表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

言わぬが花、誰がため

作者: 雨之 流

 今日は幸運なことに、隣人と出会うことが出来た。

こういう時のために、毎日鏡の前で自分に笑いかけていたのだから、笑顔には自信がある。

「あっ…ど、どうみょ」

人と話す練習などしていなかったので、言葉が詰まるのは仕方がない。 愛嬌である。そういう口調だと思っていただければ幸いだ。

「こんばんわ。バイト帰りですか?」

そんなことなど意に介さず、彼女は笑いかけてくれる。優しい。

 ちょっとスーパーに食料品などを買いに行っていた、という事を伝え、面白かったテレビなどの雑談を済ませ、お互いの部屋に戻る。この会話間に私が幾数回噛んだのかなどということは、実家の母親がパーマをかけたらしい、というほどにどうでもいいことである。

 何にせよ、今日は彼女と会えた、話せた、笑いかけてもらった。それだけでこの世界は、薔薇色虹色プラチナ色へと鮮やかに変わる。プラチナ色とはなんぞや。早々にシャワーを浴びて寝れば、夢で会えるかもしれない。

 


 今日は不運な事に、隣人とはち会わせてしまった。

こういう時のために、愛想笑いを練習していたのだから、問題はない。

 気付いていない振りをして部屋に戻ろうかと思ったのだが、しっかりと目を合わせているし…

「あっ…ど、どうみょ」

 話しかけられてしまったのだから仕方がない。ひょうきんな役を演じようとして「どうみょ」などと不可思議な喋り方をしているが、無視をして会話を始める。

「こんばんわ。バイト帰りですか?」

 この男が何をしていようが興味がない。スーパーに買い物がどうたらこうたら、右耳から左耳へマッハ十六で駆け抜ける。コンコルドも真っ青。あぁ、そういえば実家の母親がパーマをかけたらしい。きっと面白い。気が付くと話が終わっていた。無意識のうちに相づちを打てるようになったのはこの男のおかげだ。吐き気がする。

 何にせよ、今日はあの男に出会ってしまった。話してしまった。同じ時間を共有してしまった。世界がモノクロ、セピア、モスグリーンへと変わる。否、モスグリーンにはならない。シャワーをいつもより長く浴びることにする。悪夢にうなされませんように。



 「本当かよ。やったじゃないか」

友人である湖泉が、高揚した様子で顔を近づけてくる。近い。あまりにも近い。

「私に男色の気はない。もう少し離れてくれ」

大学の食堂で、私たちは少し早い昼食を食べながら話す。

「でも、そんなににこやかに話してくれてるなら、少なくとも悪い印象はないんじゃないか?」

「悪い印象どころか”への字”くらいだろう」

「へ?」

「ん?」

湖泉がもとから丸くて大きい瞳を、丸くして白黒させている。まぁ今の私には、それすら虹色に見えるのだが。現代っ子は、ほの字という言葉を知らないのだろうか。それとも私のアレンジが少しばかり分かりづらかったのだろうか。やれやれ。

