41.とある日の一幕 中編
「では行ってくる」
今日の出動は、昼食後しばらく経ってからだった。
のんびり雑事をこなしていたアイスは、普段着のまま現場へと急行した。
専属メイド・イリオは、アイスが飛び立つのを見送った。
ここのところ、例の結婚できる件で浮かれているアイスだが、戦乙女の仕事はちゃんとこなしている。さすがに浮かれて様々なことをないがしろにはしていない。
ただ、ちょいちょい腹が立つ言動が多いだけで。
十年ほど傍にいて見てきたイリオは、ほぼほぼ自分を律することに長けていると思っていたアイスの調子に乗った言動が、ちょっと気に入らない。
そういうキャラじゃないだろ、と。思わずにはいられない。
浮かれる気持ちもわからなくはないが、調子に乗った奴が取り返しのつかない大失敗をしてくる様を、何度も見てきた。
こと政治においては、そういうのが非常に多いから。
地方領地の脱税や領民への圧政など、「バレるわけがない」と高を括っている権力者が誰かに蹴落とされる様など、まさにそれである。
ましてやアイスは、調子に乗るという態度自体が、自分で思うほど慣れていない。あるいは周囲が見慣れていない。
だから、こう、なんというか、癪に障るのかもしれない。
そこで、イリオは一計を講じた。
イリオはアイスに、取り返しのつかない失敗をしてほしくない。
今のアイスは色々不安で、もしかしたら戦闘中でさえ浮足立つ可能性も否定できない。
特にアイスの場合は、こうして戦うべき時が頻繁にやってくる。
失敗が、命に関わる可能性が充分にあるのだ。
早めに普段のアイスに戻ってもらわないと、不安で仕方ない。
まあ、もちろん、それだけが理由というわけでもないのだが。
アイスが移動したのを確認し、イリオは両手を固めて作った笛で、山鳩の鳴き声を発した。
暗部同士で連絡を取り合う時のものだ。
すでに方々との打ち合わせは済んでいる。
一応、何が起こるかわからないという問題も考慮し、王妃に許可をもらっている。王妃は相談を持ち込んだイリオの不安や心配を汲んでくれたのだ。
そして、彼がやってきた。
「――やあ、イリオ。来たよ」
その男は、見た目に反して音もなく敷地内に侵入し、足音もなく歩み、振り返ればイリオのすぐ近くにいた。
「久しぶり、フォア」
小太りのタル体型、険も害も感じさせない常に笑っているような健康的で丸い顔、カツラのようにちょこんと乗った巻き毛の金髪。
どん臭さ際立つ見た目に反し、不思議と気品を感じさせる雰囲気は、昔からそのままだ。こざっぱりとした格好をすれば、そこそこの貴族っぽさを感じさせる。
この丸い男はフォア。
イリオと同期になる暗部の一人だ。
彼の潜入先は、「マヌケな世間知らずの金持ち」が求められる場所である。
人身売買組織や裏マーケットの調査、犯罪集団への被害者側からのアプローチ、珍しいものでカルト教団への潜入もこなす。
なお、太って見えるのは表面だけで中身はほぼ筋肉だし、見た目の鈍重さに反して素早く動く。特に武器を持てない状況での接近戦は強い。体重そのものが武器と言えるから。
まあ、性格だけは見た目通り、温厚ではあるが。暗殺者の任も兼ねてはいるが、潜入調査のみの仕事の方が好みだ。
「話はわかってる?」
「うん。アイス様を口説けばいいんでしょ?」
そう、この男は、アイスを口説きにきたのだ。
「優しく、誠実に、そして愚直にお願いね。アイス様は恋の駆け引きとか一切できないし、経験もないから」
「男性不信から来る奥手、みたいな噂は聞いてたよ。意外だよね。イメージでは恋愛もスマートにこなしそうなものだけどね」
戦乙女は結婚を機に引退する。
が、より具体的に言うなら、巫女としての資格を失った瞬間に、力を失うのだ。
戦乙女だけに伝承される話だが、ほかに一部の者は知っている。
この国なら、国王付近だけが知っていることだ。イリオも、もしもの時は全力で阻止しろと命じられた時に、国王から直々に伝えられた。
だが一般には知られていない事実なので、フォアのように思っている者も少なくないだろう。
「でも、僕でよかったの? 口説くとかそういう方面は全然得意じゃないよ」
「ちょうどいい」
自分でも割とひどいことを言っているな、という自覚はあるが、イリオはずばりと言った。
「その男として強く意識させないフォルム感、油断を誘う丸い顔と変な髪形感、さりとて不潔感や不快感は感じさせない小綺麗感。下品さが一切ない世間知らずの貴族の息子感。
あとのネタバラしなんかを考えると、心の傷になりかねない男男した男では、どうしても不都合だから」
だからちょうどいい。
最初はこのくらい、害がなさそうな男から始めるのが、ちょうどいい。
「相変わらず辛辣だね、君。その調子でアイス様も泣かせてるの?」
「まさか。泣かされているのは私の方よ。色々と手がかかる人だから」
――とは答えたものの、泣かされた回数は片手で足りるが、泣かせた回数は両手両足より多いな、とイリオは思った。
まあ思っただけだが。
軽い打ち合わせをした後は、のんびりお茶を楽しむフォアに近況などを聞きつつ、待つだけである。
果たして、ついに浮かれたアイスが帰ってきた。
罠が待っているとも知らず。
「――僕と結婚してください」
その光景は、ただただ「予定通り」の一言で足りた。
両肩を掴まれ、丸い男に迫られるアイスは、顔中真っ赤である。唯一色が違う青い瞳が、驚きに見開いたまま硬直している。
イリオの予想した通りだった。
結婚相手の候補がたくさんできたところで、アイスの恋愛経験が増したわけではない。恋愛レベルが上がったわけでもない。
こうして人畜無害の男男してない男に迫られただけでも、目を白黒させて戸惑いまくっている。
まるで、突然告白された恋愛を意識したことがない少女のように。
もう二十四歳なのに。
しょうもないものを見守るイリオがそろそろ止めるかと思った瞬間、驚愕の展開を見せた。
「……」
なんだと。
まさか。
おい。
――アイスが、目を、瞑ってしまった。固く、ぎゅっと。心なしか震えている気がする。二十四にもなって。なんだか若干腹が立つ。
「…………」
これにはイリオだけではなく、フォアも困った。
困った顔でイリオに顔を向ける。
拒否させることを前提にここまで強引に迫ったのに、まさか、受け入れ体制を取られるとは、微塵も思っていなかったから。
ここでアイスが覚悟したことをしてしまったら、それは間違いなく既成事実となる。アイスも貴族だ、やったこともやられたことも、責任を取らねばならない。
これはアレだろう。
完全に、この場の雰囲気に流されているのだろう。アイスらしくもない……とも言いづらい気がする。何せ本当にこの手のことに一切縁がなかったのだから。
イリオは心底思った。
――やっておいてよかった、と。
大切な大切なアイスを、どこかのつまらない男に取られる可能性を見てしまった。これは看過できる出来事ではない。
特訓が必要だ。
男に慣らす特訓が。