4.恋心
寝込んだ姫君の見舞いにと、マテウスが訪問したのは、実に数時間後、すっかり夜の帷も降り切った頃であった。
マテウスは、まず神妙に、急な申し出で驚かせてしまったことを謝罪した。
「……しかしながら、自分と一緒になるのは姫君の本意ではないでしょう。これ以上辛いお役目を負わせるわけにはいかない」
言いにくそうに、けれどもきっぱりと口にする。すると、伏せったまま黙って聞いていたエルナ姫が、勢いよくガバっと起き上がった……そして、咽せた。
ゴホゴホと辛そうな咳を繰り返しているその背中をさすって差し上げるべきか、マテウスは悩んだ。結局姫君の背の薄さと、自分の分厚く傷の多い手のひらを幾度か見比べ、唇を引き結んで、静かに手を下ろした。
ようやく咳き込みがおさまったエルナは、薄く上気した顔のまま、マテウスの方に向き直る。
「閣下――いえ、マテウスさま」
「はい」
「わたくしは、貴方様を心からお慕いしております。此度の結婚は、わたくし自身が望みました」
「……まさか、そんなはずは」
驚き、首を振るマテウスに、エルナはさらに言い募る。
「ほんとうです!父上と兄上に散々無理をいって、ようやくお許しいただいたのです!」
マテウスは、驚きのあまり硬直した。なす術もなくエルナを見つめ続けていると、柳眉がくしゃりと寄せられ、エルナは今にも泣きそうな顔になった。
「……本当は、本当は良くないと……わたくしのようなひ弱な女では、閣下の妻に相応しくないと、頭では分かっておりました」
掠れた声で呟くエルナの目には、うっすらと涙の粒が浮いていた。
「それでもわたくしは!……自分の欲を優先し!己が家の権力を笠に、閣下との結婚を、無理矢理に……!」
くっ……と歯噛みしながら、罪の告白のようにエルナは胸の内を吐き出した。
「む、無理やりだなど、誤解です姫さま」
ようやく硬直が解けたマテウスが、両手をあげたり下げたりと落ち着かなく動かす。
「おれ、いや、わ、私は、……あなたを妻に迎えられると、その、天にも登るような心地で……それこそ奇跡が起きたのだと……」
言い募るうちに恥ずかしくなって、マテウスの顔はどんどん赤くなっていった。
「ほんとに?本当にそう思ってくださるの?」
涙の浮いたエルナの瞳に見上げられ、マテウスはゴクっと唾を飲んだ。潤んだ視線に狼狽え、そして、腹を括った。
「……かつて、姫君が幼い時分、訓練所を御訪問くださったこと、覚えておいででしょうか?」
「ええ、もちろん……」
エルナは力強く頷いた。筋肉の祭典とも言える場所に最初に触れた記念すべき日である。忘れるわけもない。この世にこんなに隆々の男臭い世界があるなんて。まさに物語や神話に出てくる英雄ひしめく場所……!などと、いたく感動したものだ。
マテウスは真面目な顔で、しかし頬も額も赤くして、俯いた。
「まだ若造の自分は、幼き貴女様をお見かけした時から、忘れられずにおりました」
「えっ……」
耳も首までもが赤いマテウスは、絞り出すような声で言った。
「……この世で最も、美しいものを見た、と……」
「……はわ……」
感動のあまり、エルナの口からは間抜けな声が漏れた。どくりどくりと耳の中で血の巡る音がうるさい。
二の句を告げないでいるエルナの眼前で、マテウスは顔を上げた。首まで赤いその顔は、恋を知ったばかりのただの若者のように見えた。無骨な指が、恐る恐るといったふうにエルナの頬に添えられた。
「……あなたが、真に私の妻になってくださると……そう思って、本当によろしいのか」
エルナもまた、青白い頬を薔薇色に染めていた。目元まで赤く色づいた顔で、力強く頷いた。
「どうか、どうか貴方様の妻にしてくださいまし……」
見つめあった二人は、どちらともなく顔を近づける。そっと、触れ合うような口付けをかわした。
「……閣下が触れてくださるのは、結婚式以来ですわ」
エルナは、恥ずかしそうにはにかんだ。途端、カッと目を見開いたマテウスは、姫の後頭部を抑えるようにして深く口付けた。
「……!」
深く絡めた舌の熱に驚くエルナが、微かに喉を鳴らす。一瞬唇が離れ、次いでマテウスは姫の体を押し倒した。
(近い!息がっ!ああっ、汗の匂い!!!こんな近くで!お顔を!あっダメ心臓が飛び出ちゃう!)
こんな時でも脳内が大騒ぎなエルナは、ドクンドクンと早鐘を打つ胸を必死で抑えながら、期待を込めてマテウスを見上げた。対してマテウスは、どこか悲壮な表情で、眉根を寄せていた。
「……貴女を壊してしまいそうで、怖い」
息を乱しながら、将軍は掠れた声で呟く。その声が興奮とは違う震えを帯びているのに気づいて、姫はハッと息を呑んだ。
(――ああ、わたくしは、この人のこういうところが、たまらなく好きなのだ)
誰もが恐れ敬う鋼の肉体に、繊細なガラス細工のような心を持っている。両肩の近くに置かれた手は、決してこちらに体重をかけないようにしている。わずかに触れている指が小さく震えていた。
――この方は、本気で恐れているのだ。
エルナの胸がきゅう、と切なく締め付けられた。
エルナは、マテウスの顔に手を伸ばし、そっと頬に触れる。精悍な額に残る大きな傷跡を優しく撫でた。
「どうなっても構いませんわ、マテウスさまになら……」
言い切る前に口を塞がれた。
そして夜も更けた頃、半裸の将軍が血まみれの姫君を抱えて寝室から飛び出し、家中大騒ぎで医者を呼ぶはめになった。
『初夜』は半分成功半分失敗、途中で姫が盛大に鼻血を出して気絶した……という説明をしどろもどろにするマテウスの前で、眠そうな顔の医者は、眠る姫君の鼻に真綿をぎゅむぎゅむと詰めながら、頷いた。
「はぁ、なるほど。そりゃ血の巡りがよくなり過ぎたんでしょうなぁ」
「最低だ、おれは……顔色が良くないとわかっていたのに……とめないで、とあんなにも切ない声で言われて……それで、夢中になって……気がついたら、姫が……姫が、血塗れに……」
動揺しすぎたマテウスは、恥ずかしいこと言ってる自覚などなかった。医者はずっと半目で「はぁ、そうですか」だけを繰り返した。
(ひぃーーーーやめてぇーーーー!!マテウスさま!もうなにも仰らないでくださいまし!!!!)
ベッドに伏せったエルナは、半泣きのまま、必死で寝たふりを続けた。
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