「それって、彼女が?お前に?」

こいつは何を言ってるんだろうか、今の話に登場人物が二人以上出てきたのだろうか、もしそう思ったのなら、国語のドリルを買ってあげることもやぶさかでない。

「もちろん」

「いや、そんなことは無いと思うんだけどなぁ…」

「有り得ない。彼女は私にあんなにも笑いかけてくれるのだぞ」

「社交辞令なんじゃないかな」

ネガティブすぎるのも考えものだぞ、そう助言して食堂を後にする。


「本当?へー…そんな人と仲良く会話をね…」

友人である水瀬との距離を感じる。物理的ではなく、精神。いわば心の距離。あ、いや、ちょっと物理的にも離れた気がする。

「仲良くはないの。お願い、離れないで」

大学の食堂で、ワタシたちは少し遅い昼食を食べながら話す。

「でも、そんなに思ってくれる人がいるって、羨ましいけどなぁ」

「嫌いって旨を直接伝えなきゃだめかしらね」

「へ?」

「ん?」

水瀬のもとからどこか抜けている顔が、さらにどこか抜けた様子になった。可愛い。モスグリーンっぽい。これはよくわからない。

「嫌いって、あなたが?彼を?」

この子は何を言ってるのだろう。今までの会話から、どこにワタシがあの男に好意を寄せてる様子があったのだろう。昔友達がいなかったのかしら。

「もちろん」

「はぁ、いつも彼の話ばっかりだから、てっきり…」

「有り得ないわ。話してるのも社交辞令よ」

「ちゃんと話してみたら良い人かもしれないのに」

ポジティブすぎるのも考えものよ、そう助言して食堂を後にする。


「でもよー、俺その人よく知らないから分からないけど、どこに惚れたんだ?」

「会ってないから分からないけど、その人のどこがそんなにダメなの?」


「「顔」」



長い、長い。盛者必衰の理すら疑うほど長い春休みを終えて、私は二年生になった。春休みは何もなかった。見事に。我ながら凄いと思う。湖泉が何度か、うちをたずねてきた程度だ。私のアパートに新居人がきた程度だ。程度の低い春休みだった。つまらない日々が続くと、煙草の本数が増える。

「久しぶりだなー。春休みどうだった?」

「ひどいものだったぞ。それはもう」

「何かあったのか?」

若干口角を緩めて聞いてくるこいつは性格がねじ曲がっているに違いない。

「何もなかったんだよ」

「それはそれは」

落胆されても困る。

 都内、というにはほど遠い山奥、しかし東京の私立大学に通う私たちは、大学にいるときは基本的に一緒にいる。何故かはしらない。彼には友人も多数いるし(私と違って。)スタイルもいいし(私と違って。)容姿も淡麗である(私には負けるが)、しかし彼がやたらと私と仲良くしたがるのだ。まぁ私自身友人がいないので構わないのだが。

湖泉が煙草に火をつけて、思い出したように言う。

「今日お前んち行っていいか?」

「あぁ、バイトもないし別に構わない」

お互いの授業が終わった後に集まる約束を交わし、講義へ向かうことにする。

 

一年も歩いたので、さすがに飽きてきた道を友人と歩いていると、妙齢の女性が私たちの前に立ちふさがった。なんだババァ、香水がきついぜ。化粧も濃いし、ピカソの絵を取り出したようなババァだ。宗教の勧誘か。壺も買わんぞ。貴方の思う壺にははまらないのだ。

「ふふっ」

頭のなかで言った事に笑ってしまった。しかも内容がひどい。自己嫌悪しているとその女性が口を開いた。

「壺買いませんか?」

「「ふふっ」」

あまりにストレートすぎる一言に同時に笑ってしまった。こんなにいいストレートもなかなかお目にかかれない。フェザー級チャンピオンも、ドラフト一位指名投手も仰天する。

「いえいえ、僕たちはしがない学生ですので、壺を飾るスペースもお金も無いのですよ」

「あらぁ、残念です。では、少し話を聞くだけでもいかかでしょうか」

「ほう、お話とは?」

「私の半生です」

なんで壺を売るハメになったのかという経緯は気にならなくもない。

 気づいたら湖泉は大きなダンボールを持っていた。

「いや、だってさぁ…可哀想だしさぁ…」

たしかにあのババァの話術、演技、共に見事だった。さながら、成熟したアン・ハサウェイといったところか。綺麗ではないが。私も涙をこぼしそうになったくらいだ。しかし貧乏学生なのにカードローンで壺を買ってしまったこいつのほうがよっぽどレ・ミゼラブルだ。

「どうするんだ?それは。水飴でもいれるのか?」

「お前んち置かせてくれよ。うちに持ち帰ったら母親に壺に閉じ込められる」

三日間くらい入って反省すればいいのに。

家に置きたくない私と、壺に閉じ込められたくない友人の、絶妙にズレた口論が続いたまま、アパートに着いた。

「あっ」

「おっ」

「うわっ」

彼女がいた。今日も麗しい。友人が隣で「いまうわって言ってなかったか?」などと言っている。壺の効果だろうか、恐ろしいものだ。


 あの男が来た。今日も見てられない。ワタシは大人しく平穏な日々を過ごしたいのに、尽く蹂躙される。あぁまた世界がモノクロに、セピア色に、というかもう黒単色に変わる。何も見えない。しかし、今日は違った。隣にワタシの世界を色づけてくれる救世主を見つけた。

