そらをおよぎ うみをとぶ
隣から物音はしなかった。
支度をする音がしてもいい時間だとは思ったが、これ以上、彼女に苛立たされるのも癪だったので、友里は無視を決め込んだ。
カーテンを閉めに窓際に寄れば、ひんやりとした空気が肌に触れた。かすかにしか聞こえないエンジン音。まだ車の通りは少ない。部屋を出ると、すぐに傍に設置されたプールが目に入った。さすがにこんな朝早くでは誰もいない。うるさい観光客の歓声もない。通路の途中で無愛想なぎょろ目の黒人の清掃員に会っただけだ。明らかに自分は客なのだから、会釈くらいしてもいいだろうと思う。なってないな、このホテル。そんなホテルを後にすると、海がすぐ傍にあるこの街は薄く朝もやが立ち込めていて、全体的に灰色の色合いが視界を支配していた。
朝もやがなくとも、この国、この地域に感じるものはなぜかいつも灰色だった。
最初にここに来たとき、視界は黄ばんでいた。まるで気温の高さが色に変わったかのように、太陽の光自体が日本に比べて濃くて、でも、使い古されたような色だった。朝日の色とは違う、裸電球のような安っぽい色だと思った。それは偏見だとすぐに思い直し、口にはしなかったが、その良いとは言えない第一印象は、悪化はしても、改善はされなかった。機嫌が悪いのは、多くは形ばかりのパートナーとして同行しているフリーの女性ジャーナリストのせいではあったが、友里の目には、黄ばんだ世界はだんだんと薄汚れ、そして、不快さだけを残して色あせていった。
車の切れ目を見計らって信号のない、砂だらけの道路を渡ると、小さな店に入った。朝食をとろうかと思ったが、急きょ二人部屋を、一人部屋にしたことが無駄な出費になったので、コーヒーを一杯だけ頼み、これがないとその日が始まらないのだ、出て来た薄いそれを、時間をかけて飲んだ。それでも、客は他に隅っこで新聞を読む老人だけで、店主も友里を追い出そうとまではしなかった。その客と何やら話しこんでいる。店主は白人だが、客の方は色黒で、典型的なラテン系の顔立ちをしていた。言葉が理解できないので、何を話しているかは知らないが、どうも、どこぞの政治家のゴシップ記事で盛り上がっているようだ。どの国に行っても、この類の記事は紙面を見れば、だいたい匂いでわかる。店主がジョークを言ったのだろう、笑い声が聞こえた。カサカサの紙に印刷された、これまたカサカサの中身のない白黒写真が死んだ目でこちらを見ている。面白くない。
カップの底に溜まり、へばりついたようなコーヒーを音をたてて飲み終わると、友里は少し逡巡した。このままホテルに戻るか、それとも、どこかに寄るか。そうはいっても、他に開いている店はなかったし、開いていても無駄な出費はできない。しかし、出来る限り、彼女と顔を合わせるのは先延ばしにしたかった。
ぼんやりとしていたが、ふと、海に行こうと思った。海沿いの街だからか、多くの店は、波や魚や貝などをモチーフにした内装になっていた。この店も白い壁にわらびのように渦巻く波と、赤や黄色の原色ででかでかと魚が描かれていた。初めてここに来た人がこれを見たら、海になんて行きたくなくなるのではないだろうかと思って、友里は苦笑した。しかし、友里は綺麗なビーチがすぐそばにあることを知っている。時間があるときは、パートナーの彼女と顔を突き合わせることさえ気が滅入るので、海が見たいというのを言い訳に外に出るのだ。その間、彼女はどうもホテルにあるバーに入り浸っているらしい。
代金を支払い、店を出て、店脇の路地に入って行った。こちらからビーチに行くのは初めてだが、方向を誤る心配はなかった。多くが一階建ての低い建物が立ち並ぶ中で、一つだけにょきっと突き抜けて、海岸沿いにホテルが建っているからだ。ここからでもそれは確認することができた。友里たちが泊まるホテルの宿泊費の倍以上はする高級ホテルだ。彼女はこっちに泊まろうと主張したが、友里には無理だった。彼女だけそこに泊まれば良いと言えれば良かったのだが、二人部屋にすれば、ある程度、宿泊費を節約できると計算していたので、それもできなかった。
