だが、目が覚めた。
「そうか。冷静に考えると、あんなに可愛い男の子がいるわけないものな。むしろ納得できた気がする」
どことなく不安を煽る変な納得のしかただが。
「特訓は終わり、か……そうだな、さすがにもう大丈夫だろう」
とにかく、アイスは一ヵ月にも及ぶ特訓を終えたのだった。
「……ルカくん、レイトくん……さよなら……」
ほのかに甘く苦い、小さな心の傷だけを残して。
秋がやってきていた。
いつの間にか暑さは薄れ、昼は暖かく過ごしやすいが、夜は冷え込むようになっていた。
そして、約束の日がやってきたのは、アイスの特訓が終わって一週間後のことだった。
隠密裏に進んでいた茶話会の準備が整ったのだ。
例のリストから、更に的は絞られていた。
アイスの好みや要望を可能な限り聞き入れ、厳選に厳選を重ねて選出されたアイスの結婚相手候補の男性陣たちは、数名にまで減っていた。
その数名は、密かにグレティワール城にやってきている。
派閥、推薦、権力による圧力やコネといった外的要員を可能な限り削ぐために、この茶話会の開催は極秘のまま進められた。
国の意向と事情と兼ね合いもあり、グレティワール王国出身者の中から選ばれた男たちしかいないが、アイスはそこに不満はない。
これが特訓の成果、男に慣れた女の余裕の表れだ。
「――では行くか」
気負いのない普段着で、アイスは椅子から立ち上がる。
そろそろ茶話会が始まる時間である。
「――そうだ。イリオ」
黙って追従するメイドを振り返り、アイスは言った。
「約束を守ってくれてありがとう。そなたが望む通り、私は幸せになる」
「……」
イリオは黙って頭を下げた。
――がんばれ、と祈りを込めて。