彼は一体誰なのだろう。話したくないがこの男に聞く。

「あら、その隣の方は?」

「だ、大学の友人でふ」

噛むな。

「はじめまして。僕はこの男の友人で、湖泉って言います。」

サヨナラ満塁ホームランだ。なんて素敵な人だろう。あぁ、世界が薔薇色に、虹色に、プラチナ色に変わっていく。プラチナ色とはなにかしら。

「そ、その荷物はなんなんでしゅか?」

噛んだ。

「あー、これはちょっと。大事なものなんですけど困ってまして。」

眩しい。サングラスが欲しい。日焼けサロンを開けるわ。なにこれ。隣の、モノクロを通り越してもはや黒単色の男のお陰で、少し楽な気もする。

「あ、もし良かったら中身聞いてもいいでしょうか?」

「壺です。」

つぼ。

「つぼって言うと…えぇと、足つぼとかの?」

「えぇと、さむらいかんむりに亜細亜の亜っぽい感じの」

さむらいかんむりって言うと『士』うん、これよね。それに亜細亜の亜… 

壺。

「あー、いいですよね壺。梅干しでも漬けるんですか?」

「なるほど、梅干しですか。いいですね。どうよ?お前梅干し漬ける?」

「なんで私が」

「じゃあ壺どうすんだよー」

閃いた。一瞬だけど、この人の輝きを超える光量を放ったわワタシ。

「もし良かったら、うちに置きましょうか?」

これで彼から見れば優しい女性になったはずだ。

  

 閃いた。一瞬だが、彼女を超える輝きだったに違いない。

「いや、私が引き取ろう」

これで私は「友人が困っているところを助けた友人思いの良い奴」になるはずだ。

友人は驚いた顔をしたあと、彼女に向かってこう言った。

「いや、いきなり会った人に押し付けるのは心苦しいので、ここは彼の家に置かせてもらいます」

「そう…ですか」

「しょうがないなーお前はいつもいつもー」

更に好感度上昇。ぬかりないぞ私。ぬか漬けだけにか。ふざけるなよ私。


この男はものすごいな。不細工なだけでなく、空気も読めないのか。どうせ「え?『くうき』ほら、読めますよ。」とかいうタイプだ。こっちを見るな。

この男には本来関わりたくないが、湖泉さんをみすみす逃がすのはもったいない。恋愛のセオリー通りにまずは周りから攻めるのよ。将を射んと欲すればまず馬を射よ。射るだけじゃ心配だから首も落とすべきだと思う。

 一人と一頭と連絡先を交換して、ワタシは部屋に戻った。


 「良かったじゃないか」

何がいいことがあるか。なんで貴様まで連絡先を交換したのだ。しかし壺一つで連絡先か、不思議な物々交換だ。感謝するぞババァ。

「大丈夫だって、俺は手出ししないからさ」

「当たり前だ。そんなことしたらお前を壺にいれて奥多摩に沈めてやる」

「でも、良い人そうで安心した」

「当たり前だ。私が好きになった人だぞ」

「んで、この洋風の壺で梅干し漬けるの?」

「当たり前だ。鰹節などの遊びは一切ない」

「んで、彼女におすそ分け、と」

「当たり前だ。梅干しオールナイトだ」

我ながらよくわからない。梅干しをつまみに一晩中酒をあおるのか?嫌だなそれは。

「あの人に釣り合う人になりたいなら努力をしろ。痩せろ。髪切れ。コンタクトにしろ。服に関心を持て」

そこから一晩中呪文のようなファッション用語やらなんやらを聞かされた。一キロ落ちてた。


 携帯が鳴った。私の携帯が鳴る時は、母親、友人しか有り得ない。しかし今回は今までの例を習わないようだ。いい匂いがする、気がする。

『今度一緒にお茶でもどうですか?』

なるほど。

お茶でもどうですか?というのは私が知ってる限りでは「お洒落なカフェでカフェを飲み交わしながら、談笑をしませんか」という意味なのだが、合っているだろうか。他に意味があるなら教えて欲しい。連絡先を交換して私から送ったメールは何故か返ってこなかったが、こうなってはそんなことはどうでもいい。昔から食べていた駄菓子が小さくなったことと同じくらいどうでもいい。

服はどんなものを着て行こうか。場所は彼女が指定してくれるのだろうか。お代は出すべきなのか。

 気付いたら、湖泉に相談していた。彼いわく、 "プレゼントの一つでも持って行った方がいいのではないか" という。なるほど、いや、私もその案は思い付いていた。私ともあろうものが、思い付かないわけがない。やはりプレゼントは、自分が貰って嬉しいものがいいな。幼少の頃貰って一番嬉しかったものを上げることにする。

 肝心のメールの返信を忘れて寝ていた。


 携帯が鳴った。何か嫌な予感がする。心なしか携帯から異臭がする。多分あの男からの返信だろう。

『あなたからお誘いをうけるなんて喜ばしいことです。ぜひお願いします』

でしょうね。

まさか一日置いての返信だとは思ってなかった。が、誘いに乗ることは分かってた。なに、貴様ととお茶が飲みたいわけじゃない。先を見据えたことだ。いくらでも我慢してやろうじゃないの。

