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1 北条吉乃は諦めない(前編)

予告通り閑話2つを投稿開始です。最初の話は全2話予定です。


新キャラ視点かつゲーム外での話となっておりますが、読んで頂けると嬉しいです。

「ええ!? 嘘でしょう!? どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ!」


「だって……。吉乃に教えたら、その場で仕事を放り出して帰ってきちゃうからって皆が……」


 長いようで短い出張が終わり、やっとで本社へと帰ってこれたと思った矢先に知らされた驚愕の事実。その事に対し私は憤りを露わにするも、同僚が口にした正論の言葉に対し反論する術を持たなかった。なのでこれ以上の追及は一旦止めて、まずは事態の把握に専念する事にする。


「……それで、なんで私が居ない間に先輩が会社を辞めちゃってるのよ?」


「何でって言われてもねぇ。吉乃もREO事件くらいは知っているでしょう? 月衛先輩もそれに巻き込まれたみたいで、1週間以上も会社を無断欠勤しちゃったのよ」


 REO事件、などと言われても私にはイマイチピンと来なかった。

 たしかゲーム内に人が閉じ込められたとかなんとか? 言われてみればそんな話をニュースか何かで聞いたような気もするが、忙しくて直近の仕事に関係ない情報は全て聞き流してしまっていたらしい。

 それよりも私にとっては、もっと聞き捨てならない事があった。


「えー! たかが1週間休んだだけで、先輩を首にしちゃったって事!?」


 それが本当だとしたら、とても信じられない話だ。

 勿論、私だって無断欠勤が重大な問題行為であり、解雇事由となり得る事くらいは理解している。

 だとしても、たったそれだけで先輩ほどの功労者を斬り捨てるなんて、絶対に有り得ないと私は思ってしまうのだ。


「それはまさかよ。月衛先輩、あんなに社長に気に入られてたんだし、そんな事するはずないわよ。まぁ他の社員に示しがつかないから一応軽い処分を与えて、それでその件は終わりにするつもりだったみたいよ?」


 そしてそんな私の予想はどうやら正しかったらしい。しかし疑問はまだ残る。


「……? じゃあなんで先輩が退職するなんて事になったのよ?」


「うーん。私もあんまり詳しくは知らないんだけどね。なんかその無断欠勤の件で月衛先輩、かなり責任を感じちゃってたみたいで、自分から辞めるって言い出したそうよ。社長とかも引き留めたみたいなんだけど、その意思は堅かったみたいね」


 そういう事情ならば確かに納得は出来る。

 突如ドロップアウト宣言をして私達に仕事を投げた癖に、その裏で何かとフォローに動いてくれていたのは知っている。いくら自分勝手に振る舞って見せても、そういう所でやはり本性は出てしまうのだろう。そんな先輩だからこそ、無断欠勤によって迷惑を掛けた事を必要以上に気に病んでしまったのかもしれない。


 ……まったく、先輩ったら相変わらずなんだから。


「理由はわかったわ。後は直接先輩に聞いてみる事にする」


 そうと決まれば行動あるのみ。私は携帯端末を取り出し先輩へと電話を掛ける。……しかし繋がらない。


「……もうっ、連絡先が存在しないってどういう事なのよ!」


「わ、私にそんな事言われても、知らないわよ!?」


 どうやら知らぬ間に、先輩は連絡先を変更していたようだ。

 その事実を私に教えてくれなかった事に、少し腹が立ってくる。


「私、ちょっと先輩の家まで行ってくる!」


「ちょっと吉乃――」


 同僚が止めるのも聞かず、私は会社を飛び出して先輩が住むマンションへと急ぎ向かうのだった。


 ◆


 私の名前は北条吉乃(ホウジョウヨシノ)。とある企業で働く24歳の乙女だ。

 今のところ恋人は居ないけれど、決してそれは私に女性としての魅力が足りていないからではない……と思う。

 事実、男性に言い寄られた経験なんて数えきれない程にあるのだ。それに同僚の女子達だって「吉乃ってさ、あんな性格ブスでも顔だけはいいから、男は騙されちゃうのよねー」なんて嫉妬と羨望の入り混じった噂話を耳に挟んだ事もあるくらいだ。

