1.婚礼の日
エルナは、震える息をようやく吐いた。
(ついにこの日が来てしまった……)
お付きの侍女たちが忙しなく動き回っている室内で、繊細な意匠の飾りを髪に編まれながら、エルナは胸元に手を当てる。鼓動の音がいつもより大きいような気がした。
本日はめでたくも、辺境伯の末娘であるエルナ姫と、若くして常勝将軍と称えられる武人との婚礼の日である。
隣国からの絶え間ない侵略の中、颯爽と現れた稀代の英雄。歴戦の傷が残る精悍な顔、低くもよく通る声、思慮深く物静かな態度、そして何よりも、筋骨隆々な肉体!飛び散る汗……!思いを馳せるだけで興奮は一気に最高潮だ。
(彼の方と、けっ、けっ、結婚……!結婚してしまうっ!ついに!!)
知らず、はぁはぁと息が荒くなる。ドキドキが止まらないどころか動悸がしてきた。
「姫さま、顔色がお悪うございます」
「まぁ姫、もう少し頬紅を差しましょうね……」
心配そうな侍女たちが、次々手を伸ばし、エルナの身支度を整える。ありがとう、と掠れるような声で礼を言ったエルナの胸中を、不安がよぎる。
――わたくし、式の最後まで立っていられるかしら。
虚弱に生まれついたエルナにとって、普通の婚礼の儀式でも大仕事だ。
エルナが着ている婚礼衣装は、地味で軽い、貧相な体がそのまま浮き上がるようなストンとした薄いドレープのドレスである。流行りのボリュームあるドレスはとてもじゃないが着こなせない。重いのだ。
地味とは言え、上等な生地を使い、煌びやかな刺繍も施されてはいる。しかしそのシルエットの、まるで細枝のような頼りなさときたら。つくづく自分が嫌になる。
けれども、ほんの数時間ばかり、彼の方の隣に立つために皆が全力を尽くしてくれたのだ。エルナはどうにか自分を納得させた。
(……将軍閣下も着飾られていらっしゃるのよね。一体どんなお姿なのかしら……あっダメ想像だけで動悸がしちゃう)
ウッと息を呑みこんで、エルナは思わず口元を抑えた。
「お加減がよろしくないのですか?」
「いえ……緊張してしまって」
心配そうな侍女に向けて、ゆるゆると首を振る。
その時、戸が開いた。
お時間ですよ、と声がかかる。エルナはそっと頷き、それから侍女たちが恭しくベールを頭上に掲げるのに合わせ俯いた。
一目その姿を見た途端、カーッと頭に血が上って、エルナは気を失うかと思った。
無骨な戦時の装いとも、訓練での簡素な装いとも全く違う、煌びやかな礼装の若き将軍が、生真面目な顔で立っている。無精髭をすっかり綺麗に剃り落とした顔は、いつもよりずっと若く見えた。撫で付けられた髪は、額に残る傷跡を目立たせ、より精悍さに拍車をかけていた。飾り紐も勲章も、飾りボタンも、キラキラに輝いている。
(さ、最高……神さまありがとう……これからは朝晩決してサボらず祈ります……)
エルナはそっと胸を抑えて天を仰いだ。ともすれば、ふうっと意識が遠のきそうになる。感動の涙を薄ら浮かべ、エルナはこの世の全てに感謝した。
挙式の間、隣に立つ将軍の圧を感じるだけでドキドキが止まらなかった。まるで灼熱の太陽のそばにいてじわりじわりと炙られているような気分だった。逞しく煌びやかな姿を僅かに盗み見るだけで、体温が上がる。
(ああ、もっとじっくり、ゆっくり、正面から閣下のお姿を堪能させていただきたかった……)
婚礼の聖句も耳から抜け落ち、半ば上の空で返事をしながら、エルナは脳裏に焼きついた姿を何度も見直し、そして隣に本物がいることを思い出し、震えた。
エルナがちら、と横目を向けると、逞しく豊かな胸板がちょうど目の高さにあった。
エルナは、静かに目を見開いた。
(でっっっっっ……?!?!はぁぁぁあ!!)
思わず肩が揺れるエルナとは対照的に、将軍はほとんど身動きもせずピシリと立っている。けれどもその胸元の金ボタンは今にも弾け飛びそうなほどに、ギチギチと布地を引き攣れさせていた。呼吸に合わせて微かに上下するたびに、ミチミチ、と衣装の悲鳴が聞こえる気がした。
(閣下!!!どうかその服の皺の隙間に指を入れさせてくださいまし!!!)
エルナは、胸の前で組んだ両手をワナワナと震わせた。くっ、と小さくうめくと、細く息を吐く。そうして、どうにか荒くなる鼻息を抑えた。力を込めて両足を踏みしめていないと、このまま倒れてしまいそうだった。
――その晩、せっかくの初夜だというのに、昼間の疲れから熱を出してしまったエルナは、あまりの悔しさに枕を濡らした。