 気付いたら、水瀬に愚痴を言っていた。水瀬は何かを勘違いしたように” また彼の話ですかぁ” と言っていたが、愚痴でもこぼさないと、あの男を目の前にした時、渾身の右ストレートをかましてしまいそうだ。

 

 アパートからそう遠くないカフェにやってきた。まさかワタシより遅いとは、ナメてるのかしら。


 アパート周辺をほとんど知らない私はカフェの場所がわからない。絶体絶命だ。


 こんなことになるなら、アパートから一緒に行けば良かったかしら。いや、つけあがるだけね。


 こんなことになるなら、アパートから一緒に行きませんか?と言うべきだった。いや、照れてしまうか。


 電話すればいいのよ。


 電話すればいいのだ。


 『通話中です』


 クソが。


 馬鹿な。


 スマートフォンというのは、便利なものだ。地図がある。地図を開くまでに四回ほど天気予報を見たおかげで、曇り後雨ということが私の頭に叩きこまれた。傘を買おう。えぇい、地図を見せろ。

 どうやら一〇分くらいで着くところを、一時間以上かけていたようだ。相対性理論ってこういうことなのかもしれない。アインシュタインに思いを馳せている場合ではない。貴様についてはそのうち考えてやる。今は目の前の女神のことで手が離せないのでな。

「ご、ごめんなさい。その、あの」

「いえいえ、場所をちゃんと伝えなかった私も悪いですから」

胸が張り裂けそうだ。なんでこんなにも愛おしいのだろうか。彼女は私を許してくれた。遅刻した私を、自分にも責任があると言ってくれた。次の総理大臣は彼女がいいと思う。

「ご注文は?」

「キャラメル・マキアートアドホットグランデショコラ」

「え、えすっぷれっそ」

なんだこの呪文のような品名は。どこで習うんだこんなのは。選択科目か。私が教育学を履修している間に周りの学生たちは『カフェメニュー学』でもとってたとでもいうのか。そんなことに学費を使ってたまるか。

三年生でもとれるのだろうか。


こいつは何を考えているんだろうか。いや、そんな事考えるくらいなら、最近小さくなった駄菓子のことでも考えてたほうがよっぽど生産的だ。何より今日の目的はこいつを馬刺しにすることだ。湖泉さんの彼女の有無、どこらへんに住んでいるのか、趣味、その他諸々、今日でこの男と会うのを最後にしたいくらいだ。

「そういえば壺、どうしたんですか?」

「あぁ、結局飾ってあります。何に使えばいいんでしょうか」

漬物しか思いつかない。

「や、やっぱ漬物ですかねぇ」

漬物はない。それだけはない。なんだ漬物って発想は、気持ちが悪い。さておいて確信に迫る。

「ところであの…」


 彼女はどうにも照れ屋らしい。私を目の前に据えても、友人の事ばかり聞いてくる。あれだろう、将を射んと欲すればまず馬を射よ。まずは友人を血祭りにあげる算段なのだろうが、それを私に気づかれては意味が無いぞ。おちゃめさんめ。気づいていないフリをするのが紳士的なのだろうが、少しばかりいたずらをしたくなったので聞いてみることにする。

「な、何故そんなに友人のことばかりを尋ねるのです?」


 迂闊だった。見境もなく湖泉さんの事を尋ね過ぎた。これではあからさまに馬の首を落としに来たと思われるのではないか。淑女たるもの、それではいけない。この男に悟られず、かつ彼の事を最大限に聞き出す。思えばこのミッションはなかなかにインポッシブルだったのではないかしら。

「いえ、その…」

ここを上手く切り抜ける術を私はまだ知らない。大学でそういった内容の講義があればいいのに。受講するわよ、私は。

「どうされました?」

うるさい。今考えてるんだ。どうもされてない。どうすればいいのよ。

「ほ、ほら私達まだお互いの事良く知らないじゃないですか、だから、皆で仲良くなれたらとっても素敵かなって」

言ってることがよくわからないわ私。ごまかせるかしら。かしらじゃダメよ。押し切るのよ。寄り切りよ。勝利のちゃんこ鍋をあの人と囲むのよ。

「あぁ、たしかに。たしかに、そうですね」

この男が単純でよかったわ。何の疑いも無さそう。そうね、急がば回れというし、ここは友人であるあの娘に協力してもらいましょう。美味しいパンでも買ってあげれば文句もないでしょう。五百円までなら喜んで出すわよ。