 ではどうして私は恋人を作らないのか。その理由は至って単純だ。


 そう、私には好きな人がいるのだ。


 その男性の名前は月衛樹。私より一つ年上の会社の先輩……だった。

 そして一時期、私は先輩の部下として働いていた。だからこそ先輩の凄さ、素晴らしさをとても良く知っている。


 実は私が入社して間もなく、会社は経営破たんの危機に陥っていた。

 当時の私は研修中だった事もあり詳しい状況については良く知らない。ただ伝え聞いた話によれば樹先輩の同期だったとある男性社員が、当時最大の取引先を激怒させてしまったらしく、それによって大口の取引が消滅してしまい、結果うちの会社はあっという間にピンチに陥ってしまったそうだ。


 そんな危機的な状況を救ったのが樹先輩だった。当時の先輩はまだ入社2年目だったにも関わらず、次々と新規顧客を開拓し、あっという間にその穴を埋めてしまったそうだ。そのお蔭で会社もどうにか危機を脱して、今現在はその業績はかつて以上となっている。加えてその一件を経た事で、従来の大手依存による不安定な状況が解消され、随分と経営が安定したとも聞いている。

 そのせいで先輩は、社長に大層気に入られる事になってしまったようだけれど。


 研修を終えたばかりの私が、樹先輩の部下として配属される事になったのはそんな事件のすぐ後の事だった。

 それからの私は、ちっぽけなプライドを叩き割られ、仕事のイロハを教え込まれ、そうして先輩に恋をする事になる。

 その経緯を語るには、少し前へと記憶を遡る必要がある。


 ◆


 大学時代の私は、そこそこ良い大学で主席の座を獲得したこともあって、少々天狗になっていた。

 そのせいか就職試験の面接でも舐めきった態度で挑んでしまい、結果として第1志望の企業を落とされる事になる。だが生憎とその程度では天狗の鼻は折れたりはしなかった。


「あっのハゲ親父! この私を落とすなんて、いくらなんでも見る目無さ過ぎじゃない?」


 今となっては恥ずかしい事に、当時の私は落ちた企業の人事の見る目の無さについて、ただ文句を垂れるばかりだった。

 しかもまさか面接で落とされるなどとは微塵にも思っていなかったせいで、他の企業を受ける準備など全くしていなかったという体たらくぶりだ。そういった事情もあり、今の会社へと入社したのは完全に妥協の産物であった。


 私は入社後の新人研修でも当然の如くトップの成績を収め、相変わらず周囲の人間を見下していた。だがそんな私の醜いプライドは樹先輩によって、完膚なきまでに叩き割られる事になる。


「俺の名は月衛樹。君の事は人事から凄く優秀だって聞いている。期待しているよ」


 初めて見た先輩の姿は、染み一つない真っ白な肌とサラサラとした色素の薄い茶色の髪、そして何よりどう見ても女性にしか見えない整った顔が印象的であった。事前に男性だとは聞いてはいたし、実際男性用のビジネススーツを着ていたので間違いないのだろうけど、それでもすぐには信じられない程だった。


「……へぇ、貴方が噂の月衛先輩ですか。優秀な方だとは聞き及んでいますが見ててくださいね。すぐに私が追い超しますから」


 けれど驕り高ぶっていた当時の私は、初対面の先輩に対してそんな暴言を吐いてしまう。


「そっか。それはちょっと嬉しい事を聞いたな。いやー、最近ホントに忙しくてさ。いっそ全部投げ出したいくらいだったから、もしそうなってくれればとても助かるよ」


 しかし当の本人は、そんな私の不遜な態度を気にした様子もなく、気安い態度で接してくる。その時の私はそんな先輩の姿を見て、所詮他の連中と同じかとすぐに見下した態度を取っていった。