彼女は、どんな気違い雑誌か知らないが、女性週刊誌にあったアフリカ難民の記事に心を痛め、世界の貧困の現状を知らせたいという理由からジャーナリストになったらしい。勝手にべらべらとしゃべる彼女の話から得た情報だ。一方、友里は貧困層の子どもたちを主に撮影してきたフリーカメラマンだ。それだけ見れば、二人が組んでいるのは特別おかしくはないのだろう。そんな理由でいっしょにいるのであれば、だが。この件に関しては、今までだって、取材中にもっと悪条件で寝泊まりした経験があるでしょと言いくるめ、諦めさせたのだが、たった三日でその努力はパーになってしまった。
脇を流れていく家々の軒の低さは、まるで沖縄の伝統的な家屋のようだが、建物は閉鎖的な印象を受ける。窓が小さく、部屋の中はもう明るいからか電気もつけずに暗い。ひょうきんで、底抜けに明るい。それがラテン系の人々の性質ではないのか。少なくともそういうイメージが一般的で、一般人と同じくそのイメージを持っていた友里も、今ではよく見かけるこの風景に最初は違和感を覚えた。しかし、勤勉と言われた日本人も皆が皆、勤勉とは言えないだろう。例外や既存概念から外れるものが存在するのは不思議ではない。今も眠りこけているはずのパートナーの顔を思い浮かべて、その考えにひどく納得してしまった。
道はホテルの裏口の傍を通り、ビーチへと続いていた。ビーチの入り口の真ん中に停められた、古い白のワゴン車の背後に、そのワゴン車と同じ色の砂浜があり、そして、その向こうに海があった。しかし、海は、もやのせいで遠くは見渡せなかった。
一歩、二歩、三歩、砂浜を歩き、それだけでシューズに細かい砂が入って、ざらざらとした感触を足の裏に感じた。当たり前のことなのに、その不快さが友里の心を逆立てた。友里自身、その怒りがただの八つ当たりだとわかっていたので、なんとか心を落ち着かせようとした。そばに、まるで片づけるのを忘れたように、パラソルが一つと、いくつかの椅子が積み重ねて置いてあった。積み重なった椅子の一番上の椅子を取り、パラソルの下に置く。砂を払って、腰を下ろすと、わずかに椅子の足が砂に沈みこんだ。椅子が安定すると、背もたれに寄りかかり、ふうと友里は息を吐いた。一度苛立つと、ぴりぴりとした自分ではどうしようもない痺れが、指先に、足先に広がっていく。そうなると動くのもおっくうになる。長くここにはいられないことを知りつつも、立ち上がることを考えたくなかった。考えるとぴりぴりがひどくなる。友里は頭を振った。考えるな。まず心を落ち着かせるのが先だ。このまま帰れば、彼女の顔を見るだけで爆発しそうだ。平常時でさえ、かなりの忍耐が要求されるというのに。
あんな奴と組みたくなかった、と声に出して言ってみた。周りに誰もいない。聞かれることもないだろう。あんなお嬢様となんて、親の金にものを言わせて好き勝手生きてる奴となんて。声がだんだんと大きくなっていく。むかつく。最後はほとんど怒鳴り声だった。
この苛立ちの根本原因である、彼女とのコンビを抑圧的に提案した張本人は、初対面である友里の目の前で、友里の持ちこんだ写真を破り捨てた。あまりにも唐突で、その時、友里はただぽかんとしていた。もったいないくらいは思ったかもしれない。仲間のフリーカメラマンに紹介されたその人は、ある雑誌の編集長で、自身も元はフリーのカメラマンだったから、同情的に友里の写真を使ってくれるかもしれないと言った。同情的という言葉に少しカチンときたが、背に腹は代えられない、仕事の前に、生活することも厳しい金欠状態だったのだ。そうして、訪ねた先、今ある写真を見せろと言われ、道端で身を寄せ合うストリートチルドレンや、バラック小屋から顔を出す子どもたちの写真は、彼の手に渡って目を通されると、瞬く間に紙くずになった。