土砂降りだった。


土砂降りね。


私は傘を持っている。


ワタシは傘を持っていない。


貸そう。


買おう。


 流石に相合傘は早すぎるだろう。心臓の音が彼女に聞こえてしまう。ここは彼女に傘を貸して、私は濡れて帰ろう。なに、私は今まで風邪を引いたことがないのだ。

「よ、良かったら…その…これ、どうぞ」

傘とついでにプレゼントも渡す。タイミングもばっちりだ。


 すごく嫌ね。たまったもんじゃないわ。こいつから傘を貰うとか、千円出すから勘弁してほしい。でも、私の体裁を守るために、傘とプレゼントは貰っておきましょう。傘はコンビニで買って、こいつの傘はどこかに捨てましょう。えぇそうしましょう。あとプレゼントを渡すタイミング絶対おかしいわ。


 アパートのゴミ捨て場に買ったばかりと思しき傘を見かけた。もったいないことをする人もいたものだ。そういう人間は、嫌いだ。


 各々の友人に連絡をする約束をして、その日は床についた。


「というわけなの」

「いや、うん。パンは美味しいんだけど…え?前払い制なの?私が食べたいものとかは選べないの?」

口いっぱいにパンを頬張りながら…パンで口の中をパンパンにしながら、水瀬は言う。

「ふふっ」

「何笑ってるのー」

自分で自分を叱咤すべきだと思いつつ、まだ口の中のパンを飲み込んでいない彼女に言う。

「四人でどこかに出かけたいのよ」

口の中のパンをミルクティーで流しこんで、彼女は言う。

「別にいいよー」

思えばこの娘は優しいんだから、パンで釣るような真似をしなくても良かったのではないのかしら。五百円の損。今度返して貰うことにする。

「そういえば、プレゼントってなんだったの?」

「あぁ、思い出したくもないわ」

「聞いていいの?」

「驚くわよ。」


 遊びに行く内容を、馬にメールをして、講義に出ることにする。


「というわけなんだが」

「へぇ、良かったじゃないか。で?このアイスはそれに対する報酬ってわけ?」

アイスをを食べながら、湖泉は言う。アイスを食べながら愛する人の話をする。

「ふふっ」

「何がおかしい」

前にもこんなことが会った気がする、などと思いながら、彼に言う。

「せっかくだからお前を誘ってやらんこともない」

タバコに火をつけながら彼は言う。

「せっかくもなにも、誘われている身だからな、俺」

なんと小憎たらしいのだろうか、アイスなど買わなくても、こいつはきっと従いてきただろう。たしかにあの人も ”ご友人もぜひご一緒に” と言ってることだし、二人きりよりきっと緊張しないだろう。

「そういや、プレゼントって何をあげたんだ?」

「あぁ、それはもう。大奮発だ」

「聞いていいか?」

「驚くなよ」


女神にメールの返信をして、バイトへ向かうことにする。


 結論から言えば、特に何も無かった。退屈な時間は長いものだ。確実に向こうから愛の告白を受けるものだと思っていたのだが、シャイなのか、いや、シャイじゃない。私ではなく友人と仲良くしようとしていた。積極的にアプローチをしていたように見える。必然的に、私は水瀬さんとやらと行動を共にしていた。アレはアレで良い娘だ。それはそれとして、もしかしなくても彼女は友人に…?いやまさか、将を射んと欲すればまず馬を射よ。うん。馬を射ってるのですよ。きっと。

「絶対におかしいと思うんだ。私は」

隣の席に座ってきた湖泉に言う。

「いきなり何の話だよ」

「この前四人で出掛けた時の話だ」

「あぁ、それがどうした」

なぁにをこいつは。しらばっくれてるんじゃないぞ。腹黒か。白を切るのに腹黒とは。甚だおかしな話だ。

「お前、彼女と一緒にいる時間が多くなかったか?」

「そんなつもりはなかったけど」

「お前が彼女をそそのかしたんだろう。お前のせいだ」

「そそのかしてないし、俺のせいじゃない」

「じゃあ何のせいだというのだ」

「気のせいだ」

なんか上手いこと言われた気がした。


 結論から言うと、手応えはあったわ。楽しい時間はあっという間ね。アピールは出来た、と思うわ。愛の告白までいってしまっても良かったのだけれど、それはやはり、二人きりの時のほうがいいと脳内のワタシが判断したわ。グッジョブよ。水瀬には、あの男を押し付けてしまったようで申し訳ないわね。しかしまぁ、あの男も楽しそうだったし、いいんじゃないのかしら。それはそれで癪だけど。いやね、これじゃ嫉妬みたいじゃない。あの男が水瀬みたいな可愛い娘と話せるのなんて、きっと人生で最後だから、それに対する同情よ。