 だがそんな態度を続けられたのは、ほんの数日の間だけ。すぐに先輩との間に横たわるとても大きな溝の存在に、私は気付かされてしまう。


「いやいや、何よこの仕事の量……。ちょっと有り得ないでしょう? あの人、一体いつ寝てるのよ?」


 当時の私は一つの会社を倒産の危機から救う程の仕事というものを、完全に甘く見ていた。勿論その全てを先輩一人でこなしていた訳ではないのだが、それでも新規顧客の窓口は全て先輩が担っていたのだ。それらは先輩の力で獲得した顧客である以上、他の人がそう簡単には代われない事情もあったため、それ事態は仕方がない事ではある。

 だがその結果として先輩へと圧し掛かる負担が尋常ではなかった。だから先輩が良く潰れないものだといつも思っていた。


 ……見た目は確かに若く見えるけど、実は私より結構年上なんでしょ? だったら仕方ないわよね。


 その事実を知ってもすぐには私は自身の実力不足を認められず、そんな言い訳染みた事を考えてしまう。

 そして好奇心から、ついこう尋ねてしまう。


「そういえば、先輩って今いくつなんですか?」


「ん? ああ、23だよ」


「ええ!? 嘘でしょう!?」


 だが返って来たのは意外な答えであった。先輩の言葉がもし本当なら、私とはたった1歳しか違わない事になってしまう。


「嘘って……? 俺ってそんなに若く見えるの……?」


「逆ですよ!」


 私が思わずそう叫ぶと「えっ? 逆なの!?」などと先輩は首を傾げていたが、どうも嘘を吐いているようには見えなかった。

 それでもやっぱり私には信じられなくて他の人達にも尋ねてみたのだが、返ってきた答えは同じ。先輩は去年入社したばかりで、私とは1年しか経験に差は無かったのだ。


 ……たった1年であの仕事量をこなせるようになるなんて、私には絶対に無理だわ。


 キャリアの差を言い訳に出来ない状況に気付いてしまい、私は先輩との間に横たわる実力差に絶望すら感じてしまう。

 当時の私を一点だけ褒めることがあるとすれば、そんな状況に追い込まれても尚その場から逃げ出す選択をしなかった事だろう。


 それからは先輩の部下として、試練の日々が続いた。


「あー。そっか、これも出来ないのか。うーん。それじゃあ、次は何を頼もうかな……」


 一体何度目だろうか、先輩の口から失望の言葉が小さく漏れる。先輩としては私に聞かせ意図などは無いのだろう。けれど生憎と私は人よりも耳が良かったせいで聞き取ってしまう。そしてその度に私は悔しい想いをさせられた。その頃の記憶に枕を濡らさなかった夜など1日たりも無い程に。


「ぐすっ、先輩、私にもう1度チャンスを下さいっ」


 何度も涙目になりながら、それでもめげずに必死で食らいついたという事実こそが、今の私の大きな自信の礎となったのは間違いないと思う。

 そうして頑張り続けた私だったが、最初の半年くらいはひたすら先輩の後ろをついて回る事しか出来ず、戦力になるどころか逆に先輩の足を引っ張っていたとだけだったと思う。けれどそれでも諦めずに頑張った事で、次第に先輩の役立てるように成長する事が出来た。


「いやー、最初はどうなるかと思ったけど、随分成長したよなぁ吉乃。……もう半分くらいは俺の仕事を任せてもいいんじゃないか?」


「え? いえ、流石にそれはちょっと……」


 この1年で大きく成長した事は確かに実感しているのだが、同時に自分が先輩と比べればまだまだであることを気付かされる毎日なのだ。先輩に褒められるのは嬉しいのだけれど、そうやって私を煽ててからまた無茶振りをするつもりだという事はもう分かっている。

 ここで迂闊な言葉を吐くことは、後々に大変な苦労を呼び込む可能性があることなど、私はとっくに学習済みなのであった。


「うーん。吉乃ならもうそれくらいは出来ると思うだがなぁ」


 無茶な仕事量に付き合わされて最初は恨んだりもしたけれど、役立たずの私を見捨てずに、っとチャンスを与え続けてくれたのも先輩だった。どんなにミスをしても怒らず笑ってフォローをしてくれて、けれどもずっと私に期待を掛けるのを辞めないで居続けてくれたのだ。それが当時の私にとってどれほど嬉しい事だったか。