がさごそとポケットやデスクの引き出しを彼があさっている間に、やっとふつふつと怒りを覚え始めた。少し青ざめ、表情が硬くなっていく友里に、彼は何事もなかったかのように、タバコあるかと訊いた。いえと言うだけで精一杯だった。それ以上言えば、巨大な爆弾が付いてきそうだった。彼は片眉を上げて、そうかいと言い、まあ、そうだろうなといらない一言を付け加えた。
彼の言いたいことはわかっていた。お前のそれはお遊びだ、お前は一人前でなく、未熟なんだ。そう彼は言いたいのだ。
ある懇意のフリーのジャーナリストとお茶をしたことがあった。様々な紛争地域を取材してきた彼は、もう六十に近い年齢で、しかし、動きに老いは感じられず、それでいて穏やかに話をする、誰からも慕われるような人だった。友里も彼を敬愛していた。彼は店に入ると、禁煙席じゃなくても良いかなと友里に訊いた。コーヒーを飲むとタバコが吸いたくなるんだ、と。友里は興味本位で、いつからタバコを吸っているんですかとテーブルにつくなり訊いた。二十代後半か三十になってからか、少なくとも、会社勤めを止めて、この仕事を始めてからだと彼は応えた。なぜ吸おうと思ったんですか、かっこいいからですかと気楽に尋ねると、彼は苦笑して、幼い子どもを見る親のような表情をして言った。吸わないとやってられないんだよ。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、彼は失礼と一言断ってタバコに火を付けた。揺らぐ紫煙の向こうに見え隠れする彼の顔を見て、友里は、はっとした。それはわずかな間だけだったが、ぼんやりとした目は、全てを遮断して、その奥に濃密な闇が横たわっていた。それまで気にならなかった皺が、まるで傷跡のように痛々しく、はっきりと見えた。一度に十以上は老けこんでしまったかのようだ。数瞬後に彼は、友里の存在に気づき、微笑んだ。その時にはもう優しい空気をまとい、朗らかに笑う彼に戻っていたが、それでも友里は、タバコがないとやってられないという彼の言葉が、身にしみてわかった気がした。自分は、タバコに頼らなければならないほど、精神的に追い詰められてはいない。多くの同年代の日本女性に比べれば、過酷な仕事をしているだろうが、それでも、友里は、身の危険にさらされるところに自身を置くことはなかった。
それを恥じながら、しかし、一方で、それの何が悪いと心のどこかで思っていた。それは馬鹿にされるようなことか、見下される理由になるのか。
写真という表現物を破り捨て、自分の仕事を否定した男は、近くの編集者からタバコを貰い、うまそうにそのタバコを吸った。闇をたたえた彼の無言の教えならば、少しは素直に受け入れられたかもしれないが、この男には反感しか感じなかった。
仕事をやる。彼の言葉は、行動同様、ぶっきらぼうで唐突だった。それがメキシコのスラム街取材だった。確かに生活環境はひどく、人々に現状を知ってもらうべきだろう。しかし、どうしてメキシコなのかと尋ねれば、それは名目で、ジャーナリストごっこをしている、どこぞの会社社長の娘のお守をしろということが、実際の仕事だった。いつも付き添わせる人物が、今回は都合が悪く、誰か海外を歩き慣れた女性を探しているのだそうだ。彼とその社長というのがどういう関係で、また、どうして、その社長の願いを聞き入れなければならないかは、訊かなかった。どうでも良かった上に、聞けば耳が腐るような馬鹿げた理由だろうと思った。そうして彼を見下し、そんな彼と、その社長令嬢を見下さなければ、自分がみじめだった。なんでそんな仕事なんかと叩き返せたらどれほどすっとするだろうか。しかし、唇を震わせ、立ち尽くす友里に、彼は金が必要だろと知り顔で言ってきた。彼も金銭面で苦労したのだろう。確かに好きなことができるが、フリーのカメラマンなんて、安定せず、儲けのない仕事だった。儲けがないどころか、ものすごい勢いで蓄えを食らいつくしてしまう。実際、友里には蓄えなんてほとんどなかった。バイトをして、お金を貯めて、そして、取材で使い果たし、実家に逃げ込むを繰り返していた。三十に足を踏み入れた娘に、いい加減にやめたらと呆れ切ったように言う母の顔がちらついた。この仕事を受けなければ、両親に取材費用を借りることになるのは明白だった。どちらがましか。