「はーぁ、楽しかった」

部屋でポツリとつぶやく。

「ナデナデシテー」

家に謎の機械音声が響き渡る。

「ひぃっ」

自然と警戒態勢にうつる。あたりを見回す。音の正体はすぐ判明した。あれだ。あの男から貰った、一昔前に流行ったフクロウと何かを混ぜたような、気持ち悪いペットおもちゃだ。初めてのプレゼントにこれを渡すあの男のセンスは計り知れない。しかし、見た目の気持ち悪さもあの男に似ている。ある意味では、ぴったしのチョイスなのではないか。電池を抜いてやろうかと思ったが、カバーの開け方がわからないので放っておく。

「ナデナデシテー」

「仕方ないわね」

これを撫でるなんて、ワタシもよっぽど機嫌がいいのね。なでくりまわしてやるわ。しかし私の手はくださないわ。子孫の力を借りるわ。

「ほれほれ」

孫の手で撫でる。もとい、掻く。

「テ、アッタカイネ」

「気のせいよ」

占いなども出来るらしく、占って貰ったら、水難の相があると言われた。本当に子供向けなのかしら?

いずれにせよ、飽きたので寝ることにする。


 そう思っていたのだが、早くも水難の相に見舞われた。天井から水が垂れてきた。おかしいな。ワタシの部屋は一階なのだけど、なんだろう、二階が水族館か何かに改装されたのかな?ジンベエザメとかはいるのかしら。見に行きたいな。いや、現実逃避している場合ではないわ。額が冷たいのよ。額が。水も滴るいいお部屋。欠陥住宅じゃない。なんなのかしら。などと柄にもなく焦っていると、人が訪ねてきた。

ガチャリ。

金髪の男が立っていた。見慣れない顔だ。いや、一度だけ…たしか四月辺りに会ったような。

「あ、ういっす。どうもっす」

なんだったのだろうかこいつの名前は。なんかこう…。流す類の名前だったような…。

「上の二階の方に住んでる御手洗っすけどぉ」

そうそう、トイレ。

「さては覚えてないっすねその顔、反応。やれやれっすわ。まぁ仕方ないっすよねぇ。自分夜いないっすからねぇ。でも同じアパートの住人なんだから覚えてくれても良かったじゃないっすかぁ。つか結構へこんでますわぁ。改めて自分、自己紹介させてもらいますわ」

何を一人でペラペラ長々チャラチャラグダグダと。こうしている間にも、ベッドの上の新聞紙はどんどん含有量を増やしていっているというのに。

「丁度お姉さんの上の部屋に住んでいる御手洗香っすよ。四月に引っ越して来たじゃないですかぁ」

そうそう、芳香剤。

「それで、御用はなんですか?ワタシ今少し忙しいんですけど」

「あ、そうっすよね。水とかなんか垂れてきてないっすか?」

「え?あなたのせいなんですか?」

「そうっちゃそうっす。でも違うような気もします。そうだけど違うんすよねぇ。惜しいっす」

くどい。

「いや、なんかトイレぶっ壊れてぇ、部屋が水浸しなんすよねぇ。ビックリっすよね」

彼にトイレの神様はついていないようだ。御手洗なのに。体を張って笑いを取りに来たのだろうか。

「それで様子を見に来たってわけですわぁ」

解決策を持ってこいよ芳香剤。

深夜にトイレの使徒と変な口論を続ける。 



 眠りを妨げられるのは嫌いだ。セロリより嫌いだ。今日は夕飯に行ったファミレスで頼んだスープにセロリが入っていた。そして今眠りを妨げられている。なんだろう。幸運操作委員会かなにかがあって、それによって、私の幸せは奪われているのではないか。そしてどこぞの金持ちとかに与えられているに違いない。不公平だ。それにしてもうるさすぎる。彼女に何かあったのだろうか。それはいかん。助けに行かねば。