 そんな先輩の事を気が付けば好きになってしまっていたのは、当然の成り行きだと私は思うのだ。


 先輩への恋心を自覚してから私は、ほろ苦く痛いけれど幸せな日々を送っていた。

 いつか先輩と釣り合うだけの実力を身に付けたら、この胸に秘めた想いを告げるのだと、そう思って努力を続けた。


 けれどそんな想いを果たす前に、予期せぬ大きな転機が訪れてしまう。


「……それ、本当……ですか?」


 それは何の変哲もない普通の日であった。

 いつものように目の前の仕事を黙々と片付けていた先輩に、一本の電話が届く。


「……分かりました。すぐそちらへ向かいます」


 これまで聞いたことが無い憔悴した先輩の声が耳に届き、私は嫌な予感を覚える。


「……悪い、吉乃。後は任せた」


「先輩どうしたんです? 何かあったんですか?」


 そんな私の疑問に答える事なく、先輩は足早に会社から去っていく。

 そしてそれから1週間、先輩は会社を休んだ。


「北条君、すまないが月衛君は一週間ほど会社を休むと連絡があった」


 先輩の上司である漆原部長が、そう伝えて来る。


「ええ!? なにがあったんですか?」


「……それが私にも良く分からないんだ。事情を問い質す前に電話を切られてしまって、以降は一切連絡が取れない」


 結局、先輩が休んだ理由すら知り得ないまま、私は先輩の分までカバーすべく仕事へとのめり込む日々を送っていた。

 もっとも自分の分すらまだ完璧ではない半人前の私では、それが出来ていたとは言い難かったのだけれど。


 先輩が会社を休んだ理由が、両親が事故で亡くなったからだったと私が知ったのは、全てが終わってからであった。どうやら先輩は会社にもその事実を知らせる事無く、ただ休むとだけしか伝えていなかったらしい。

 そのため私は……いえ同僚たちの誰一人として、葬儀に出席する事は出来なかった。


「先輩! どうして教えてくれなかったんですか!?」


 ようやく出社してきた先輩へと、私は思わずそう詰め寄る。

 後になって思い返せば両親を亡くしたばかりの相手に対し、酷く無神経な行為だったと思うが、当時の私はそうせざるを得ない程に行き場の無い感情を昂ぶらせてしまっていた。


「……? どうして教える必要があるんだ?」


 だがそんな私とは対照的に、先輩は酷く冷めた声でそう返して来る。


「どうしてって、私達、同じ会社の仲間じゃないですか!?」


 私の知っている先輩とはあまりにかけ離れた冷たい態度に、例えようの無い憤りをぶつけるようにして、言葉を重ねる。


「そうだな。確かに吉乃の言う通り、俺達は同じ会社の仲間だ。……だがそれだけだろう?」


 私の主張は認めて貰えたはずなのに、なぜか想いのすれ違いは酷くなっているように感じられる。

 なんと言っていいか分からず、私が絶句しているのも一顧だにせず、先輩は冷淡な口調のまま言葉を続ける。


「ああそうだ。俺、社長に頼んで異動する事になったから。最低限の引継ぎはやっていくつもりだが、後はそっちでどうにかしてくれ」


 まるで何もかもを他人事のようにそう話す先輩を前にして、言葉にならない感情が爆発し、私はその場に泣き崩れてしまう。

 いつもならここで先輩は優しく手を差し伸べてくれたはずだ。けれど今度ばかりはそうはならなかった。泣き終やんだ私の傍に先輩の姿はどこにも見当たらなかった。


 それからは空虚な心のまま、私は先輩から仕事の引継ぎを淡々と受けていた。流石に全部を私が受け持つのは無理だろうという事で、実際に引き継いだのは半分も無かったが、それさえも当時の私にとっては膨大な量であり、それをこなすことに没頭する事であえて先輩の存在を意識の外へと追いやろうとしていた。


 そして気が付けば本当に先輩は別の部署へと異動を果たしており、私はというとただ仕事に打ち込むだけの日々が続いた。


「北条君、すまないが出張をお願い出来るかな?」


 先輩とは部署が離れたものの、同じ社内である以上顔を合わせる事はたまにある。

 けれど先輩は私を他の社員と同じようにしか扱ってくれない。その事実を認めたくなくて、最近は先輩の事を避けてしまっていた。そんな中で振って湧いたのがこの辞令だった。それに私は飛びつく事にする。