友里は自分の仕事に誇りを持っていた。中小企業でOLをやっている同級生に比べれば、自分はもっと高等な仕事をしていると思っていた。しかし、時々会う彼女たちも、母も、そうは思っていない。その点、目の前の男は同じ仕事をしていたのだから、この仕事の素晴らしさはわかっているはずだ。写真で見返せば良いと友里は思った。この男は破り捨てたが、自分の写真には、人の心を動かす力があると信じていた。ただ趣味でカメラを握っているわけではないのだ。こんなに苦労して、周りから否定され、それでも続けてきた。銃を向けられ、すぐ傍で爆弾が爆発し、知りあいが死んでいく、そんな経験を語った、普段は若いが、タバコに頼るときだけ一気に老いる彼とは違うが、覚悟を持っていた。可哀相な子どもたちを助けたい。デスクの上で、破られた写真の切れ端に映ったアーモンド型の目が友里を見つめる。目の前にいる自分を、周りの世界を、未来を恐れながら、それでも生きるために大きく見開かれた目を覚えている。それを世界の人に知らせたい。そんな尊い仕事をしているのだ、卑屈になる必要はないと言い聞かせ、友里は仕事の話を受けた。その時、編集長が、お前、勘違いしてるなと言ったが、彼の不当な非難に付き合いたくなくて、話を切り上げてそこを後にした。
カンと金物を叩く音がした。鐘のように長くは響かず、なべ底を叩いたような音だ。遠くの波打ち際で、梯子のようなものに商品をぶら下げ、それを担いで、物売りが歩いていた。金物の音が間をあけて落とされていく。風景と同じく、物売りの姿はかすんでいるのに、音だけが、叩かれた瞬間だけはっきりと耳朶をうった。その物売りが遠ざかっていくのを目で追いながら、良い図だなと思った。職業病なのか、視覚的なものは疲れる。何を見ても写真に撮るなら、と考えてしまう。その分、音は良かった。何も考えなくて済む。少し目を瞑って小さくなっていく音に耳を澄ました。だが、どうしても目を開けてしまう。無意識にカメラを探し、手ぶらで出て来たことに気付いた。カメラがないと、なんとなく落ち着かない。
ある仲間が言った。カメラ無しで世界を見られるかと。カメラ越しではなく、そのまま自分の目で現実を見られるかと。誰が言ったのだか覚えてなかった。どうでも良い、挨拶する程度の誰かが言ったのか、それとも、複数の誰かが言ったのか。友里は質問には答える。だが、質問した相手にも答えを求めるのが常だった。相手は何と答えたのか。それを覚えていれば、誰が言ったかを思い出せるだろうに。
友里はYESと答えた。
それは確かだった。しかし、深く考えず答えたその質問が、今になってぐるぐる頭の中を回った。だから、初めは気が付かなかった。少年が友里の傍に立っていた。座った友里より少し高いくらいの背丈で、やせっぽっちだが、大人びた表情をした十三、四の褐色の肌の少年だった。少し離れたところで弟、妹と思われる幼い子どもが四、五人立っていた。友里は嫌な予感がした。傍に立つ少年は、腰に下げた袋からキャンディーを出して、give me moneyと巻舌の発音で繰り返し言った。もう物乞いをする時間なのか。友里は寄りかかるのを止めて、少年をじっと見た。それがせめてもの礼儀だった。そして、きっぱりと頭を横に振った。少年はしばらく引きさがらなかった。彼の家族の生活がかかっているのだ。当たり前だろう。だが、友里はお金を渡す意思をわずかも見せなかった。可哀相だとは思う。今まで多くの同じ状況にある子どもたちを見てきたのだから、誰よりも彼らが切迫しているのは知っているが、ここで同情してお金を与えても、きりがないのだ。与えれば、その様子を見ていた物売りや物乞いが、ひっきりなしに押し寄せてくる。それに、今、お金を渡しても、根本的な問題である貧困はなくならない。それを解決するために、現実を世界の人に知らせる。それが自分の仕事だと思っている。