私は布団から跳ね起きて玄関を飛び出した。飛んだり跳ねたり忙しい男だな私は。


外に出ると、金髪の男と彼女が口論していた。あの金髪の男は見覚えがある。たしか消臭力みたいな名前だ。何より話を聞いてみるほかない。

「あ、あのどうされました?」

「あ、うっさかったっすよね。マジ申し訳ねぇっす」

「御手洗さんのお部屋の、お手洗いが壊れて、ワタシの部屋に水が漏れてきているんです」

一大事だ。二大事だ。それどころか三大事くらいであろう。数が増えれば、大事の度合いが上がるかどうかは知らない。

「それは大変じゃないですか。えっ、お部屋は大丈夫なのですか?」

「今は、新聞紙で応急処置を施しましたが、それももってあと数分でしょう」

「どこから垂れているか、確認してもいいでしょうか」

言った後に気づいた。下心が見えてしまったのではないか。欲がよく見えるってやかましいわ。

「えっ」

彼女が明らかに動揺した。はやく訂正しなくては。

「あ、いえいえいえいえいえ、そんな、他意はなくてですね。ただ現状を確認したいなぁ、といいますか」

「マジテンパり過ぎじゃないっすか。超面白いんすけど」

黙れブルーレット。


 この男を部屋に入れるのだけは死守したい。そんな事になったら一大事だ。いや、大事だ。きっと大事の方が、大変だ。何が何だかわからなくなってくる。

「修理とかは大家さんに明日電話するので大丈夫なんですが、それまで新聞紙がもつわけがないので、せめて水を溜めとく物があればいいんですけど」

「何かお皿とかはお持ちでは無いのですか?」

「何いってんすか。お皿がお餅ってイミフっすよ」

「君は何を言っているんだ。あ、そうだ。もし良かったら、私の部屋にある壺つかいますか?」

あぁ、そうだ。こいつの家には、湖泉さんが買った壺があったんだ。これ幸いと利用させていただこう。

「あ、それはありがたいです。貸していただけるんですか?」

「も、もちろんです!あ、でも、今中に梅干しがたくさんありまして…」

「なんで壺なんてもってるんすか。壺マニアっすか。やっべ」

「梅干しって日持ちしませんもんね」

「あ、じゃあ今から三人で梅干しつまみに呑みましょうよ!ウチ酒超あるんすよぉ。何かの縁っすから。ぜひ」

なんでワタシが、こんな二人と呑み明かさなければならないのだ。しかしベッドも使えないし、何より壺を借りるという事に、恩を感じないわけではない。湖泉さんに。

「ふふっ。良いですね。それ」

「ほ、ホントですか!?」

「じゃあ自分酒取ってきますっす!うわぁなんかテンション上がってきた!水漏れバンザイ!」

黙れトイレマジックリン。



 私は思った。


 ワタシは思った。


 意外と、彼女と私は、合わないのかもしれない。


 意外と、この男とワタシは、合うのかもしれない。


 嘘をついて話を合わせた。


 すんなりと話が合った。


 長い夜が明けた。


 あっという間に朝が来た。

 

 「なんてことがあったんだ」

湖泉が照れた様子で、こう言った。

「へぇ、なんてことがあったのか。それは、面白いことだな」

私には何にも面白くない。他人の異性との交友関係などというのは、実にどうでもいい。煙草がすすむ。

「いやさぁ、これもなにもかもお前のおかげなんだよな」

コイツに奢ってもらったアイスを食べる。

湖泉が言うこれとは、水瀬さんのことである。何を隠そう、隠してはいないが、湖泉と水瀬さんは、あの後も二人で連絡を取り、デートをし、甘酸っぱい思いを甘ったるい言葉で伝えて、胃もたれしそうなほど愛し合っているのだ。ご苦労なこった。

「さ、お前も頑張れよ。恋っていうのは良い物だ。早くこっち側に来い」

奴の発言のおかげで、初夏だというのに風邪を引きそうだ。



 「ってことがあったの」

水瀬が照れた様子で、こう言った。

「へぇ、そんなことがあったの。それは、面白いわね」

ワタシには何にも面白くない。たしかに水瀬にはワタシが湖泉さんの事を好きっていうのは伝えていない。彼女は悪くない。彼も悪くない。何も悪くない。やりきれない。世界がモノクロ、セピア、ダークブルーへと変わる。彼女たちの世界は、今薔薇色なのね。幸せなこった。

「それじゃ、あなたも頑張ってね。今、とっても幸せなの。あなたにも幸せになってほしいな」

あの子の発言のおかげで、梅雨でもないのに地面に雫が落ちた。



 午後の講義を自主休講して、帰宅する。出た所で、きっと何も頭に入らないだろう。幸いもう涙は出ない。帰り道に人に見られても大丈夫だ。しかしこの男にだけは会いたくなかった。にこやかに声をかけてくる。察しが悪い。