 先輩からしばらく距離を置くことで、頭を冷やす良い機会だと私は考えたのだ。

 だが出張先での日々は、先輩へと募る想いを私に再認識させるだけの結果となってしまった。


 ……やっぱり私、先輩の事がどうしようもなく好きなんだ。


 もうただの同僚としてで構わないから、今すぐ先輩の顔を見たかった。

 出張を終えた私は、急いで会社へと向かう。そこで告げられたのが、先輩が会社を退職したという事実だった。


 ◆


「確かここだったわよね……?」


 会社を飛び出した私は、交通機関を乗り継いで先輩のマンションの前へとやって来ていた。


 先輩は公私の区別がとてもハッキリした人で、決して自身のプライベートについて話そうとはしなかった。もっとも私が部下だった頃の先輩は四六時中いつも会社に居た為、プライベートなんて存在していたのかは疑問なのだけれど。

 そのせいか誰も先輩の家を訪れた事は無かった。けれどある時、飲み会で珍しく酔いつぶれた先輩を家へと送り届けるという名目で、一度だけこのマンションへやって来た事があったのだ。

 その時は途中で意識を取り戻した先輩にすげなく追い払われて、部屋には入れて貰えなかったのだけれど。


「……反応が無いわね」


 玄関口で先輩の部屋番号をダイヤルして呼び出してみるも、反応が一切無い。


「……留守なのかしら?」


 全くのアポなしで来た以上、その可能性は十分に有り得るだろう。

 けれどそう簡単には諦めきれなかった私は、窓口にいたマンションの管理人へと先輩の事を尋ねる。


「ああ、月衛さんなら引っ越したよ」


 私としては先輩の現状を少しでも知れたらと思っての事だったが、思わぬ答えが返ってきてしまい、絶句する。


「そんな……。引っ越しって、どこに行ったのか分かりますか?」


「いやぁ、流石にそこまでは知らないよ」


 元住民の引っ越し先なんて個人情報、仮に知ってても教えてはくれないだろう。分かっていても歯がゆさばかりが募る。


「……ただそうだねぇ、なんか急に引っ越しが決まったとか言って、慌てて出て行ったのは覚えてるねぇ」


 という事は、引っ越し自体は先輩の意思とは無関係に行われたという事なんだろうか?

 何か変な事に巻き込まれてないといいのだけれど。


 結局それ以上の情報は得られず、管理人にお礼を言ってから私はマンションを後にする。

 そして帰りの駅へと向かう道中、あまり顔を合わせたくはない女と出会ってしまう。


「あら、こんな所で会うとは偶然ですね、北条様」


 私の目の前には、まだ成人したばかりとは思えない大人びた容姿をした美人が立っていた。いかにも高そうな服に一目で分かる上品な所作、誰が見ても良いところのお嬢様である。


「……そうね。お久しぶりです、漆原七海さん」


 そんな彼女に対し今にも飛び出しそうな棘を押し隠して、私はそう返事をする。


「北条様の方が年上なのですから、七海と呼んで下さって結構ですよ?」


 彼女はうちの会社の社長の孫――すなわち次期社長の娘であり、立場上あまりフランクに接する事は難しい相手だ。もっとも私が彼女を苦手としている理由は、決してそれだけでは無いのだけれど。


「それで七海さん。こんな所にわざわざどのような御用事で?」


 彼女の自宅はこの近くには無かったはずだ。駅の近くである事以外、特に目立った施設もないこの住宅街で、何故彼女は一人歩いているのか?