それなのに、何も知らないあのお嬢様は、善人ぶってお金を渡し、子どもたちがまるで救世主のように見る眼差しを、気持ちよさそうに受けていた。ひっきりなしにやってくる同様の人々を追い払い、自分の役割に嫌気がさしているときに、彼女の、冷たい人ねという非難だ。カッとして、友里は我慢できず、彼女の行為がどれだけ軽率で稚拙なのかを頭ごなしに叩きつけるように言った。それで、やはりあっちもむっとしたのだろう、あなたのやってることが、私のやってることと何が違うのよ、と言った。それが引き金だった。口論になり、ホテルの部屋を別にして、それぞれ自分の部屋に閉じこもってしまった。それが昨日の昼だった。その夜に、彼女の不満は、父親の社長を経由して、あの編集長に渡り、友里に届いた。途中で止めれば報酬はないという強迫じみた宣告に、友里は何が言えただろう。促されるままに、隣りの部屋にいる彼女に電話で口ばかりの謝罪を述べ、次の日の簡単な予定を伝えて、電話を切った。切った後で、気の抜けきった自分の声を思い出して苦笑した。もっと演技は上手いと思っていた。いや、演技をする気もなかったのだ。嫌になって全てを投げて、その返しを遮断したのだ。その後、あちらから電話がかかってくることはなかった。
少年は、目がぼんやり虚ろになっていく友里に気づいて、踵を返した。なんとなしに、友里は少年を見ていた。少年は兄弟たちのもとへ行き、何か言葉をかけると、海の方へすたすたと歩いて行った。そして、ざぶざぶと海に入って行く。ここの海は日本の海のようにすぐ深くはならない。かなり離れたところまで歩いて行ったというのに、少年の膝下以上に海面がくることがなく、離れたこちらから見れば、まるで海面上を歩いているかのようだった。海の中で、少年はそのまま立ち止まった。少年の姿は、海にぽつんと、まるで白い紙に墨を一滴垂らしたように目を引き、友里は、その光景を眺めて、すうと目を見開いた。
薄い灰色の雲が、空と海の境界に刷かれていて、空の薄い水色が、それに溶け合っていた。雲に本体を隠された陽の光が、所々で空と雲の隙間からこぼれた。海はその色を映しながら、瑠璃色を孕んだ自身の色で天と向かい合っている。だが、全体の景色は、境目が曖昧で、全てがどろどろに混ざり合っていた。古事記に描かれた世界の最初のようだと思った。それをこんな外国で感じるのも変な話だが。そんなどこか神秘的な光景に、ぽつんと少年の後ろ姿がある。少年は海の彼方に向かい、ぴくりともしない。彼は気づいているのだろうか、自分が今、どんなに神々しい場所にいるのか。なぜだか、それを伝えてあげたかった。それは、虹の下にある家の住人に、そのことを大声で叫びたい気持ちと似ていた。
友里は立ちあがって、海へと歩き出した。砂が塊になってシューズに入ってくる。すでに靴なしで砂浜を歩いているのと変わらなかった。海に近づくと、湿り気で足元はしっかりしていたが、すぐに波打ち際に到り、友里はそのまま海に入って行った。シューズの中が、ぐしゅぐしゅと歩くたびに音をたてた。太平洋に面するこのビーチの海水はいつだって冷たい。ジーンズに海水が浸み込み、水面はまだふくらはぎほどなのに冷たさは太ももまで這いあがってきていた。だが、その冷たさが友里の心を透き通らせた。歩いて、ぽつんとある少年の影まで行く。それしか考えていなくて、余計なことは友里の心の外、体の外、この世界の外にあった。
少年のすぐ後ろに着き、そのまま、友里は少年の見る景色をいっしょに見た。濃淡のまばらな雲に、黄ばんだ光が練りこまれていて、それはお世辞にも綺麗とは言い難かったが、その土の香りのする色は、穏やかに静寂を続ける海と見つめあうには相応しい気がした。綺麗、汚いで世界を分ける必要性を感じなかった。こんなに全てが快いのだから。
