七話 アベル
トニーとジェシカは、真っ直ぐ伸びる田舎道をひたすら歩いていた。 なだらかな坂道の両側には麦畑がずっと先まで続き、視界は一色に埋め尽くされた。
紅く染まった夕焼け雲…。
黄金色の稲穂には夕日が落ち、そよ風に吹かれる度に波打った。それは、まるで琥珀色をした海を思わせる様な景色だ。
「きれい…… 」
あまりの美しさに、トニーの口から溜息がこぼれた。
「そうね、いつ見ても美しいわね……。主人も "この景色が一番好きだ" と、言っていた事を思い出すわ」
「ねぇ、ジェシカさん……」
かしこまった口調でトニーが話し掛けた。
「ジェシカさん。なんて、何だか水臭いわよ。これからはジェシカと呼んでちょうだい。 それで、なあに?」
「あのね……。何と言えばいいのか分からないけれど、何だか大変な事になりましたね……。きっとご主人さん、話しを聞いたら驚くでしょうし、それに加えて……私の様な者がお供するなんて……」
「 トニーは、そんな事を心配していたの?」
「そんな事って、当たり前じゃないの!」
「大丈夫よ、心配しないで。 主人はもう居ないから…」
「えっ! それって、もしかして……」
「そうよ、亡くなったの。……先日あったデモに参加してね……。私は必死に止めたわ。でも、子供が生まれるのにこれでは生きて行けないと言って、主人は家を飛び出して行った。そして……帰らぬ人となってしまった 」
「ごっ、ごめんなさい! つい知らずにいけない事を聞いてしまって!!」
「気にしないで。……トニーは優しいのね。この子も、そんな風に育ってほしいな」
「ジェシカ……あんまり褒めないで。恥ずかしくなるから……」
トニーは頬を赤くすると、恥ずかしそうに俯いた。
「 実は、さっきから考えていたの 」
「なに?」
ジェシカの言葉に振り向くトニー。
「この子の名前だけど、主人と同じ名前にしようと思うの。 ……本当に、この子に未来を切り開く力が有ると言うのなら、主人の様に何事にも決して屈せずに、守るべき者を守り抜いて欲しい。だから……これからは、この子の事を ’アベル’ と、呼んであげて」
「いい名前じゃないの〜! うん、わかったわ。 きっと、アベルは世界で一番優しくて、強い子になると私が保証するわ!」
トニーは得意げに胸を叩いた。
二人は顔を見合わせて笑あった。
。。。。。。。。。。。
しばらくすると、麦畑の先に集落が見えてきた。 ジェシカは、その中の一軒を指差した。
「あそこ、あれが私の家よ」
土壁に覆われた小さな家は、見事なまでに自然の景色に溶け込み、まるで絵画のよう。
家の側まで来ると、ジェシカは小走りで駆け寄った。そして勢い良く木製のドアノブを押した。
「どうぞ、入って」
にっこりと微笑むジェシカ。 トニーは大きな顔を、ドアの隙間から覗かせた。
そこには、質素でありながらも幸せに暮らして居たのだろう。 生活感が溢れた家具が置かれ、食器が並べられていた。
トニーは中へ入ると、キョロキョロしながら辺りを見渡した。 そして、戸棚の上にある写真立てを見つけた。
写真には、嬉しそうに微笑み合うジェシカと若い男性の姿があった。
「この人が、ご主人さん? 」
「そうよ。主人と私のたった一枚の写真なの 」
「ステキね…… 」
「ねー、お腹空いたでしょ?何か食べない? 大した物は用意出来ないけど……」
ジェシカはそう言うと、台所で食事の準備を始めた。
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次の日の朝、深い眠りに付けずにいたジェシカは、いつもよりも早く目を覚ましてしまった。
ジェシカは、そっと写真立てを手に取った。
……ねぇ、貴方。 聞いてる?
貴方はいつも微笑んでいるだけで、何も答えてくれないのね……。私は今日、ここを出ます。
ジェシカは心の中で夫に話し掛けると、テーブルに手を付いた。
……この家は、貴方の生きた証でいっぱいだわ。
ねぇ、 貴方がいつも腰を掛けていた椅子。それに、このテーブルの傷……覚えてる?。
私を驚かそうとして内緒で料理を作ってくれたでしょ? あのスープ、塩っ辛くてちっとも美味しく無かったわ。 おまけにテーブルで食材を切るから、こんな傷まで付けてしまって……。
あの時は、貴方の優しさに甘えてしまい ’ ありがとう’ の言葉が言えなかった……。そればかりか、傷の事ばかり責めてしまったわ……。
貴方、本当にごめんなさい……。
それに、ねぇ、見て!
これ、貴方がアベルの為に作ってくれた積木よ。 これもそう……。 まだ産まれもしていない我が子の為に、貴方は山に木を切りに行ったわね。 私は’ 気が早すぎる’ と、貴方の事を馬鹿にしたわ。 それにこの出来栄えよ。 こんなにガタガタで、積もうとしてもこれでは積めないわ。
でも……。
不器用でも、私はそんな貴方が好きだった……。
今なら分かる。 あの当たり前の毎日こそが本当の幸せだったのだと……。
スープも積木もいらない!! ずっと側にいて欲しかった。
どうして私を置いて死んでしまったの??
その時、柔らかな風が吹いた。
ジェシカを包んだ風はとても優しく、懐かしい香りがした。
窓は締め切っている筈なのに、何処から風が入るというのだろうか?
「あ……あなた? 」
目にはみえなくても、ジェシカはその存在を確かに感じた。 すると、訳もなく涙が溢れ、雫が頬から流れ落ちた。
「あなた……。近くに居るんでしょ?? 」
何度も辺りを見回すジェシカ。
「お願い。 近くに居るのなら、これからも私とアベルを見守っていて…… 」
愛しそうに写真を指でなぞると、ジェシカはそっと目を閉じた。
すると、数々の思い出が瞼の奥に映し出され、セピア色に輝き始めたのだ。
それは……。決して長くはなかったけれど、愛しい人と共に過ごした時間。
命は奪われてしまったけれど、この思い出だけは誰にも奪う事など出来ない。
ジェシカだけの宝物……。
輝きは、いつまでも心の中で生き続けるだろう。ジェシカと共に、永遠に……。
余韻に浸る様に、ジェシカはその心地良さに身を委ねた。
。。。。。。。。。。。。。
しばらくしてトニーが目を覚ました。
トニーはジェシカの後ろ姿を見つけると、声を掛けた。
「ジェシカ、もう起きていたのね」
その声にハッとしたジェシカは、慌てて頬の涙を拭った。 そして明るく微笑んだ。
「そうなの、なかなか寝付け無くて……。
でも大丈夫よ。 準備も出来ているし、早く出ましょう」
「そうね、そうしましょう」
トニーは慌ただしく顔を洗い、手短に準備を済ませた。
そして、アベルと共に二人は家を出た。
ジェシカは新たな決意を胸にして…。