「それは……わたくしの婚約者である殿方と会う為です」


「……それってもしかして、樹先輩の事を言ってるのかしら?」


「ええ勿論です。他にそのような殿方などわたくしは知りませんから……」


 そうなのだ。彼女もまた樹先輩の事が好きなのだ。親の力を使ってでも彼の婚約者の立場を得ようとする程に。しかもまた性質が悪い事に、彼女の両親や祖父である社長までがその事に大いに乗り気であるのだ。


「……樹先輩に婚約者なんていなかったと思うんだけど?」


 もっともその件については先輩本人が丁重にお断りしており、実際はそんな関係ではなかったはずだ。けれど彼女は私と会う度に必ずそのように振る舞って見せる。

 だから私は彼女の事が苦手なのだ。


「……」


 多分、私が先輩の事を好きなのを知っていて、牽制でもしているつもりなのだろう。私は直接告げた事こそ無いものの、かなり露骨なアピールを先輩へと続けていた自覚はある。なので彼女がその事を知っていても別に不思議ではない。


「ともかく七海さんは樹先輩に会いに来たわけなのね? でもあの人引っ越しちゃってたでしょう?」


 私がその事を指摘すると、一気に彼女の表情に影が落ちる。


「……ええ。ですがまだ近くにいるかもしれません……」


 どうやら彼女もまた私と同様に先輩との連絡手段を失ってしまったようだ。この様子では社長でさえも先輩の引っ越し先を知らない可能性が高い。


 ……ねぇ、どこに行ってしまったんですか、先輩。


「ねぇ、七海さん。目的は同じみたいだし私と協力しない?」


 以前は苦手に思っていたが、今は数少ない同志でもある訳だ。そう思えば少しは親近感も湧いて来る。

 何より今は少しでも手が欲しい状況だ。


「協力……ですか? それは一体どのような?」


 私にそんな事を言われたのが余程以外なのか、胡乱げな視線をこちらへと向けてくる。


「先輩を探しているのは2人とも同じでしょう? だったら手分けして探した方が効率が良いと思うの」


「たしかに……それもそうですね」


 少し強引で世間知らずな所はあるが、別に現実が見えない馬鹿な子ではない。

 こうしてメリットを提示してやれば、ちゃんと私の話に耳を傾けてくる。


「ただこれだけは約束ね。どちらかが先輩の居場所を知ったら、必ず相手にもそれを教える事」


 要するに抜け駆けは禁止という訳だ。

 家柄なんかでは負けてはいても、私には1年以上もずっと先輩と過ごして結んだ絆がある。条件が対等でさえあれば彼女に負けるつもりは毛頭無いのだ。


「……そうですね。分かりました。お約束致します」


 彼女は彼女で勝算があるのか、少し迷った様子を見せた後、私の提案を受け入れた。


 それから場所を近くのカフェへと移し、先輩の捜索についての打ち合わせを行う事になった。そこで私は七海から驚愕の事実を聞かされる事になる。


「――そんな訳でして、興信所や祖父の伝手を頼っても、あの方の足取りを追う事が出来なかったんです」


 どうやら先輩はかなりの厄介事に巻き込まれているらしい。興信所でも調べきれないとなると、一気に手詰まり感を覚えてしまう。


 そして同時に七海がいるはずの無いマンション近くを宛ても無く彷徨っていた理由が理解出来た。表情には出さないがどうやら彼女もかなりの焦燥を感じているらしい。こうして事実を知った今では私にも痛いほど共感出来てしまう。


「そうなるとかなり大変そうね……。社内で先輩と仲が良かった人たちにも、既に尋ねているんでしょう?」


「……ええ。ですが皆さんご存知ないようでした」


 すぐに思いつく手段は七海が既にあらかた実行済みという訳だ。手間は省けたが問題は更に厄介さを増している。


「……そう、分かったわ。私も取引先で先輩と仲良かった人とかに、色々訊いてみるわ」


 その後も先輩の足取りを追う為の方法を2人で色々と検討したのだが、これといった良案は出てこない。


「取り敢えずこっちもやれる事は全部やってみるから、そっちも宜しくね」


「分かりました。他に何か手段が無いか考えてみますね」


 人一人を探すのにかなり大事になってしまった感があるけれど、他ならぬ先輩の為ならば仕方がない。


「詳しくはまた後で連絡するわ」


「お待ちしていますね」


 そうして七海に別れを告げてから、私は一旦会社へと戻る事にする。そもそも出張から帰ったばかりで、報告など何も済ませないまま飛び出してきてしまったのだ。


 そんな私を待っていたのは勿論、上司からのお叱りの言葉であった。


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