少年が振り返った。友里を認めて少し目を見張った。かさかさに縮れて頬にまとわりつく髪も黒いが、その瞳は、黒真珠のようだった。レンズ越しに何度も見てきた、不条理に押しつぶされ、それでも希望にすがりつく瞳だった。美しいが、慣れている瞳のはずなのに、なぜか友里はひるんでしまった。少年は友里の目を覗きこんで、じっと見た。そして、おもむろに、握りしめたこぶしを突き出した。思わず出してしまった手に、ぽとりとさきほど拒否したキャンディーが落ちてきた。少年は無言だった。まるで何かの儀式のように、友里はポケットから硬貨を出し、少年に渡した。キャンディーがいくらかは知らないが、十分だというのは知っていた。少年は手の中の硬貨を見下ろした。うつむいたその表情はわからない。
少年が手を傾けた。その手のひらから硬貨が滑り落ちて、海に沈んだ。その空になった手で、友里の手を掴むと、もう一方の手を腰の袋に突っ込み、鷲掴みにしたキャンディーを友里の手のひらの上に落とした。友里は思わず、もう片方の手も出し、受け止めたが、いくつかは手からこぼれて海に落ちた。友里は慌てた。カモだと思われたのだろうか。待って、いらないと言うが、少年は同じ動作を繰り返し、しまいに袋を取り上げると、逆さまにして友里の手のひらに中身全てをあけて、袋を投げ捨ててしまった。手のひらに積まれたキャンディーの山をどうすることもできなくて、友里は動けなかった。そんな友里を、少年は見上げて、少しすまなそうな顔をしたが、さっと踵を返して走り出した。そして、あっという間に、雲の切れ間から射した光で水面が明るくなった場所で、跳躍した。飛沫が一瞬、きらっと光り、すぐ後で、今度は飛び込んだことで舞い散った飛沫が光を弾いて目を刺した。少年はすぐに浮かびあがり、仰向けに漂ったが、視界には、あの一瞬の水飛沫の煌めきが残像としてくっきりと見えていた。きらきらした光をまとって、少年の体は空中で弧を描いた。それは、重力から解放された瞬間だった。
解放。
海は、光の届かない奥底に闇を孕んでいたが、光の当たるその表面には、空と同じ薄青が浮いていた。そこを少年の体が滑り、漂っていた。鳥だ。海に浮かぶ空を飛ぶ鳥だ。頼りなく揺らめく体は不安げに見えるが、その実、その心には解放が広がっているのを、友里はわかっていた。友里は空を仰いだ。神託のような鋭さで、ある真実が友里を貫いた。
同情。
ゆっくりと呼吸すると、濃密な空が、肺を満たして、戻って、友里を空の一部にしていった。周りには、あの海と対峙する色彩があった。
自分とは違う存在だった。
彼らは、脆弱で、不運な環境にいる、庇護の対象でしかなかった。可哀相という言葉を積み上げて、無意識に、一段上からいつも彼らを見下ろしていた。だから、気づかなかったのだ。レンズという、目の前の現実と自分を隔て、己が心を守るフィルターの存在にも。彼らは、いつも、自分とは別の世界にいた。そして、自分の自尊心を保つために、彼らと「同じ」であることを拒否していた。
だが、あの少年と向かいあった時、初めて、その差は消えていた。
同じだよ。
手からポロポロとキャンディーがこぼれ落ちた。ポトン、ポトン。音をたてて、キャンディーは沈む。少年は謝っていた、自分の重荷を押しつけたことに。でも、友里の手からも、それはなくなった。自由になった手を友里は空に掲げた。何の解決にもならないなんて、彼も友里も初めから承知している。だが、今だけは、解放と逃避が表裏一体となった自由が、その手にはあった。海の空を飛ぶ彼の手に、そして、空の海を泳ぐこの手に。
腕で大きく空気を掻けば、煩わしいしがらみの網が張られた地面から、少し浮いたような気がした。
浜辺に戻ると、彼の兄弟が心細げに立って、漂う兄を見守っていた。売り物は海に沈んで駄目になってしまった。友里は彼らに近寄った。そして、一番年上に見える少女の前でしゃがみ込むと、尻ポケットからくしゃくしゃのドル札を出して渡した。自分がしている行為に友里は密かに苦笑した。自分はキャンディーを受け取ったのだから、正当な取引だと心中で言い訳じみた呟きをこぼした。渡したお金はタクシー代として持っていたものだが、仕方ない。あのお嬢様に頭を下げて出してもらおう。
友里は立ち上がって歩き出した。ビーチの端まで行ってきたのか、また遠くから物売りの金物の音が響いてきていた。 END