「あ、こんにちは」

「あぁ、どうも」

「いいお天気ですね」

「でも、雨が降るって水瀬は言ってました」

「私は傘を持っているんで大丈夫です。あ、もし良かったら家まで一緒に帰りませんか?」

「別に、良いですよ」

ヤケになった訳ではない。この男も叶わぬ恋に苦しんでいるのだろう。親近感も自然と湧いてくる。悟りを開いた気分だ。


ぽつ、ぽつ、ぽつり。


 雨だ。雨が降ってきた。昼間はあんなに暑かったのに、奴からもらったアイスもあっという間に溶けてしまうほど。前にもあったな、彼女が傘を持っていなくて、私は持っている。

「降ってきましたね」

「そうですね」

「入りますか?」

「いいですか」

「どうぞ」

「ありがとうございます」

不思議と前ほど緊張せず、噛むことも無かった。

ビニール傘からお互いの肩を少しはみ出したまま、帰路を往く。


 ワタシは喋らない。特に話すこともないので、というのもあるが、何より気分が落ち込んでいるのもあるだろう。この男も喋らない。緊張しているのか。口下手なのか、はたまた両方なのか。もしかしたら口臭を気にしているのかも知れない。そんな事を気にすることもないのに。

「そういえば」

「はいっ?」

不意を突かれたので、声が裏返る。恥ずかしい。

「以前貸した傘がありますでしょう?」

男は、顔もこちらに向けず、続ける。

「あれ、邪魔だと思うので、引き取りますよ」

たしか捨てたんだけども。どう切り抜けようか。

「あー、大丈夫ですよ。そんな邪魔になってないですし」

「しかし見たところ、玄関先に傘立てもないので、室内ですよね。それは少し申し訳ないのですが…」

意外な所をしっかり見ているのね。優しすぎるわよこの男。

「あ、いえ別に、無理にというわけではないので、構いません」

男は、こちらに向かって微笑んだ。何かに気づいたように。

その後味の悪い表情を最後に、会話はなかった。


 自宅に帰ると、実感とともに果てない悲しみが襲ってきた。ワタシは、こんなにもあの人の事が好きだったのか。あんなに泣いたので、もう出ないと思っていた涙が、また流れていた。

「思っている以上に、弱いのかしらね」

ふとつぶやく。

「ナデナデシテー」

「ひぃっ」

声のする方を見ると、分かっていたが、あの男から貰った、あの男に似ている例の人形だった。

「ナデナデシテー」

「撫でて欲しいのは、ワタシの方なんだけどね」

「ファー」

「うりうり。どうだ。気持ちいいか」

「ゲンキナイノ?」

言葉を失った。読んでいるのか。心を。訳が分からなくなって、とにかく撫で回す。

「ゲンキダシテー」

まさかこいつに励まされるなんて。

「うふふふ、あはははははは!」

おかしくなったわけじゃない。おかしいのだけれど、ファニーであって、クレイジーではない。

「ありがとね。元気でたわ。」

「ファー」

小憎たらしいこの人形の顔と、あの男の顔が重なって見えた。見た目は悪いけど、中身はとても純粋なのかもしれない。優しいのかもしれない。自身は濡れても傘を貸してくれた事があった。水漏れをした時、壺を貸してくれた事もあった。的はずれなプレゼントも、これを見越してくれたのかもしれない。さすがにそれはないとしても、これのおかげで救われた。ついでだけど、梅干しも美味しかった。

なんだ、嫌いになる理由なんてないじゃない。顔が悪い?関係ないわ。優しいもの。何が悪いというのよ。顔よ。悪いのは。大事なのは、中身。そう、ようやく気づいたわ。長かったわね。お母さん。ワタシは成長しました。


 そして、恋をしました。


 バイト中、彼女のことを考えていた。間違いない、あの日捨てられていた傘は、私のだ。そして間違いない、彼女は、湖泉の事が好きだったのだ。それどころか、私のことは、侮蔑の対象だったのだろう。あぁなんてことだ。とんだピエロじゃないか。顔が良ければ中身も良いという、私の定説はどうにも間違っていたらしい。そう考えると、出来ればもう会いたくもない。嫌になる。母さん、私は成長しました。


 そして、恋が終わりました。



 今日は不運なことに、隣人とはち合わせてしまった。



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